「2週連続遠征、まずは関西遠征記(その8)」のつづきは、関西遠征2日目・京都編です。
私の京都訪問は、2013年のゴールデンウィーク以来(旅行記のダイジェストと記事)で、「狩野山楽・山雪」展を観に行った京都国立博物館(京博)では常設展示館
の建て替え(& 正門の修復)工事が終盤
にさしかかったところでした。
そして、ようやく去年9月に常設展示館が「平成知新館」としてオープンしたわけで、十数年ぶり
に常設展示を拝見するべく、京博へと向かった次第です。
京都駅に着くと、荷物をすんなりと駅のコインロッカーに放り込み
、いつものように観光案内所からガイドマップをget
し、市バス
に乗って、京博に到着
まずは、旧本館・明治古都館(の建物)を鑑賞いたしました。
一見、洋風の建物で、破風にはギリシャの古代建築にありそうな人物像の浮彫が施されているのですが、このお二人のお顔つきは、、、、
和風なんですなぁ(写真
は2年前に撮ったもの)。
一方の平成知新館は、
現代的な建物です。
エントランスを挟むように浅い池が配されていまして、
この風情、格子風のデザインといい、東博の法隆寺宝物館と相通ずるものが感じられるわけですが、それもそのはず、この平成知新館も東博・法隆寺宝物館も、谷口吉生さんの設計によるものです。
この池の中に妙なものがありました。
二重の輪が沈んでいます。
噴水ではありません。
この「二重の輪」は、池の中だけでなく、アプローチにもありました。
実はこれ、方広寺大仏殿の廻廊の柱が立っていた場所を示しているのだそうです。
現在の京博界隈の地図はこんな風になっています。
南から、蓮華王院(三十三間堂)⇒京博⇒豊国神社⇒方広寺と並んでいます。
今でこそ、方広寺は大坂の陣にきっかけ(口実)になった鐘銘事件で鐘ばかりが有名
ですが、もともと大仏の寺、あるいは豊臣秀吉の寺として京都のランドマークになっていた寺で、17世紀前半に描かれた洛中洛外図
(例えば、舟木本とか勝興寺本とか池田本とか)では、東の方広寺(豊臣系)と西の二条城(徳川系)が左右に配されるのが定番だったようです。
洛中洛外図屏風 勝興寺本の右隻・第一~第二扇の上部には、方広寺大仏殿(左)と豊国神社(上)と三十三間堂(右下)が描かれています。
そして、現在の京博と当時の方広寺との位置関係はといいますと、
京博・平成知新館はすっぽりと方広寺大仏殿の伽藍の内側に入っていたんですねぇ。
いや、それもそうですが、方広寺の正門たる南大門は、三十三間堂のさらに南にあります。
蓮華王院・三十三間堂のサイトによれば、
当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたのです。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重文)が残ります。
というわけで、豊臣家は、平安時代末期に後白河上皇が建てたという由緒あるお堂をも呑み込んで方広寺の伽藍を築いたんですな。
その当時を偲ぶよすがとして、京博には伽藍の柱の位置が「二重の輪」で示されていると同時に、大仏殿南之門から南大門へと繋がる道のあとが示されているというわけです。
そして、そもそも京博の南門が、この方広寺の「南北軸」上に作られていたことを初めて知った私でございました。
ところで、ここでひとつ疑問が・・・。
それは、大仏殿が、正門たる南大門からの「南北軸」と直角に、西面しているということ。
奈良の古寺では、御本尊はみんな南面しているというのに、方広寺の大仏はどうして西面しているのでしょうか?
と、気がつくと、東山にあるお寺の本堂・法堂は、清水寺も知恩院も南禅寺もみんな西面しています(建仁寺の法堂は南面)。
もしかすると、洛外の東山は、西側の洛中を向くのがデフォルト(初期値)だったのかもしれませんねぇ。
そういえば、京博も、本館・明治古都館も正門も西面しています。
ちなみに「京博の正門」は、
正門は、一般のお客様の退館及び、団体でご入館される観覧券をお持ちのお客様の入退館専用となっております。
で、一般客は南口から入門することになっています。
あ、そうだ
京博の屋外展示の中に、方広寺大仏殿由来のモノがありました
(写真は2年前に撮ったもの)
巨大な鉄の輪でして、これは、方広寺の大仏様が着用していたブレスレット、、、、であるはずもなく、説明板
には「方広寺大仏殿所用鉄輪」とありました。
ただ、これだけでは何に使われたか判りませんが、英文表記では、
Iron Ring
Fron the Column of the Great Buddah Hall, Hoko-ji Temple, Kyoto
とありまして、大仏殿の柱の補強材だったことが判ります。
この鉄輪の大きさからも、大仏殿、そして鎮座していた大仏の大きさが偲ばれます。
なかなか先に進みませんが、きょうはこれまで
つづき:2015/09/08 2週連続遠征、まずは関西遠征記(その10)