新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

小坂町の「近代化産業遺産」に酔いしれた(小坂鉱山事務所編・下)

2015-08-14 15:00:51 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「小坂町の『近代化産業遺産』に酔いしれた(小坂鉱山事務所編・上)」のつづきです。

小坂鉱山事務所の内部は史料館になっていて、小坂鉱山に関連する史料が展示されています。

その中で、私の目を惹いたのはこちら

現在の小坂町の巨大な空撮写真の上に、主要スポットをプロットして、往時の写真と解説が展示されています。

これは面白い

現在と過去を結びつけるにはとても判りやすい展示方法だと思いました

   

 また、小坂鉱山ゆかりの人々の展示は、へぇ~、ほぉ~連発でした。

まず、久原房之助。この方のお名前や業績については、ちょっとだけ知識がありましたが、彼小坂鉱山との関わり、そしてその後を整理するとこうなります。

久原さんは、小坂鉱山のオーナーだった藤田組・創設者の藤田伝三郎の甥(弟の四男)にあたります。大学卒業後、商社の森村組に入社しますが、採掘量の減少経営の危機に瀕していた小坂鉱山に引っ張られ、1897年に28歳にして「所長心得」に就任し(1900年からは所長)、若手技術者を活用して、「日本一の銅山」を基礎をつくりました。
ところが、1905年に藤田組を退社して(こちらの記事によれば「経営陣の内紛」が原因らしい)、新たな事業に乗り出します。それが、「久原鉱業日立鉱山」、現在の日立グループ日鉱グループ(現JX日鉱日石金属)の源です。

久原さんが小坂鉱山の再興に活用した「若手技術者」というのが、1897年に藤田組大森鉱山から精鉱課長として小坂鉱山に赴任してきた武田恭作1899年に小坂鉱山に配属された竹内雅彦1900年に藤田組に入社し電気主任技師として小坂鉱山に配属された小平(おだいら)浪平地元出身の米沢万陸青山隆太郎といった1867~1874年生まれの久原さん(1869年生)と同世代の若い技術者たち。


(移築前の小坂鉱山事務所正面に位置していた旧電練場の妻壁)

彼らの活躍によって小坂鉱山は息を吹き返した、というより輝き始めたわけですが、その後の彼らの経歴をみると、小平さんは1904年に藤田組を退社して1906年に久原鉱業所日立鉱山に入社し、1911年に久原鉱業の機械工場として日立製作所を設立、また、竹内さんと青山さんは1907年に、米沢さんは1911年にそれぞれ久原鉱業所日立鉱山に転職しています。

つまり、久原さんは、久原鉱業日立鉱山を興すと、気心の知れた技術者たちを呼び寄せて、藤田組の軛(くびき)から逃れた新天地での発展を期したわけですな。
彼らが去ったあとも小坂鉱山1990年まで「鉱山」であり続け、現在は製錬技術を生かして「都市鉱山」に変身を遂げていますから、久原さんは小坂鉱山の土台ができたことを確信した上での「引き抜き」だったのだろうなと思います。

さて、久原さん第一次世界大戦後の恐慌関東大震災などによる久原鉱業の経営危機と自身の病気を機に、一気にビジネスに対する情熱を失い1928年に久原鉱業の経営を親戚筋に譲りました。

この親戚筋というのが、最初の妻の兄、つまり義兄鮎川義介(あいかわ よしすけ)。
すでに1911年から戸畑鋳物(現在の日立金属日産自動車のルーツでもある)を創業・経営していた鮎川さんは、久原鉱業の社長に就任すると、同社を日本産業㈱を持ち株会社とする日産コンツェルンをつくり、その後、「連れ子」のような戸畑鋳物日産自動車もそのスジにつなげます。

藤田伝三郎久原房之助鮎川義介と、血族・姻族のつながりが織りなす「日産・日立グループ」の歴史を小坂鉱山をきっかけとして調べることになるとは思いもよりませんでした。

   

かなり退屈な話になったかもしれませんので、小坂鉱山事務所の外に出てみましょう。

門柱の傍らには、こんな「六角堂」が立っていました。

「門鑑詰所」という、判るような判らないようなこの建物は、説明板によりますと、

小坂鉱山内の各現場には、門鑑(守衛)の詰所があり、出入りする職員や来客を厳重に管理した。(中略)当初の詰所はどこも同じ形で、六角形の特徴的な建物だった。
この建物は、小坂鉱山事務所復原にあたり、正門脇に置かれていた門鑑詰所を模築。最盛期の小坂鉱山の情景を再現したものである。

