新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2025年最初の遠征は愛知へ #2-3

2025-01-18 15:03:35 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-2」のつづきです。

名古屋市市政資料館第4~7常設展示室をすっ飛ばして「控訴第貮號法廷」だったという第8常設展示室から。

旧刑事訴訟法時代の法廷が再現されていました

この復原法廷は、大正11年(1922)にこの庁舎が新築された際の名古屋控訴院第2号法廷を再現したもので、刑事合議制の公判をモデルにしています、
当寺の控訴院は、地方裁判所の第一審判決に対する控訴などの裁判が3人の判事によって行われ、正面の法壇の中央に判事、その左側に検事、右側に裁判所書記が着席しました。(以下略)

この辺りは、朝ドラ「虎に翼」を視ていた人にはすっかり馴染んだ光景です。
この手前には、実際に使われたという弁護士の法服と法冠が展示されていまして、

戦前の法服・法冠は、明治23(1890)年11月1日に施行された「裁判所構成法」によって定められました。当時、海外の国々の法服にならって、内外に威厳を示す法服ということで、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の黒川真頼教授が依頼を受け、デザインしました。ヨーロッパの法服を参考にして、それに古代の官服のイメージを加えた和洋折衷のものとなっています。
判事や検事の法服には襟と胸に唐草模様と桐の刺繍がほどこされています。実は、この刺繍の色で官職が、桐の個数で裁判所の等級が区別されています。判事の刺繍は紫色大審院判事が7個、控訴院判事が5個、地方裁判所と区裁判所は3個でした。検事については刺繍の色は緋色桐の数は判事と同じ書記深緑の唐草模様の刺繍のみ。弁護士襟と胸唐草模様のみの刺繍がほどこされていました。

さらに説明板によれば、現在も裁判官が着用する法服の色がなのは、は他の色に染まることがないため、『公正さ』を象徴する色として選ばれている」のだそうな。

この法服の規定や、法廷での座席からは、検事の位置づけが現在とはかなり違うことが判ります。ちなみに現在、検事は、法服を脱ぎ法壇から降りて、弁護士と同じ高さで向き合っています。

上に載せた復原法廷は、

名古屋地方裁判所単独制による裁判を行うために設けられていた法廷を、傍聴席の一部を除き、昭和23年(1948)ころの模様に再現したものです。
裁判所構成法が施行された明治23年(1980)以降の地方裁判所では、法廷における裁判は、判事3人による合議制が採用されていましたが、昭和22年裁判所法に変わってからは、単独制が原則になりました。

というもの。
そういえば、「虎に翼」で、新潟地裁三條支部での裁判とか、新潟地裁での暴行事件の裁判をトラちゃんひとりで裁いていましたっけ…

   

時代が行ったり来たりしていますが、明治23年名古屋地裁が出した判決言渡書のレプリカが展示されていました。

用箋の右上に大きく「天皇ノ名二於テ」と印刷されているのが特徴的ですが、

明治23年11月の明治憲法施行に伴い、菊の紋章「天皇ノ名二於テ」の文字が記載されました、翌年2月廃止されました。

と、この用箋が使われたのは、わずか4か月足らずの期間だったみたい
どうしてこんなに短期間に変更されたのでしょうか?
大日本帝国憲法では、

第五十七條 司法權ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判󠄁所󠄁之ヲ行フ

と規定していましたから、判決言渡書「天皇ノ名二於テ」で始まっても不思議はないのですがねぇ…
もしかして、下級審で「天皇ノ名二於テ」出された判決が上級審で覆ることがあるということが関係しているのかなぁ

法律に関してド素人の私にはよく判りませんので、先に進みます

   

最後の第11常設展示室は元「控訴第壹號 大法廷」

この中は復原された「陪審法廷」でした。

正面の法壇上に判事席があるのは他の法廷と一緒ですが、左側には、

法壇上に検事席、法壇下のひな壇に弁護人席があり、右側には、

ひな壇状の「陪審員席」がありました。

日本でも陪審制を採っていた時期があったことは聞いたことがある気がしますが、現在の裁判員裁判どう違うのでしょうか?

