「2025年最初の遠征は愛知へ #2-1」のつづきは、名古屋市市政資料館の3階の見聞録です。
なお、名古屋市市政資料館の1階は基本的に「書庫」(この施設は名古屋市の公文書館でもある)、2階は閲覧室と市民が借りられる集会所になっていて、3階が司法と名古屋市政に関する常設展示室と企画展示室に割り当てられていました。
まずは「檢事長室」のプレートが掲げられた第1常設展示室「名古屋控訴院メモリアル」。
この建物は「名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」だったわけですが、
明治22年(1889)大日本国憲法が発布されたのに伴い、司法の分野においても、裁判所構成法などにより近代的な司法制度が定められました。裁判所構成法はドイツにならい、大審院・控訴院・地方裁判所・区裁判所の組織形態をとり、大審院は東京に、控訴院は全国7か所(のちに8か所となる)に、地方裁判所・区裁判所は各地に設置されました。裁判所庁舎は、従来の建物を流用した木造から、大審院をはじめとして煉瓦造へ、更に鉄筋コンクリート造へと、時代とともに変遷していきます。控訴院庁舎も、明治10年(1877)竣工の建物を転用した長崎控訴院から、大正15年(1826)竣工の札幌控訴院まで、その構造・様式・規模ともさまざまです。全国8か所の控訴院庁舎のうち、現在も残っているのは、札幌と名古屋の2か所のみです。
だとか。
へぇ~、現存する控訴院庁舎は札幌と名古屋のみとな
旧札幌控訴院(現札幌市資料館)の建物は、2022年4月の旭川・札幌遠征のとき、外観だけ拝見しました (記事)
旧札幌控訴院の車寄せを良く見ると、
「目隠しした女性」「天秤」「剣(天秤の支柱)」と、「正義の女神(テミス)」をイメージさせるレリーフで飾られていました(「札幌控訴院」の字体がステキ)。
一方、旧名古屋控訴院はと言いますと、
何やら金色に輝く徽章が掲げられていまして、「これは何?」と思っていました。
すると、第1常設展示室に、そのレプリカが展示されていて、こんな説明がされていました
この建物の正面、車寄の上部に神鏡と神剣を組み合わせたこの装飾が取り付けられています。
この建物は裁判を行うところであり、人が人を裁くという厳粛な行為が行われる神聖な場所であるところから、建築的にも、装飾的にもいろいろと配慮がなされています。それは、神聖さを建築的に表すドームや秤の絵が描かれているステンドグラスなどにも示されていますが、公正な裁判を意味する神鏡と神剣を組み合わせたこの装飾もこうした趣旨を表したもので、厳正で公平な裁判を静かに主張しています。
神鏡は、真実を写すということで、「目隠しした女性」の代わりだと考えればよいということでしょうか
第2常設展示室は立派な会議室。
この部屋は、創建時控訴院の会議室として設置され、長い間、重要な役割を果たしてきました。部屋の南側は露台に通じる扉、北側には奉安所を設け、重厚な調度品を置いて、全体に荘重な雰囲気をかもし出しています。(中略)
この部屋は、長い歳月の中で幾度か内装を変えられたので、残された文献や当時の写真、聞きとり調査などを手掛かりとして創建時の姿に復原したものです。
説明にある「奉安所」とは、いわゆる「御真影」を飾っていた場所と推察しますが、頭上に菊の御紋をいただき、これでもか
とばかりに何重ものカーテンで飾られた設えは、「いかにも」な威厳をたたえていました
一方で、天井のシャンデリアは、意外と質素。
まぁ、ここは宴会場(ボールルーム)ではなく「会議室」ですからねぇ…
第3常設展示室は、第4~7常設展示室での名古屋市政に関する展示への「つなぎ」のような感じの「名古屋近代建築史」。
ここで私の目を惹いたのが、「いとう呉服店」の模型でした。模型、それも建物の模型となると、私、目がないのですよ
この建物は、中区栄の交差点にありました。