だそうです。

ホワイトカラーの牙城を強調しているかのような白基調小坂鉱山事務所とは色遣いがまるで違いますが、てっぺんのトンガリは、小坂鉱山事務所の寄棟のてっぺんのトンガリと意匠を合わせていて、なかなかの調和を見せていると思います

ところで、小坂鉱山事務所2階にはレストランがありまして、私はこちらで昼食を摂りました。

なんというか、普通の洋食屋さんでした。

   

 当日の記事「帰省ドライブ&観光の2日目は超満足」に書きましたように、小坂鉱山事務所から明治百年通りを隔てた向かい側には、天使館(旧聖園マリア園)が立っています。

町のHPを転載しますと、

聖園マリア園は、昭和6年(1931)、小坂鉱山の協力を得た聖心愛子会が、鉱山従業員の子どもたちの保育を目的として設置した幼児教育施設でした。最初は銀山町にあった古い建物を改造して開設しましたが、昭和7年に待望の新園舎が建設されます。それが、現在の「天使館」です。
この保育園が聖園マリア園とよばれるようになったのは、昭和15年(1940)頃のことで、それまでは「聖園天使園」という名前でした。昭和50年(1975)の社会福祉法人こばと会への経営譲渡後は「小坂マリア園」と名称を変更。天使館は、平成4年(1992)に新園舎へ移転するまで使われました。
建物は木造平屋建で、キリスト教に基づいた保育園にふさわしく、西洋風の外観をしています。下見板張りの外壁、縦長の上げ下げ窓、屋根の上の棟飾等、小坂鉱山事務所や康楽館にも負けないデザインが特徴的です。

だそうです。

あみだくじのような窓の桟のデザインが良いなぁ

玄関もgood

前にも書きましたように、現在、小坂鉱山事務所が立っている場所には、小坂鉱山病院がありました。

小坂鉱山病院は、1908の築(小坂鉱山事務所3年後康楽館2年前)で、写真を見たり、唯一残る「旧小坂鉱山病院 記念棟」から想像するに、白い下見板張りの2階建てで、小坂鉱山事務所と同様、ルネサンス風の外観だったようです。

この病院は、残念ながら1949年焼失してしまったそうで、再建された病院も1997年に閉院し、翌年には解体されてしまった由。再建された病院がどのような建物だったのか知ることはできませんでしたが、1932年から1949年までの16年間聖園天使園小坂鉱山病院がどのようなコラボレーションを繰り広げていたのでしょうかねぇ~

   

小坂鉱山事務所・康楽館からの帰り道、ちょっとだけ遠回りして、かつて繁栄を誇ったという小樽部商店街を通りました。

大

営業してる様子が窺えるお店は数店のみで、ひとけは無く、ほとんど映画のオープンセットのような状態でした。

最盛期には3万人はいたのではないかと推察されるという小坂町の人口は、いまや5,500人と聞きます。

衰退の一途、、、かと思いきや、前記のように、小坂「都市鉱山」最前線の町として一部から注目を集めています。

電子機器の基盤携帯電話ハイブリッド車などの「廃品」から、、さらにはガリウムインジウムなどのレアメタルを回収して再利用可能になるまで純度を高める技術は、過去からの遺産として引き継がれているといいます。

この小さな町が、日本の未来の一翼(のかけらかもしれないけれど)を担っていることを感じつつ、実家へとクルマを走らせたのでありました。

コメント (3)
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小坂町の「近代化産業遺産」に酔いしれた(小坂鉱山事務所編・上)

2015-08-13 23:37:32 | 旅行記/美術館・博物館・アート

今夜は「MIISA星空のライヴVIII -MOON JOURNEY-」福岡公演ですが、お盆のきょう、今年の私が遠征できるはずもなく、「小坂町の『近代化産業遺産』に酔いしれた(康楽館編)」のつづきを書きます。

メインは小坂鉱山事務所のことなんですが、当日の記事「帰省ドライブ&観光の2日目は超満足」と重複しないように心したいと思います。

当日の記事で、

もともと小坂鉱山事務所は、川を隔てた「仕事エリア」に立っていたそうで、現在の場所は福利厚生エリアの一部で、「小坂鉱山病院が立っていたとのこと。

と書きましたが、康楽館を含めた位置関係を案内板で見てみますと、

小坂鉱山事務所事務所ですから、当然ながら鉱山会社セキュリティエリア内にあったわけですな。

実家に到着して、母に小坂での見聞を話したところ、母は「ご招待」康楽館での観劇に出かけたことがあったんですと
ところが、小坂鉱山事務所を見た記憶はないとな

小坂鉱山事務所が現在の場所に移設されたのはいつだったのかと、購入してきたガイドブックを見ると、解体工事1997年10月~1998年3月移築復原工事1999年2月~2000年11月で、その後、展示工事と外構工事を経て、竣工式2001年4月だったそうです。