この陪審法廷は、昭和3年(1928)陪審法の施行に伴い、この庁舎の西側に新築された陪審庁舎内に設けられていた法廷の主要部分を移設したものです。
陪審制度は、(1) 特定の刑事事件の第一審公判に、一般人から抽せん等で選ばれた12名の陪審員が列席して、犯罪事実の有無を評議して答申する、(2) 裁判所は答申を不当と認める時は、他の陪審に付すことができ、相当と認めるときは採用して判決を宣告する、というものでした。
陪審裁判が全国で行われた事件数は、施行の翌年には143件を数えましたが、陪審裁判には控訴ができなかったことや、多額の費用を要したことなどの理由により、その後次第に活用されなくなり、ついに昭和18年(1943)に施行が停止され、今日に至っています。

だそうで、要は、一般人が「犯罪事実の有無」を答申し、裁判所はその答申が相当と認めるときはそれを採用して判決を宣告する、というものらしい。
でも、裁判所が答申を不当と認めた場合には別の陪審に付すことができるのでは、あまりにも陪審員の評議や答申を軽視してるのではないかと思われます。

なお、現在の裁判員裁判は、最高裁のサイトによれば、

証拠をすべて調べたら,今度は,事実を認定し,被告人が有罪か無罪か有罪だとしたらどんな刑にするべきかを,裁判官と一緒に議論し(評議),決定する(評決)ことになります。
評議を尽くしても,意見の全員一致が得られなかったとき,評決は,多数決により行われます。
ただし,裁判員だけによる意見では,被告人に不利な判断(被告人が有罪か無罪かの評決の場面では,有罪の判断)をすることはできず,裁判官1人以上が多数意見に賛成していることが必要です。
有罪か無罪か,有罪の場合の刑に関する裁判員の意見は,裁判官と同じ重みを持ちます

だそうで、一般人(裁判員)がプロの裁判官と一緒に議論・評決するところが、陪審制との大きな違いのようです。
私に「裁判員」の役目が回ってくることなんてあるのかな?

   

名古屋市市政資料館の見学の最後に、1階にあるという留置場を見に行きました。

そして、これが独居房の内部。

でも、どうして裁判所の中留置場があるんだろうか?
と不思議に思ったら、「留置場の謎」と題する説明板がありました。

この建物ができた大正11年の名古屋控訴院だった頃、こちらの留置場はどのように使われていたのでしょうか。
実は、この留置場がどのような目的に使われていたのか詳しく記録した資料は残っていません(中略) 当時は、裁判官と検事が同じ建物に居たことから、おそらく、現在でいう「裁判中の被告人」や「まだ起訴されていない被疑者」の立場にある人などを、取り調べのためにこの建物に呼び、一時的に収容しておくために用いられた場所であったと考えられます
ですから、この留置場は、「懲役○年」といった判決をうけた囚人が刑に服す場所ではないようです。
現在の裁判所には、主に裁判を受けるために裁判所に移送された被告人が、自分の裁判が始まるまで、一時的に収容される「仮監(かりかん)」という場所がありますが、「留置場」はありません

だそうです。
この説明板の別の部分で、裁判中の刑事被告人や死刑確定者を収監する拘置所は、東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡の8か所しかないことを知りました。
もちろん、日本各地に「拘置支所」はありますが、拘置所が東京以西にしかなく、しかも関西に3か所も集中しているのはどうしたことなんでしょ?

そんな疑問を感じつつ、名古屋市市政資料館見学を終えました

   

ここで、ちょっと「法服・法冠」の話を蒸し返します。

戦前の「法服・法冠」似た装束の人たちの写真を見たことがあります。

東京美術学校の記念写真です。(最前列の左から6人目が岡倉天心)
もしかして、東京美術学校の教官・学生の制服も、デザインしたのは黒川真頼さんか? と思ってしらべたところ、こちらのサイトによると、宮田亮平東京藝術大学学長(当時)曰く、

東京美術学校が設立された時代の日本の裁判官や国会の議長の衣装は、威厳を作るための制服として西洋風ではなくて日本の装束として、聖徳太子をヒントに作られておりました設立当時の東京美術学校の制服も、日本のファッションデザインを確立された黒川真頼先生が岡倉天心の命によりデザインしたものです。当初の評判はあまり良くなく5年ほどでなくなってしまったものですが、黒川真頼先生がデザインされたえび茶色の装束をまとってみると、本学の創立120周年を迎える記念の年の卒業式に最適な姿で、『命』という文字を揮毫できたと思います。

ですと
ビンゴ

    

ということで、いやぁ面白かった

外に出た私は、名古屋市市政資料館の周りを一周したのち、次の目的地「徳川美術館」へと向かいました。

つづき:2025/01/19 2025年最初の遠征は愛知へ #2-4

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