新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #9 [完結編]

2024-12-11 17:11:06 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8」のつづきです。

致道博物館で次に見学したのは、「民具の蔵(旧御隠殿土蔵)」です。

見た目、普通の蔵ですが、

この土蔵は江戸時代末期に御隠殿に付属して建てられました。明治時代以降は、旧藩主酒井家伝来の武具や調度品を収納していました。敷地内には幾つも土蔵がありましたが、現存するのはこの一棟のみです。致道博物館の展示室拡張のため、1956(昭和31)年に「民具の蔵」と改称、現在は庄内地方の民俗資料を展示しています。

という由緒ある建物です。
内部には「庄内地方の民俗資料」が展示されていましたが、「#8」で書いたようにデジカメのバッテリーがギリギリだったこともあって、一枚も写真を撮りませんでした

と、「#5」で外から写真を撮った「赤門」の説明板がありました。

田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わります。乳金具(釘隠)などの金物類は古い形式をとどめています。
1892(明治25)年、台風で破損したために修復しましたが、2004(平成16)年8月の台風で破損、古材をできる限り用いて当初の姿に再建しています。
江戸時代、将軍家の姫君が大名家に嫁ぐ際には、江戸屋敷内に姫君のための特別な住居を構えて朱塗りの門が建てられました。これを表門の黒門に対して赤門といいます。
赤門は、大名に嫁いだ将軍徳川家の娘の敬称である「御守殿(ごしゅでん)」「御住居(おすまい)」のために許された特別な門で、焼失しても建て替えが許されませんでした。

だそうです。

「赤門」といえば、東京大学のシンボルにもなっている「赤門」を思い出しますが、あちらも同様の性格のものだったのか? (大名屋敷の表門のような番所付きの大仰な門だけど) と調べてみたら、東大のサイトに答えがありました。

旧加賀屋敷御守殿門 (赤門) 文政10(1827)年建立
赤門の呼名で広く一般に知られているこの門は、元加賀藩上屋敷の御住居表御門であった。明治36年現在の位置へ移されたが、元は15メートルほどキャンパス寄りに位置していた。明治30年頃から始まる医科大学の建設のためであったという。文政10(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女溶姫は、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れした。赤門はこの時溶姫を迎えるため建てられたものである。

だそうで、まさしく徳川家から嫁入りする姫のための門でした。

で、御隠殿の赤門は、1864(元治元)年に移築されたそうですから、「#5」で浮かんだ疑問「誰の為の門?」は、9代藩主酒井忠発公と鐐姫との婚姻に際して建てられた門っぽい。
更にWikipediaには、鐐姫は、

文久3年(1863年)3月、世子忠恕の未亡人・瑛昌院(山内豊煕の二女)を伴って鶴岡に下り御用屋敷新御殿に移居した。

そうですから、間違いなさそうです

   

最後に見学したのは、「旧鶴岡警察署庁舎 [重文]です。
「#5」で使った写真ですが、トリミングし直して、もう一度載せます。

なかなかインパクトのある水色です。
そういえば、札幌の豊平館も、外壁はながら、軒裏や窓枠ほか、水色の縁取りが印象的だったなぁ…
ちなみに、豊平館が建てられたのは、「#5」で書いた旧西田川郡役所と同じ1881(明治14)年で、この旧鶴岡警察署庁舎が建てられたのは1884(明治17)年ですから、流行りのようなものだったのでしょうか?

説明板を転記します。

明治新政府の維新を示すために建設したとされ、旧西田川郡役所と同様に初代県令・三島通庸が命じ、高橋兼吉が設計しました。擬洋風建築における一つの到達点を示すものと評価されています。もとは市内馬場町にあり郡役所と隣接していましたが、1957(昭和32)年警察署移転に伴い、地元の建築士会が中心となって保存のため当地に移築しました。
外部窓廻りなどにルネサンス様式を模していますが、宝形造(方形造)の堂々たる外観で、屋根の大棟や破風妻飾りなどは在来様式を巧みに取り入れています。
5年に及ぶ保存修理工事と調査を経て、水色の外観や3段構造の取調室などが復原されました。
創建当初の姿によみがえり、2018(平成30)年6月から公開が始まりました。

