「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-3」のつづきです。
郡山城追手門の裏手、二の丸の一段高い場所に立っていたこの建物、
これは、旧奈良県立図書館の建物だそうで、説明板によれば、
この建物は、明治41年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内(現在の県庁の南側に建てられた奈良県最初の県立図書館です。建設当初は奈良県立戦捷記念図書館と称し、本館は南向きに建てられ(現在は西向き)、背後に煉瓦造りの書庫や木造の附属屋が接続していました。昭和43年(1968)、本館のみがここ郡山城内に移築され、以降、市民会館や教育施設として利用されてきました。
だとか。
「奈良公園内(現在の県庁の南側)」というのは、興福寺の敷地の北東角なのかな
でもこの場所で「南向きに建てられ」というのはあまりに不自然だな…
もしかして、登大路の北側に、奈良県庁と登大路に挟まれる感じで建っていたのかもしれません
ネットで情報を探したところ、旧奈良県庁舎(1895年竣工)は、現庁舎(1965年竣工)の東側、つまり、現在のバスターミナルの辺りに立っていたわけで、旧奈良県立図書館は、上のGoogleマップで「EV充電スタンド」とある辺りに、登大路に面して、県庁と並んで立っていたものと推察されます。
奈良県のサイトから旧県庁舎の写真を拝借しましょ
この建物と旧奈良県立図書館が並んでいる光景(1908~1965)を想像すると、なんだかワクワクする私です。
旧奈良県立図書館の設計者は、奈良県技師の橋本卯兵衛という方だそうで、この窓のデザインとか、ナカナカ
です。私、唐破風は嫌いですけど…
この左右対称で正面に唐破風の車寄せを持つデザインは、奈良国立博物館(奈良博)の裏手に春日大社の参道(三条通り)を向いて(南向き)建っているこちらの建物と似た雰囲気を漂わせています。
こちらの建物は奈良博の仏教美術資料研究センター、この記事で書いたように、1902年に、建築史家・関野貞の設計により、奈良県物産陳列所として建てられたもの。
時期的にも場所的にも近い
ちょっと整理すると、
1895年 旧奈良県庁
1902年 旧奈良県物産陳列所
1908年 旧奈良県立図書館
と、明治末期の奈良公園周辺には、和風テイスト溢れる公共建築物が相次いで建てられたことになります。
ここで気になるのは、旧奈良県庁に先立って1894年に竣工したこちらの建物です。
国宝迎賓館赤坂離宮(訪問記)を手がけた宮廷建築家にして、奈良・京都・東京の国立博物館の設計をコンプリート
した片山東熊による奈良国立博物館(ぶつぞう館)です。
片山内匠頭(ホントの役職)は、「これからは本格的洋風建築の時代じゃ」と意気込んでいたはずなのに、周辺にあとから建てられる建物は前記の3件のみならず、東京駅丸の内駅舎を設計した辰野金吾さえも、見かけは和風の奈良ホテル(1909年竣工、片岡安との共同設計)を作ってしまうしで、「振り向いたら誰もいない」状態
もっとも、そんなことや奈良市民からの不評なんぞ気にしないのが建築家の建築家たる所以(私見です)なわけで、片山内匠頭は次々と洋風建築を設計し続けたのでありました。
ずいぶんと脇道にそれましたが、旧奈良県立図書館は、土日祝日のみ、それも1階ホールだけ、見学できるようでしたが、私はパスして、郡山城本丸を目指しました。
本丸に向かって歩いて行くと、石仏や石塔が集中して立つ場所がありました。
そんな中に、「両面石仏」という説明板のある石仏がありまして、その両面を1枚の写真にしますとこんな具合。
昭和48年(1973)、郡山城本丸石垣より出土した。
奈良などの寺院から、石垣の転用材としてここに運ばれたものであろう。舟形の石材(花崗岩)の両面に、浮き彫り(薄肉彫り)で像容を表す。上端部が欠損しており、現状で高さ65cmを測る。片面は中央に大きく十王の一人(泰山府君)の坐像が彫られ、向かって左側に金棒を持つ鬼、右に従者が配置されている。
また、もう一面には蓮台に地蔵立像を浮き彫り(半肉彫り)とし、その左右に十王を薄肉彫りで配置している。地蔵は右手に錫杖、左掌に宝珠を持つ通形で、首から上を欠損する。亡者は泰山府君の前で生前の罪を暴かれるが、一方で地蔵菩薩によって地獄の責め苦から救われる。
つまりこの両面石仏においては、堕地獄の恐怖とそこからの救済が表現されている。鎌倉後期の製作と思われ、民衆に対し、罪の怖さと信仰の尊さを説くために使われたものだろう。全国的にあまり例を見ない、非常に貴重な作例である。
仕事とはいえ、こうした石仏を石垣に積む作業に携わった人たちはどんな気持ちだったでしょうか
おそらく、仕事を終えると、徴用されなかったお地蔵さんにお詫びをして、自分が地獄に堕ちないようにと必死にお祈りをしてたのだろうな…
こんな感傷は、私だけではないようで、石塔にも示されているようでした。
普通の五輪塔に見える一番大きな石塔は「寄せ集め塔」なんですって (他の石塔もそうかもしれない)
柳沢文庫の脇に立てられていた石塔。あたかもオリジナルを保った石塔のように見えるが、実は複数の異なる時代の石塔の部材を組み合わせた「寄せ集め塔」である。
具体的には、下から、
①宝篋印塔屋根(傘)の段形 (鎌倉後期)
②五輪塔の反花座 [かえりはなざ]
(鎌倉後期~南北朝期/天地逆)
③小型五輪塔の反花座 (室町後期)
④五輪塔水輪 (室町期/天地逆)
⑤五輪塔火輪 (室町期)
⑥五輪塔空風輪 (室町期) となる。
石材はいずれも花崗岩で、総高は約 1.2m(六尺)を測る。郡山城の石垣を築く際に搬入された石材を柳澤侯爵別邸(現在の柳沢文庫建物)が新築された明治39年(1906)以降、地元郡山の石工が六尺塔として再構成したものだと思われる。
だそうです。
明治の石工さんたちは、石工の大先輩たちの作品がこんな「ただの石」扱いされたことにいたたまれなくなったんだろうな…
説明板に出てきた「柳澤侯爵別邸(現在の柳沢文庫建物)」のエントランスがこちら。
むくりのついた屋根の大きな車寄せが印象的ですが、私は内部の観覧はパスして、玄関前の掲示ケース内に貼られていた「郡山城絵図の世界」をパシャリ
この絵図は、江戸時代の郡山城の姿を偲ぶ資料になりそうです
さぁて、復興(復元?)された極楽橋を渡って、いよいよ本丸
なんですが、「#3-5」につづきます。
どこまで続くんだ
つづき:2023/10/31 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-5 [完結編]