「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-2」のつづきです。
郡山城は、近鉄郡山駅から歩いて10分もかからない場所にあります。
柳御門跡を通り抜け、
三の丸緑地にあった案内図を見て、見物のルートを検討しました。
そして、正々堂々と(?) 追手門から入って、天守台を目指すことにしました。
しっかりと整備されたお城もキレイですが、こんな「いかにも城跡」っぽい眺めも良いものです
追手門前に到着しました。
おぉ、立派な櫓門です
「柳沢文庫」と染め抜かれた幟をちょっと気にしながらも、追手門前にある文字数たっぷりの「郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来」を読みました。
これによると、現在の追手門は、昭和後期に、
近時郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復元された。
だとか。なるほど…
で、郡山城の歴史をこの説明板から略記すると、
1580年、松永久秀を破った筒井順慶が築城に着手
1585年、大和・和泉・紀伊3ヶ国の太守(100万石)として入城した豊臣秀長が本格的に築城
1600年の関ヶ原の戦いの後に郡山城を接収した徳川方は、この城を取り壊し、建物のすべてを伏見城に移築
1615年、大坂の陣後、水野勝成が郡山に転封(6万石)され、城の再興に着手
1618年、徳川家康の外孫(母が家康&築山殿の長女・亀姫)の松平忠明が転封(12万石)され、家康の口利きで、追手門(当時は「一庵丸門」と呼ばれた)を始めとする諸門を伏見城から再び郡山城に移築
その後、本多氏(忠勝の次男忠朝系)⇒松平信之⇒本多氏(忠勝の長男忠政系)と藩主が引き継がれる
1724年、柳澤吉里が甲府から転封(15万石余)
柳澤吉里⇒信鴻⇒保光⇒保泰⇒保興⇒保申と代替わりの後、明治維新で廃城
ということらしい。
そっかぁ、柳沢吉保の系統が江戸時代の後半ずっと郡山藩主(城主)だったのか… と、「柳沢文庫」の幟が理解できました
徳川綱吉の側用人として権勢を誇った柳沢吉保でしたが、綱吉逝去後もしっかりと血筋を繋いで明治維新まで大名家であり続けていたとは知りませんでした。
失脚後の田沼意次一族とはぜんぜん違う…
ところで、江戸時代前半のかなりの期間、郡山藩主を務めた本多家、その系図を調べたら、大名家にありがちな養嗣子がボコボコあって複雑怪奇
ついには、系図を手書きして整理してしまいました
さて、追手門(旧称:一庵丸門⇒梅林門)をしげしげと眺めました。
この追手門は「秀長築城にふさわしい姿で復元された」そうで、軒の「五三桐」紋が金色に輝いています。
ん?
豊臣家の紋は「五七桐」じゃなかったか?
豊臣秀頼が寄進したという蓮華王院(三十三間堂)の「太閤塀」の軒丸瓦は「五七桐」です。
ま、細かいことは置いといて\(^^\) 追手門をくぐりました。
そして、天守台の見える内濠沿いにあった説明板を見ると、
方角を確かめると、、、、おお、本丸のこの凹みは(土砂がたまってますけど)、私の大好物、丑寅(北東)の鬼門消し
ではありませんか
この写真は私の「丑寅コレクション」入りが決定
です
この説明板から「本丸」の部分を転記します。
本丸全体は南北150m、東西70mで、北端の天守台がある一角がすこし西側にずれて接続する形をなる。本丸の周囲は高さ10~14mの高石垣と幅10~30mの内堀に囲まれている。
本丸内には月見櫓、白沢門、竹林門、坤櫓、厩向櫓などの建物が建ち、それぞれが多聞櫓で連結されている、天守台の周囲は堀で囲まれていた。
内堀には二つの橋が架けられていた。東側の毘沙門郭から極楽橋を経て正規のルートであり、極楽橋は表門として位置づけられていた。現在、本丸には南側の竹林橋跡の土橋から入るが、竹林橋は本来は裏門の扱いであった。
説明板には、つづいて石垣に関する記述があって、その中にこんな興味深いことが書かれていました。
正面に見える本丸東麺の石垣の最下部に四角い石材がいくつも並んでいる状況がみてとれる。南北幅20m、高さ2mの範囲に約60石が積まれている。すべて墓石、地蔵などの転用石材である。郡山城の石垣には転用石材が数多く使われているのが特徴であるが、ここは城内で最も集中する場所であり、また、全国的に見てもこれほど集中的に積まれている事例はない。初期の城づくりのすさまじさがうかがわれる。
この辺りですな。
天守台の石垣には、「さかさ地蔵」と呼ばれる、お地蔵さんのお姿そのままに、逆さまに石垣の中に積み込まれている場所があります。
団体らしき観光客が群れていて、私はじかに見るのは諦めました
本丸石垣の転用石材は筒井順慶によるものか豊臣秀長によるものか不明ですが、天守台のこれは豊臣秀長の時代の「所業」らしい。
これらの天守台や郡山城の石垣に積み込まれた石仏、墓石並びに城史有縁の諸霊を慰めるため、毎年お城まつりの初日に数珠くり法要が営まれます。
だそうですが、こんなことをするから、筒井家も豊臣家も悲しい末路を辿ったのではないかと思ったりして…
ここで振り向くと、天守台とは反対側の二の丸エリアに興味深い建物が見えました。
せっかくですから、近くから見物することにしました。
このまま書き続けると、記事が長くなってしまいますので、ここで一旦切って、「#3-4」につづきます。
つづき:2023/10/30 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4