クルマを買い替える
ことが本決まりになり、ボチボチと愛車の「掃除」を始めました。
まずは、ナビの「登録地」を削除。
あまり意識したことがありませんでしたが、私のクルマのナビには45か所ほどが登録されておりまして、それを信号待ちの間に1か所づつ消去していると、それぞれの場所に出かけたことが思い出されて、ちょいとしんみりしてしまいました。
その登録地の中で一番新しいのは、当然ながらこのGWの河口湖周辺旅行用に新規に登録した場所でして、もっと具体的に書けば、旅行3日目の出発点
となったホテル
でした。
というわけで、間が開きましたが、「『MISIA星空のライヴIX @河口湖』遠征3日目のこと(その3)」のつづきです。
IZU PHOTO MUSEUMで開催中の「本橋成一 在り処」では、「その3」で紹介した「上野駅」(1981年)のほか、ごく初期の1963-65年の「雄冬」「与論島」「炭鉱(ヤマ)」から、「藝能東西」(1973年)、「サーカス」(1976年)、「屠場(とば)」(1988年)、「チェルノブイリ」(1996年)と、本橋さん
のキャリアを網羅する作品群
が展示されていました。
どれもこれも興味深い作品ばかりだったのですが、個人的な思い入れの強い「上野駅」の他には、「炭鉱(ヤマ)」が印象的でした。
私、炭鉱の坑口は、トンネルの入口のようにコンクリートでガッチリ固められているか、エレベーターで降りていく竪坑のイメージしかもっていませんでした。
ところが、「炭鉱(ヤマ)」で観たのは、角材(木)で縁を補強した洞穴のような坑口で、朝ドラ「あさが来た」に登場した坑口そのままでした
明治初期そのままの坑口が、昭和中期にも存在していたとは、まったくもってびっくりぽんでした。
三菱・三井のような大資本の炭鉱は別として、中小の炭鉱は、こんなものだったのかもしれませんなぁ。
もうひとつ、別の視点からも面白かった
私、筑豊と聞いて連想するのは、五木寛之の小説(&映画
)「青春の門」と、土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」
です。
日本の写真史上、「筑豊のこどもたち」は、エポックメイキングな写真集で、「本橋成一 在り処」展での説明板
によれば、この写真集
が発表された1960年前後もかなりのインパクトを持っていたようで、若き写真家たち
がドッ
と筑豊に押しかけたんだそうな。
いいネタだ と思ったんでしょうな。
そんな「若き写真家たち」の一人が本橋さんだったそうで、本橋さんが師と仰いだのが、坑夫であり、かつ、文学者でもあった上野英信さん。
ここで登場した上野英信さんのお名前にドキッ
私、読みました 上野さんの本、「骨を噛む」
まさか、ここで本橋さんと上野さんが繋がるとは です。
それはともかく、上野さんは、本橋さんのことを、ブーム的に筑豊にやって来た功名心に富んだ「若き写真家たち
」の一人 としか思わず、フン
的な扱いだったとか。
それから1年経ち、2年経つうちに、筑豊にやって来る「若き写真家たち」がどんどん少なくなる
中で、最初の情熱
をそのまま持って筑豊に通ってきたのが本橋さんだったのだそうな。
う~む… です。
「若き写真家たち」の多くは、当時の日本の(失礼ながら)最底辺を切り出して、世の中に問わねば
という社会的使命を感じて筑豊に集まったんでしょうな。
確かに、同時代的ないろいろな現実を世の中に呈示するのも写真の一つの役割ではありますが、時が経ってもなお、色あせない写真というものは、そうした(その当時の)時代最先端
としてのありようよりも、その当時では普通の、なにげない光景だったりするのが面白いものだなぁ
、、、っつうか、歴史的な意味を持つのではなかろうかと思ってしまいます。
うんうん、面白い写真展でした、「本橋成一 在り処」展
つづき:2016/06/07 「MISIA星空のライヴIX @河口湖」遠征3日目のこと(その5)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます