新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年最初の関西旅行記 #2-2

2025-01-30 18:12:31 | 旅行記

「今年最初の関西旅行記 #2-1」のつづきも大阪市中央公会堂から。

東口出入口に掲げられた銘板のフォントが実によろしい
まさしく「大正浪漫」です
大正15(1926)年竣工の旧札幌控訴院(札幌市資料館)の玄関ポーチに掲げられたものと雰囲気が似てる気がします。

大阪市中央公会堂の建物は、正面からの眺めも良いけれど、この角度からもイイ

とても華やかで、宮殿みたいにも見えます。

大阪市中央公会堂の建設にあたっては、当時珍しかった設計コンペが行われ、1等には 28 or 29歳だった岡田信一郎の案が選ばれ、この原案をもとに、辰野金吾建築顧問に、公会堂設計事務所が設計したのだとか。
なお、岡田信一郎は、このコンペでの勝利をスプリングボードに、若くして48歳で亡くなるまでの20年間で、旧鳩山一郎邸(現鳩山会館朝ドラ「虎に翼」では桜川男爵邸として登場)、旧歌舞伎座(三代目)、黒田記念館旧博報堂本社ビル、そして、終戦後にGHQが本拠地としたことで有名な明治生命館など、蒼々たる作品群を残しています。

一方、私が「やはり辰野金吾と思ったのは、煉瓦の目地東京駅丸の内駅舎でも採用されている「覆輪目地」だったことでした。

辰野金吾の代表作、東京駅丸の内駅舎(1914)も、大阪市中央公会堂(1918)と同様に、鉄骨煉瓦造りで、外壁に貼られた化粧煉瓦には覆輪目地が施されています。

   

大阪市中央公会堂の地下には展示室があって、無料で観ることができました。

「大恩人」岩本栄之助さんの胸像があるのは当然としても、なぜか渋沢栄一に関する資料も多い。なぜかと思ったら、岩本さんの略歴の中に、

栄之助は、1906(明治39)年、父・栄蔵の営む株式仲買業を継ぎ、1907年の株式相場の高騰などで大きな利益を上げました。1909年渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカの進んだ産業・文化を視察。渡米中、父の訃報に接した栄之助は、欧米の富豪が公共事業や慈善事業に熱心であることに共感して、帰国度株式相場で得た利益の寄付に動き始めました

とありました。
そして、帰国後、東京や大阪で何度か渋沢と面会し、寄付の実施やその使途(結果は公会堂建設)などをなどを相談、さらに、大阪の政財界の有力者を招いた委員会を開催(渋沢も参加)し、公会堂建設案を示したのだとか。
そんな縁もあり、渋沢は定礎式に参加し、「定礎」の文字を揮毫したんですな。

私、この説明パネルの下に書かれていた

※定礎石は、東正面玄関に向かって左側(南側)のスロープから見ることができます。

をよく読んでおりませんで、定礎石を見逃しました
遠目からのこんな写真しかありませぬ

「渡米実業団」といえば、雑誌「東京人」2010年4月号(特集:美術館をつくった富豪たち)に載っている高階秀爾さんと鹿島茂さんとの対談で、鹿島さんは、渡米実業団の一員だった根津嘉一郎についてこんな発言をしています。

この人(根津)は、初期はひじょうに評判の悪い人だった。ぼろ買いの根津と言われるほどで、とにかく、クズみたいになった会社を買い叩いて再興させることでお金持ちになった人。しかし、渋沢とアメリカに行って、カーネギーワナメーカーといった人々の社会福祉活動を見て、それまで会社と金にしか興味のなかった根津の目が開く。それから、いろいろな社会貢献やコレクションをやったみたいですね。

岩本さんも根津さんも、他人に諭されたり教えられたりすることなく、アメリカの富豪の社会活動目の当たりにすることで「目を開いた」んですな。
既に実業界を引退した渋沢さんがそういう機会を提供したというのが、わたし的に響きます

さて、大阪市中央公会堂が建てられる前(1912年頃)の中之島の写真もありました。2枚の写真をパノラマ風に繋げましたので、ちょっと不自然な写真になってしまいましたが…

真ん中が、現在、大阪市中央公会堂が立っている場所で、それまでは豊国神社があったんだ
一番左が左右翼を増築する前大阪府立図書館、その右、豊国神社との間にあるのが旧公会堂(新公会堂開設に伴い天王寺公園内に移設:現存せず)だとか。大阪府立中之島図書館と大阪中央公会堂との間にこんなにスペースがあったかな?
で、豊国神社の右側、現在、広場と大阪市立東洋陶磁美術館になっている場所に立っているのが大阪ホテル、そのまた右にちらりと写っているのは大阪銀行集会所(大阪銀行協会の前身)だそうな。

現在、大阪府立中之島図書館の左(西側)には大阪市役所(4代目)がど~んと立っていますが、上の写真が撮影されたころは公園だったそうで、1921年5月に竣工した先代(3代目)の市役所の写真がありました。

なかなか威圧感のある建物です
どことなく台湾の総統府(旧台湾総督府)と似た雰囲気だな、と思ったら、設計原案台湾総督府の技師・小川陽吉さん(実施設計は片岡安)ですと

市役所の裏図書館との間にある緑地は、大阪市中央公会堂に追い出された形になった豊国神社で、その後、市庁舎の増築に際して、1961年1月、現在の大阪城二の丸に移転した由。太閤さんを祀る神社なのに、なんだか不憫

さらに、この展示室でもっとも私がときめいたのが、

「大大阪(だいおおさか)時代を彩った近代建築」という展示で、大阪市中心部に現存する日銀大阪支店(1903年)から大阪証券取引所ビル(1935年)まで20棟の一覧と、

各建物の説明パネル

さらには各建物の所在地を示した地図まで

これ、リーフレットにしてもらえないものでしょうか
有料だったとしても、私は欲しい
とりあえず、次回以降、大阪に行くときは、この近代建築マップを印刷して持って行くことにします

とまぁ、こんなところで展示室の見学を終え、最後にちょっと離れたところから大阪市中央公会堂の正面を撮影しました。

建物のてっぺんに何やらあります。
拡大しますと、こんな像が乗っていました。

これは、

ギリシャ・ローマ神話の、商いの神「メルクリウス」科学工業平和等の神「ミネルヴァ」をかたどったもの。第2次世界大戦の金属供出で失われましたが、保存・再生工事の際復元されました。

だそうで(確かに左のメルクリウス商業系の学校の校章で良く見る 2匹の蛇がからんだ翼付きっぽい杖を持っている)、こんな取り外しが大変そうなものまで金属供出の対象になったのかというのも驚きだし、この2神が定位置に再設置されたのが終戦から43年も経った2002年8月だったというのも驚きでした。

こうして、いつか大会議室(ホール)集会室中に入ってみたいものだ と思いながら、大阪市中央公会堂の見学を終えました。

つづき:2025/01/31 今年最初の関西旅行記 #2-3

コメント
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