なるほど、、、小坂鉱山事務所が史料館として観光できるようになってからまだ14年なんですな

さて、華麗「バルコニー付きポーチ」から館内に入り、

これまた華麗らせん階段を昇ると、

 

当然2なんですが、、、、

あれ・・・、がある

中庭

空中庭園というか、ラピュタというか・・・。

ガイドブックを引用しましょう。

小坂鉱山事務所は、明治38年(1905)に精錬所の工場群の中に位置する階段状の地形に建てられ、北に面した正面が三階建て東西面が二階建て南面が平屋建てという変則的な形状でした。その後、昭和17年(1942)の改築で背面にあたる南面部分に二階が増築されました。

旧西面(現東面)はこんな風です。

旧西面(現東面)

そして背面はこんな具合。

ですから、庭園「2階」ではなく、グラウンドレベルだったという次第です。

ところで、外面は「三角ペディメント付き上下(あげさげ)窓」が規則的に並び、ルネサンス風華麗なデザインなのに対して、中庭を巡る廻廊は、ほぼ全面がガラス張りで、細い窓枠が、日本建築の柱と梁を連想させます。
また、天井も、所長室を含めて全て板張りの格天井で、これまた「日本を感じさせる造りでした。

ちなみに、

この建物が創建された当時、国産の板ガラスはまだ作られておらず、すべてヨーロッパからの輸入品でした。ゆがんで見える古い窓ガラスの中にも、どこかに創建当時の輸入ガラスが残されているかもしれません。

だそうです。

基本的に「和様折衷」(外観はルネサンス風)の小坂鉱山事務所ですが、

バルコニー(建築学的にはベランダ)付きポーチは手すりの意匠などからイスラム風もしくはサラセン風などといわれ、エキゾチックな印象が建物のイメージを引き立てています。

だそうで、バルコニーからの眺めがなんともステキ

そして、透かし彫りがまた凝っておりまして、、、

判りますか? 「藤田組」「藤」「田」をあしらったデザイン
う~む、、、やりますな・・・

こんな小坂鉱山事務所所長室はさぞかし豪華な造りなんだろう・・・と思いきや、

意外に質素・・・(調度類はアンティークで再現したものとか)

と、またまた長くなってしまいましたが、まだまだ書き足りない・・・

ということで、「小坂鉱山事務所編・下」につづく。

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小坂町の「近代化産業遺産」に酔いしれた(康楽館編)

2015-08-12 11:00:46 | 旅行記

きのうの記事「帰省ドライブ&観光の2日目は超満足」「予告」しましたように、他の遠征記手つかずになっている中、きのうの小坂での見聞録を書きます。

東北道・小坂ICから樹海ライン10分ほど走り、案内板に従って交差点を左折すると、、、

ズラリと並ぶ そして、
おぉ~、康楽館

康楽館

そしてそして、駐車場を探そうとすると、すぐ目の前小坂鉱山事務所

気分は一気に盛り上がります

ちょっと気分を落ち着けてから、観光を開始したのですが、実際に観た順番と変えて、康楽館の紹介から始めましょう。

   

康楽館は、小坂鉱山厚生施設として、小坂鉱山の運営会社・藤田組DOWAホールディングスの前身)が建てた「多目的ホールで、落成は明治43年(1910)といいますから、100年を超える歴史を持つ劇場です。

重要文化財「康楽館」

そして、2002年には国の重要文化財の指定を受けているんですが、現役の劇場として使われているのがお見事
私が一関を出発するとき、クルマナビをセットしようと、「娯楽施設⇒秋田県」と選択すると、「わらび劇場」とこの康楽館2か所しか出てきませんでした
それはともかく、香川・琴平旧金毘羅大芝居(金丸座)(訪問記はこちらこちら)と同様、毎年、本物の歌舞伎が上演されるだけでなく、いわゆる「大衆演劇」毎日上演されているってのが凄い

これほど交通の便の悪い劇場で興行が成り立つのか不思議ではあります。

きのうも、施設見学のタイミング(公演の合間に実施)を見計らって劇場の外で待っておりますと、芝居がはねたらしく、役者さんたちが出入口がでてきます。
どうしたんだろうと思っていると、観客の皆さんお見送りでした

