「2025年最初の遠征は愛知へ #2-4」のつづきです。
最初の展示は、「いかにも尾張徳川家」といった風情の具足です。
どうしてこれが「いかにも尾張徳川家
」と思ったかというと、単にこの具足が「白糸威」だから。でも、尾張徳川家の具足すべてが白糸威だったわけではなく、私がそんなイメージを持っているだけですので悪しからず…
この「銀箔置白糸威具足」は、尾張家3代綱誠公の19男、松平通温公所用のもの。
人ごとながら、「19男」ってのは凄い
綱誠公は22男18女の子だくさん(正室の他、側室が13人)だったそうな。
当時のことですから夭折する子どもも少なからずいたことでしょうが、成長した男子それぞれにこんな立派な具足を誂えてやるのは、さぞかしお金がかかったことでしょうねぇ
また、女子を嫁に出すのも、嫁入り道具やら何やら出費が嵩んだことでしょう。なにせ名古屋ですし…
具足の右側には、一見、さすまたに見えないこともない(←見えるか
)「上り藤馬標」が展示されていました。
「馬標(うまじるし)」というのは、戦場で大将が「わしはここにおるぞ」と誇示するための道具です。
この馬標は、尾張徳川家初代の徳川義直公(徳川家康の9男)所用のもの。
義直公の初陣は、満13歳の時、大坂冬の陣だそうですから、もしかしたら、この馬標は大坂冬の陣か大坂夏の陣で実際に使われたかもしれませんねぇ
これは何だと思いますか?
「唐銅二百目短筒(からどうにひゃくめたんづつ) 銘 延宝二年甲寅七月吉日 辻弥兵衛之種作」です。
「短筒」といえば、ピストルみたいなものだと思っていましたら、これは、長さこそピストル級ですが、口径がでかいでかい 4~5cmはあろうかというシロモノです。
この短筒はどうやって使ったんだろ
そもそも片手で持てるとは思えませんし、仮に両手で支えたとしても、発射の威力で手首が破壊されること必至
です
超ミニの大砲として、台座に据えて使ったんだろうな、こんな感じで…
サイズとしてはこんなものですから…
お次も初めて拝見したもので「折紙」というものです。
「折紙」といっても、紙を折って鶴や兜を形づくる遊びでも、スタバの使い切りドリップコーヒー(旅行に出かける際の私の必需品)でもなく、
刀剣をはじめ、書画や茶道具に添えられる鑑定書である。奉書の紙を横に二つ折りにし、作者名や評価額を示す代付(だいつけ)などが記される。代付は「金子○○枚」「代○○貫目」などと表記される。金子1枚は大判1枚(およそ10両、銅銭40貫)に相当した。
刀剣の折紙は、江戸幕府に仕え、刀剣の研ぎ・浄拭い(きよめぬぐい)・目利きを生業とした本阿弥家によって発行された。鑑定に際しては宗家の当主を中心に一族で検討し、その結果を宗家当主が自筆で認めるのを常とした。
だそうです。
この「折紙」は、刀剣(銘 肥前国住人忠吉作)の鑑定書で、
肥前国忠吉
正真 長サ2尺3寸2分 表裏二筋樋○○ ←読めない
代金子15枚
寛政3年 亥
卯月3日 本阿 [花押]
と書かれています。鑑定者は本阿弥宗家17代の光一(こういつ)。
ちなみに本阿弥光悦はこの本阿弥家の人で、一旦は宗家の婿養子になったものの、義父に跡継ぎの男子が生まれたことで別家をたて、以降、創作活動に励んだそうな。
その後の日本にとって、光悦が「鑑定業」を本業にできなかったことは幸いだったんじゃなかろうか?
お次は金の梨子地の大小の拵(こしらえ)です。
ピントが甘くて残念なんですが、なんともきらびやかな拵です。
これというのも、この大小(打刀と脇指)を所用していたのは、「質素倹約」を旨とする享保の改革なんぞ無視するかのように名古屋の街を盛り上げた7代藩主・徳川宗春公です。
説明には、
派手好みの宗春らしい趣を持つ大小拵である。総体に金粉を透明の漆で塗り込めた豪華な梨子地の鞘で、刀装具の細工も精緻である。小柄・笄には網地に葵紋を散らし、鐔は三葉葵紋と六葉葵紋を前面に散らして、密な魚々子(ななこ)を打つ。
とありました。
この説明の中に聞き慣れない「六葉葵紋」というのが出てきますが、私、ここに来る途中、徳川園の塀の瓦に「六葉葵紋」を見つけて、なんじゃこりゃ? と思っておりました
尾張徳川家は、「六葉葵」を裏紋に使っていたのかな?
ほぉ~と思ったのは、「三所物」の説明書きでした。
三所物(みところもの)の英訳が「Sword Fitting」というのが何とも良くて、
三所物とは、小柄(こづか)・笄(こうがい)・目貫(めぬき)の3点の総称である。
これらは同文様・同一作者であることを原則としている。
江戸時代には刀剣装具については厳しい格式があり、小柄・笄をつける身分の武士は、上級のものに限られていた。
加えて、大名家や旗本の正式な拵には必ず後藤家で製作された金具を用いることが慣例とされた。後藤家は足利将軍家をはじめ、徳川将軍家に代々仕え、不動の地位を築き上げた。(以下略)
出ましたな、後藤家
現在の日本銀行本店の場所に屋敷を拝領し(金座)、江戸時代を通じて金貨(大判・小判ほか)の鋳造・製作を独占していたという後藤家のことは知っていましたが、「大名家や旗本の正式な拵には必ず後藤家で製作された金具を用いることが慣例」だったとは知りませんでした
と、ここで、以前、私が東京国立博物館で撮った写真を載せます。
これは、「業平東下り図揃金具」(モチーフは伊勢物語です)。
左の上にある細長ぁ~いのが、頭を掻いたり髷をちょっと手直しする時に使う「笄(こうがい)」、その下、左の2つの小さな金具が、刀身と柄とを固定する「目貫(めぬき)」、その右の長方形のものが携帯用カッターナイフのような小柄(こづか)の柄(え)で、ここまでの3組が「三所物」です。右にある二つは、上が刀の柄の先端に付ける「柄頭(つかがしら)」で、その下が柄と鍔との境目に付ける「縁頭(ふちがしら)」。
この「業平東下り図揃金具」は18世紀の作品で、作者は後藤光理。やはり後藤家(光理は12代目)でした
18世紀ともなると、江戸の太平の世が続いて、武士たちも「粋(いき)」とか文学的素養を誇示するようになったんでしょうねぇ
そうそう、刀の鍔の中央には刀身を通す大きな穴があって、その両脇に小柄と笄を通すための小さな穴が一つずつ開いているものですが、中には小さな穴が一つしかないものがあります。
これは小柄と笄をつけられない身分の武士のものだったということでしょうか
ちょうどキリのよいところで、徳川美術館の見聞録は「#2-6」につづきます。
つづき:2025/01/21 2025年最初の遠征は愛知へ #2-6