新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-4

2023-10-21 16:18:08 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-3」のつづきです。

東大寺上院地区か猫坂を通って大仏殿回廊横まで降りた私は、大仏殿の裏手を通って、戒壇堂を目指しました。

大仏殿の裏は、芝生の上に講堂跡の礎石が残っていて、鹿せんべいよりも孤独を愛する鹿たちの憩いの場になっています。観光客も少ないですし…。

ここに、「東大寺 講堂・三面僧坊跡整備事業」と題した説明板がありました。

ここは、講堂とその東・北・西の三方をコ字状に囲うように建っていた僧坊の跡です。講堂は僧侶が仏教の教義を学ぶための建物で、僧坊は僧侶の住まいです。中央の講堂の礎石(柱を支える石)がよく残っています。
長い間に、講堂跡と僧坊跡の間を流れる川による浸食が進んでいるため、護岸の工事を行います。さらに、今後予定している発掘調査の成果に基づいて、遺構を表示するなどの整備を、令和10年度(2028)の完成を目指して進めます。

大仏殿の裏には、それこそ「小川」が流れているのですが、その川の小ささに反して、両岸はけっこうな高低差にえぐられています。
そりゃ創建から1300年近くも経てば、地形も変わってしまいます。
整備事業の完成を楽しみに待ちたいと思います。

大仏殿の北西角を左折してちょいと進むと、大仏殿を囲む石垣前に、いかにも「臨時楽屋口」といった風情の「受付」があって、

さらに、大仏殿回廊の脇に大型車4台が止まっているのが見えました。
2台は電源車で、

もう2台は、今年2月に横浜アリーナでも見かけた映像収録班(と呼ぶのかは知らぬ)の車両でした。

そして、スロープと呼んでもよい緩やかな石段を降りると、下の地図で「タクシー降車場所」と表示されている場所がありまして、大型ワンボックスのハイヤが数台駐まっていました。
「MISIA PEACEFUL PARK」出演者の皆さんは、ここまでクルマでやって来て、石段を昇って、あの臨時楽屋口から大仏殿エリアに入るのでしょうねぇ

勧進所の前を通り過ぎ、戒壇堂が見えてきたところで振り返ると、塀越しに校倉造り勧進所経庫の一部が見えました。

この勧進所と呼ばれるエリアは、江戸時代大仏と大仏殿(現在の大仏さまと大仏殿)再興に尽力した公慶上人が一院を建て、復興の寺務所としたところだそうで、ここには、経庫(平安時代前期からあった)のほか、指図堂鐘楼公慶堂阿弥陀堂八幡殿などが立っているらしい。
そして公慶堂には公慶上人坐像阿弥陀堂には「アフロ仏」こと五劫思惟阿弥陀如来坐像八幡殿には僧形八幡神坐像が祀られているだそうです。

このうち、快慶作の国宝・僧形八幡神坐像は、もともと手向山八幡宮のご神体だったものの、明治初期の神仏分離のため、東大寺に「移籍」したらしい。八幡宮から八幡神像追い出してどうする という感じですが、ご神体「僧形」というのが、神道派の癇にさわったのかもしれません

   

さて、約6年ぶり3度目戒壇堂です。(最初=2016年の訪問記)

前回の訪問は2017年10月でしたが、戒壇堂では2020年7月から保存修理・耐震化工事のため拝観が停止され、この後、四天王像東大寺ミュージアムで公開されていました。
その工事も完了し、四天王像戒壇堂に戻られ、10月1日から拝観が再開されたばかりです。

四天王像とは2020年12月に東大寺ミュージアムでお目にかかって以来、3年ぶりでした。
改めて4像を拝見すると、4像それぞれのポーズが、バランス良く見えるように作られていることが判ります。
須弥壇向かって左側の増長天と広目天左足に、右側の持国天と多聞天右足(つまりすべて内側)重心を置いています。
また、左奥の広目天と右手前の持国天片手を伸ばして片手は腰のちょい上に構え、右奥の多聞天と増長天右手を挙げて左手は腰より下にあります。
増長天だけが阿形というところだけが異色ではあります。

戒壇堂のリーフレットには、

(戒壇堂)創建時の四天王像は銅造であったが失われ、現在の四天王像は寺内の中門堂から移されたものといわれる。

とありますが、「寺内の中門堂」とは?

こちらのサイトには「東大寺辞典」からの引用として、

東大寺中門堂は東大寺にあった観音堂。本尊は十一面観音。平安時代中期に建立現在の指図堂の位置にあった。法華堂と共に堂衆、禅衆と呼ばれる僧侶が拠点とした。永禄10年の兵火で焼失して廃絶

とあります。
また、東大寺HP指図堂の説明には

現在、指図堂の建つ地は、平安時代に創建された中門堂の跡地で、永禄10年(1567)三好・松永の乱でこの堂舎が大仏殿とともに焼失すると、しばらくは空地となっていた。それから100年余りを経た江戸時代初期、大仏殿三度目の復興の気運が盛り上がり、この辺り一帯は復興事務所ともいうべき勧進所の建物群が立ち並んだ。その折、この中門堂跡地には大きな板絵に描かれた「指図」すなわち大仏殿の計画図面を展示するお堂が建てられた。指図堂という名称はこのことに由来するという。

とあります。

戒壇堂は、治承4年(1180)[南都焼き討ち]、文安3年(1446)、永禄10年(1567)[三好・松永の乱]三度火災に遭ったということですから、四天王像は、平安中期どこかからか現在の勧進所エリアにあった中門堂に移され、1180年か1446年の戒壇堂の火災のあと、すぐ近くの戒壇堂に移されたと考えられます。
ただ、三好・松永の乱では、中門堂も戒壇堂も焼け落ちていますから、そのとき四天王像はどこにいらした?というなかなか大きな疑問が残るわけですが…
「#2-2」で書いたように、戒壇堂の四天王像は、法華堂で不空羂索観音をお守りしていたと考えられているそうですから、法華堂⇒?⇒中門堂⇒?⇒戒壇堂と引っ越しを繰り返した理由と併せて、であります

戒壇堂の拝観を終えると、時刻は11:30
ここで昼食かたがた、一旦、東大寺を離れることにしました。

水門町入江泰吉旧居の前を通り、まだ一度も入ったことのない依水園・寧楽美術館吉城園の前を通ってバスターミナルのところで登大路に出て…。
このルートの一部を、この日の夕方に、再び同じ方向に歩くことになろうとは、知るよしもない私なのでした

つづき:2023/10/23 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-5

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