明治43(1910)年に、いとう呉服店の店舗として建設されましたが、大正14(1925)年には、松坂屋百貨店と改称され、南大津通りの現在地へ移転したため、その後は栄屋の店舗となっていました。久しく名古屋のひとびとに親しまれていた建物でしたが、戦災を受けてとりこわされました。(中略)
道路が交差する角地にあったため、それぞれの道路に面して出入口を付け、屋上のドームも二方向からの景観に対応するように配置されています。設計者は、建築家鈴木禎次です。
この建物は、名古屋の商店建築が、江戸時代かの古い形式から、近代的な商業建築へと移り変わる初期の様子をよく示しています。
そうか、松坂屋は「いとう呉服店」から始まったのか…
と、ここで以前から知りたいと思っていた謎を解明できました。
松坂屋の商標は、丸で囲まれた井桁の中に漢字一文字が書かれたものなのですが、私はこの漢字が読めず、ずっとスッキリできずにいました
この記事を書くにあたって調べてみると、松坂屋名古屋店のSHOP BLOGに詳細な説明が載っていました。
通常「いとうまる」と呼ばれている松坂屋の商標は、創業家である伊藤家の「藤」の文字を、組織と団結を表す「井桁」と完全を意味する「円」で囲んだものである。1784年(天明4)に記された「暖簾の明細書」には「白揚り 紋丸の内は井筒藤字」(白揚りとは模様を白く染め抜くこと、井筒は井桁の意)と表現されている。この、「いとうまる」の商標がいつ定められたものかは確かではないが、それが史料に出てくるのは、暖簾分けを成文化した1768年(明和5)の「定録(さだめろく)」が最初であった。この定録には、支配人以上は「いとうまる」、支配脇以下は井桁のない「まるふじ」の暖簾を許すということが記されている。呉服店の暖簾は、木綿製の紺染めを白抜きしたものが一般的であったが、松坂屋では、地色が黒もしくは赤(柿色)のものを用いていた。
なるほどぉ~
と納得したのもつかの間、新たに「なぜ『いとう呉服店』が『松坂屋』という屋号に変えた?」という疑問が沸いてきました。
これもまた松坂屋名古屋店のSHOP BLOGに答えがありました
1768年(明和5年)4月、名古屋の伊藤屋は、江戸・上野広小路の呉服店であった松坂屋を買収し、念願の江戸進出を果たしました。買収が成立すると、屋号は長年にわたり江戸市民に親しまれた松坂屋名を存続し「いとう松坂屋」として地域密着経営を展開したこともあり、上野店はめざましい繁盛ぶりであったとのことです。
伊藤屋は1910年(明治43年)に「株式会社いとう呉服店」を創立し百貨店に転業しました。その後、国内では洋装が主流となり、呉服店という名称が時代にそぐわないものとなったため、1925年(大正14年)には名古屋、上野、銀座、大阪の全店の商号を松坂屋に統一し「株式会社松坂屋」が誕生することになったのです。
これはこれは…
買収した江戸の呉服店の屋号を継承して旧松坂屋以来の顧客をつなぎとめたと共に「いとう松坂屋」の新しい顧客を獲得したというわけですな。
でも、1925年に、上野・銀座だけでなく、名古屋・大阪の店も「松坂屋」に統一してしまったとは… 名古屋では反発
はなかったのでしょうか? それにしても経営陣は思いきったことをしたものだと思います。
ここでふと思い出した話。
1980年代、日産自動車が、米国ではそれまで「DATSUN」「NISSAN」と使い分けていたブランド名を「NISSAN」に統一したのですが、このとき、米国のユーザーからは、「乗用車メーカーのDATSUNが、小型トラックメーカーのNISSANに買収された」と誤解されたのだとか…。
と、かなり脇道に逸れてきたところで、「#2-3」につづきます。
「#2-3」では、「名古屋市政」に関する展示をすっ飛ばして、「司法展示」のことから再開します。
つづき:2025/01/18 2025年最初の遠征は愛知へ #2-3
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