「紀伊半島旅行記(その31:奈良⑦)」のつづきは、国分寺・国分尼寺のお話です。
東大寺は大和国の国分寺であると同時に、全国に置かれた国分寺の筆頭たる総国分寺だったわけですが、その対となる総国分尼寺だったのが、この日最初に訪問した法華寺でした。
「『東大寺と対』なら西大寺だろ」と考えてしまうわけですが(西大寺訪問記はこちら)、西大寺の創建は聖武天皇&光明皇后の娘、孝謙上皇の発願によるもので、微妙に世代がズレます。
一方、総国分尼寺たる法華滅罪之寺こと法華寺は、寺の前に掲げられた「法華滅罪寺縁起略」と題する縁起書きによれば、
抑も当寺は人皇第45代聖武天皇の御后光明皇后の御創立にして天皇東大寺を建立し給い総国分寺として男僧の仏法修行の道場と定められしに倣わせ給い茲に女人修行の根本道場を建て皇祖の御菩提と国家平安を祈念せられ天平勝宝5年奈良朝皇居のほとりに七堂伽藍を造営し給い行基菩薩を戒師として御落飾遊ばされ自ら則真と号し給いて当寺に御坐しまし専ら比丘尼の仏法修行道場と成し之れを総国分尼寺と定め給えり時に天皇行幸あらせられ宸筆紺帋金泥の法華経を納め給う因りて寺号を法華滅罪之寺と名付けられしも後世法華寺と略号するに至りしなり
だそうです。旧字や旧仮名遣いを直してもなお読みづらい
説明ですが、要は、聖武天皇が東大寺を創建して総国分寺として男僧の修行道場としたのにならって、光明皇后がこの地に伽藍を建て、尼僧の修行道場として総国分尼寺に定めた、というもの。
ちなみに右の画像は、「木簡形一日フリー乗車券」の特典としていただいた林屋拓蓊筆「光明皇后『御影』」のポストカードです。
2010年の光明皇后千二百五十年大遠忌を機に作家生命を賭して光明皇后の絵姿を製作、奉納した縦160センチ横85センチの掛軸。慈悲深い光明皇后を聡明利発、情操斈識豊かな天平美人として想い描いたもので岩絵具原色豊かな平成の名画として法華寺に所蔵され永く後世に引き継がれる「御影」です。
だそうな。
この地には「その28:奈良④」で書いたように、光明皇后の父・藤原不比等の邸宅があったそうで、法華寺でいただいたリーフレットに載っていた「天平時代の法華寺領」の地図を見ると、
コナベ古墳(右上に並ぶ二つの前方後円墳のうち左。以前、こちらの記事に登場しました)の南の一角がそれに該当するようです。
ところで海龍王寺・法華寺のある区画の南東角は、城下町のように丁字路が組み合わさっています。
南北に通る旧東二坊大路と、東西に通る旧一条大路(東の突き当たりは東大寺転害門)が、法華寺前で錯綜しているのです。
本来ならば、一条大路は法華寺を突っ切って、平城宮の門に至るべきなんでしょうけれど、どうしてこんな町割になっているのでしょうか…
さて、法華寺 。
端正な寄棟造の本堂は、淀殿の寄進で建てられたものとか。
ご本尊の十一面観音菩薩立像(国宝)は、期間を区切って公開されていまして、私は拝見することができませんでした。
今年は、これまで3月20日~4月7日と6月5日~10日の2回公開されていて、あと10月25日~11月10日に「阿弥陀三尊・童子像(国宝)」と併せて公開されるようです。
境内では花が咲き誇っていました。こちらはギョリュウバイ(御柳梅)、
そしてこちらはグレビレア・アルピナ。
古刹の境内に外国原産、それも、オーストラリア/ニュージーランド原産の花が咲いているなんて、ちょっと変わった趣向です。
法華寺とオセアニアとの関係…、気になります
それはさておき、本堂と同じく桃山時代の建築になる建物があと二つありました。
南大門と、
鐘楼堂は、どちらも重要文化財。
一方、池の中に立つ護摩堂はかなり新しそうですな…
と、思ったら、護摩堂は「平成17年落慶」だとか。
どうりで…
それにしても、上に載せた写真には人が写っていません
参詣客が皆無だったわけではありませんけれど、海龍王寺にしても法華寺にしても、参詣客は少なくて、心静かに参観することができました。
このあたり、いかにも奈良だなぁ~ と思います。
こんな雰囲気に惹かれて、毎年奈良に出かけてしまうのかも知れません。
ということで、次はようやく「紀伊半島旅行記」の最終回(の予定)です
つづき:2014/07/27 紀伊半島旅行記(その33:最終回)
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