新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2025年最初の遠征は愛知へ #2-4

2025-01-19 06:15:12 | 旅行記

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-3」のつづきです。

ここで遠征2日目ルートマップを載せましょう。
オレンジの線が電車区間、の線が徒歩区間、観光スポットです。

こうしてマップにしてみると、名古屋城駅から名古屋市市政資料館までの「意図せぬ迂回」滑稽に見えますが、あとでいろいろLucky と思うことになります
実は、このあと、もう一度「遠回り」することになったのですが、それは追々書くことにします

さて、名古屋市市政資料館の見学を終えた私は東大手駅から名鉄瀬戸線に乗って徳川美術館を目指しました。

地下駅になっている東大手駅の入口に、石碑のような説明板がありました。
何の説明板かと思ったら、なんと、駅名の由来書きでした

こんなに立派「駅名の由来書き」なんて初めて見ました

ちょっと長いのですが興味深い内容なので転記しておきます。

かつて名古屋城外郭の「三の丸」には五つの城門があって正門にあたるのが「本町門(ほんまちもん)」であり、東門に相当するのが「東大手門」で、「東大手駅」の駅名の起源である。
このほか、南西には「三園門(みそのもん)」、西には「幅下門(はばしたもん)」、北には「志水門(しみずもん)」があって、そのいづれもが土居や石垣に囲まれた枡形をつくり、そこで通路を曲折させていた。本町門・幅下門・東門付近の道路の曲折はその名残りである。東大手門付近では、外堀に三つの清水橋がかけてあったが、そのうち一番南の橋の位置が今の清水橋に当たる。
名古屋鉄道瀬戸線の前身にあたる「瀬戸電気鉄道」は、明治29年(1906年)に、瀬戸と大曽根間を開通させたが、その後、明治44年(1911年)に、堀川の水運を利用するために堀川まで延長した際、土居下・堀川間は名古屋城の外堀底を利用した。この間に「東大手」「久屋」「大津橋」「本町」の駅があったが、昭和14年名古屋鉄道に合併してから「東大手」「久屋」は廃駅となった。
昭和53年8月名古屋鉄道瀬戸線が都心「栄町」乗入れに際し、旧東大手駅跡の北側の地下に改めてこの「東大手駅」を再開し、名古屋城史跡の名を残すことになった。

なんとも「力作なのですが、私のように土地鑑の無い者にとってはなかなか理解が難しい
地図を付けてくれたらよかったのに…と思いながらネットで探したら、こちらのサイトピッタリの地図を見つけました

1941年頃の地図(なぜか簡体字の説明が加えられている)だそうで、

「名古屋城の外堀底を利用した」という瀬戸線土居下~堀川のルートがよく判ります (東大手駅と久屋駅は廃駅済み)
また、本町門、東大手門に由来する「曲折」も判ります

昔はここ(久屋橋から見下ろした外堀)を電車が走っていたんだ

「#2-1」で書いた愛知懸議員會館といい、この眺めといい、今さらながら、「名古屋城駅から名古屋市市政資料館までの『意図せぬ迂回』僥倖だったと思います まさしく「災い転じ福と為す」でした

なお、Googleマップを見ていたら、旧瀬戸線や土居下駅の痕跡を見つけました

   

なんとも薄暗くもの寂しい東大手駅から名鉄瀬戸線に乗ると、徳川美術館最寄りの森下駅までは、わずか2駅・4分 でも歩くと、2.1kmありますから、25分程度かかります

森下駅で電車を降りた私は、スマホの地図アプリを頼りに、徳川美術館へ。
徳川美術館に行くのは2度目ですが、前回は名古屋名物(?)の基幹バスで行ったっけ…

しばらく歩くうち、今度は徳川園・徳川美術館の矢印看板が導いてくれました。

途中、久しぶりにネコヤナギを見かけました(ピンボケ写真ですまぬ)。

ネコヤナギといえば、どうしても「天才バカボン」を連想してしまう私です

徳川園・徳川美術館西門(黒門)近くに「中京法律専門学校」という学校がありました。このときはなんとも思わなかったのですが、実は、愛知懸議員會館の建物を建て、そこに住んでいたという大喜多寅之助さんは、この専門学校の前身・中京法律学校校長を務めたことがあるんですと
いろいろ繋がるもんですねぇ

そして、到着

1月らしく、門松が出迎えてくれていまして、この門松にも説明が加えられていました

門松といえば、竹の先端部を斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴(ずんどう)があります。「そぎ」は徳川家康が始めたもので、家康唯一の敗北で知られる「三方ヶ原の戦い」のあと、武田信玄に対して次は斬るという念を込めたのが始まりだと言われています。

また、門松には雄松(おまつ)雌松(めまつ)を対にして飾ります。触ってみて葉先が固いのが雄松、柔らかいのが雌松になります。
江戸時代の門松を模して作成しています。是非ゆっくりご覧になってください。

そっかぁ、門松の「そぎ」には、「次には信玄を斬ってやる」という家康の念が込められていたのか… 正月にしてはずいぶんと物騒な話です

黒門の傍らに、名古屋市が設置した「徳川園と徳川美術館」という説明板がありました。

江戸時代のはじめ、この地域一帯は尾張徳川家二代光友卿の「大曽根下屋敷」といわれる広大な別邸であった。光友卿の薨去後、別邸は家老の成瀬、石河、渡辺の三家に下附され幕末まで使用されたが、明治維新後、再び尾張徳川家の所有となった。
昭和6(1931)年、同家19代義親侯は、「…私有するは時勢に順応せざるを以て…」と意を決して別邸建物と庭園のうち約7千坪(23,000㎡)を名古屋市に寄附すると共に、相伝の一万数千点に及ぶすべての什宝美術品類・土地・必要資金を拠出して、財団法人「尾張徳川黎明会」を設立。昭和10(1935)、同財団による「徳川美術館」が開館した。一方、寄附を受けた名古屋市は、昭和7(1932)年、「徳川園」として公開したが、第二次世界大戦時に空襲を受け、「表門(おもてもん)」を残して焼失した。
開館50周年にあたる昭和60(1985)「徳川美術館」の大幅増改築事業が地元経済界を中心とした全国規模の募金活動によって推進された。この地に集積されている歴史遺産との融合をはかるべく、平成16(2004)には我が国を代表する近世武家文化の殿堂と、その環境にふさわしい池泉回遊式庭園が完成した。
なお、公園内の南側には、尾張徳川家伝来の書籍類を収蔵し公開する名古屋市蓬左(ほうさ)文庫が設けられている。

この説明にはいろいろと展開したいところがありまして、まずは「大曽根下屋敷」。現在の徳川園・徳川美術館エリア広大ですが、当時は現在の数倍のとんでもない広さを誇っていたようです。

もっとも、江戸では、尾張徳川家上屋敷として現在の仙洞御所迎賓館のある元赤坂エリア全域を、中屋敷として上智大学四谷キャンパス全域を、ほか合わせて30か所もの屋敷地を拝領していたわけで、それに比べれば大したことはないと言えないこともありません

次に、「大曽根下屋敷」を下附されたという3人の家老のうち、成瀬家って、20年ほど前まで国宝・犬山城(訪問記)私有していたあの成瀬さんだと思われます。

徳川園と徳川美術館との関係がよく判らなかったのですが、徳川園(と蓬左文庫)名古屋市の所有で、徳川美術館財団法人「尾張徳川黎明会」の所有なんですな。

徳川園パスして、さぁ、17年半ぶり()の徳川美術館

というところで一息入れ、徳川美術館の見聞録は「#2-5」で。

つづき:2025/01/20 2025年最初の遠征は愛知へ #2-5

コメント
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