またまた登場した三島通庸高橋兼吉
それはともかく、この建物のどこが「宝形造」? と思ったら、こちらのサイトの写真を見ると、入母屋造の1階の上に、「宝形造」の2階が乗っかっているんですな。こりゃ、下から見ても判りませんって…
それよりなにより、鶴岡警察署1950年代半ばまでこの建物を使っていたらしいことに驚きます 「鶴岡警察署の沿革」によれば、

昭和31年10月 庁舎の老朽化、県重要文化財指定を機に鶴岡市馬場町(現、鶴岡地区医師会館)に移転新築

とあります
「庁舎の老朽化」とありますが、築70年超ですから、そりゃ老朽化しますよ

説明板に、「3段構造の取調室などが復原されました」とありますが、その復原された取調室衝撃的でした。
廊下から取調室に入ると、、、、

おわぁ、なんじゃこりゃ

ほとんど時代劇でみる「お白州」じゃありませんか

試しに被疑者目線だとこんな感じ。

「お白州」と違って板敷きですが、むしろに座らされて、二段高い場所で椅子に座る取調官を見上げたら、感じるのは「威圧感だけです
しかも、背後の「中段」には警察官が立っていたのでしょうし…

明治の初期は、こんな取調だったんですな。

説明板によれば、

取調室は、比較的早い時期に改造された。
2室の仕切り壁は撤去、3段の床組は最も高い位置に揃えられ、出入口は窓に変えられた。
この取調室は、その後、宿直室、倉庫、書庫と用途が変遷している。

だそうで、さすがに「お白州」長続きしなかったようですな

ということで、致道博物館の見学はおしまい。
いやはや楽しめました

   

致道博物館を退出した私は、鶴岡公園(鶴ヶ岡城趾公園)の中を通って駐車場に向かいました。

今回、私は、「鶴岡城下町めぐり共通券」を使っていまして、ここまでの「旧風間家住宅 丙申堂」「風間家旧別邸無量光苑 釈迦堂」「致道博物館」に加えて、「鶴岡市立藤沢周平記念館」も観ることができました。

でも、もう、「お腹いっぱい」状態で、「鶴岡市立藤沢周平記念館」は素通りしました
これでは「元を取れない」可能性があったわけですが、無理する必要はありませんしね…

それよりも私にとって大事なのは、「#6」で書いた鶴ヶ岡城「鬼門消し」を見ることでした

明治初年の廃城以降、都市改造や公園の整備ほかで変化しているでしょうけれど、見つかるかな? と歩いていくと、、、、

おぉ、コレっぽい
旧本丸の北東角で、内堀がL字形に屈曲しています
ますます大満足の中で、鶴岡公園を出て、駐車場に戻りました。

こうして、16:00ちょい前にクルマに乗り込み(鶴岡市散策は約4時間)、いざ、帰る

   

基本的に来た道をとって返す中、山形県の北西端にあたる遊佐町付近で、生まれて初めて日本海に沈む夕陽を見ることができて、さらに大満足

あとで知ったところによると、遊佐町には、小樽でのニシン漁をなした青山家の本邸があって公開されているのだそうで、いつかここにも行ってみねば
私は、北海道開拓の村旧青山家漁家住宅を観て、小樽小樽貴賓館(旧青山別邸)を観てそこでにしんそばを食べた経験がありまして、WOWOWで放送された「ゴールデンカムイ 北海道刺青囚人争奪戦」に、その両方が登場して大盛り上がりしました。
ここまで来れば、旧青山本邸にも行かないわけにはいかないぞ と心に決めている私です。

それはさておき、秋田市内まで戻って来たところ、ちょうど帰宅ラッシュ時で、渋滞に巻き込まれたのは想定外でしたが、それでも、18:30までには、無事、別邸に帰着したのでありました。
あ~、楽しかった

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