お客さん一人一人と握手したり、記念撮影に応じたりと、サービス満点ですねぇ

さて、お見送りが終わると施設見学の始まりです
黒子さんが見物客を案内してくれました。

まずは2階客席から。

外観は下見板張りの白ペンキ塗り「なんとなく洋風」ですが、内部は畳敷き花道のある昔ながらの芝居小屋でした。
ただし、天井は白ペンキを塗った板張りで、「なんとなく洋風」

そして、鳥屋を通って奈落へ。

すっぽんとか回り舞台は、旧金毘羅大芝居(金丸座)と同様に人力で動かしていて(必ず一公演一回すっぽん回り舞台を使っているんだそうな)、この辺は琴平で見聞済み

唯一電動に頼っているのは、緞帳の上げ下げだとか。

ちなみに康楽館緞帳の原画は、地元・小坂町出身の画家・福田豊四郎「樹氷」秋田県立近代美術館蔵)だそうです。

   

施設見学で一番面白かったのは、楽屋に残されている出演者たち落書きでした。

例えば、坂東玉三郎丈のとか(この公演のときのものだと思う)、

高倉健さんのニセ者のものとか(健さんは康楽館に来たことはない)・・・。
わたし的には、落語家の落書きが目を惹いて、桂文珍(2013年11月)三遊亭圓楽(2010年11月)林家木久扇(2008年10月)とか、へぇ~、ほぉ~連発でした。
そんな中で、こちら

柳家花緑さんの「自画像」、似てるなぁ~よく描けてるなぁ~

ちなみに、康楽館重要文化財に指定されて以降は、文化財保護の観点から、建物本体への落書き禁止されていて、「落書き需要」に応えるべく、専用の板を用意しているのだそうです。
上に載せた落書き地の木材新しいのはそんな理由によります。

   

ところで、康楽館には冷房設備がありません

今のような季節はどうしているかといいますと、、、

外に大型の冷房装置を据えて、ダクトで冷気を館内に引き込んでいました。
重要文化財ともなればいろいろ大変だ…

そうそう、屋根の上にある換気塔、屋根の峰と45度曲げて設置されています。

明治村で見た「日本赤十字社中央病院病棟」(記事はこちら)を思い出しました。

かなり長い記事になってしまいましたので、小坂鉱山事務所ほかのことは稿を改めます。

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帰省ドライブ&観光の2日目は超満足

2015-08-11 23:53:07 | 旅行記

「帰省ドライブ&観光の初日は大満足」のつづき、「帰省ドライブ&観光2日目ダイジェストです。

まず、きょうの旅程から。

ホテル東北道一関IC⇒(花輪SA)⇒小坂IC樹海ライン小坂鉱山事務所康楽館樹海ライン(県道2号・R7)北秋田市・大堤交差点R105北秋田市・諏訪岱交差点R285潟上市・飯塚古開交差点R7秋田市・臨海十字路R13名もない交差点市道実家

走行距離は、一関から小坂までがほぼ全線高速道利用で約190km小坂から実家まではすべて一般道利用で約140km、合計330kmでした。

で、以前からずっと行ってみたかった小坂鉱山事務所ほんんんんんっとうに素敵な建物でした。

まず、駐車場康楽館とも共用で、無料)にクルマを停めて、眺めた小坂鉱山事務所神々しいばかりで大感動

雑誌で見て憧れていた小坂鉱山事務所現物は想像以上に素晴らしい建物でした。

この小坂鉱山事務所、リーフレットから引用しますと(難しい単語が多い・・・)、

明治38年(1905)「旧小坂鉱山事務所」の誕生は、小坂鉱山近代化の歴史に深くかかわっています。
日本鉱業界の父と呼ばれた大島高任や「お雇い外国人」として日本鉱業界をリードしたクルト・ネットーらに支えられ、明治初期の「富国強兵」「殖産興業」に貢献した小坂鉱山。
その流れは、明治17年(1884)に払い下げを受けた藤田組にも引き継がれ、主要鉱山の地位を確立します。明治30年代、土鉱とよばれた鉱石が底をつき沈滞期を迎えていた小坂鉱山に「黒鉱自熔精錬」の成功は、新たな活気をもたらしました。その起死回生にたずさわった技術者たちが、その後の日本鉱業界に大きな影響をおよぼすことになります。
明治38年(1905)年に巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」は建設されました。まさに日本一の大鉱山のシンボルでもあったのです。

もともと小坂鉱山事務所は、川を隔てた「仕事エリア」に立っていたそうで、現在の場所は福利厚生エリアの一部で、「小坂鉱山病院が立っていたとのこと。

昔も今もすぐ隣に幼稚園「旧聖園マリア園」こと天使館が、

また、目と鼻の先に劇場「康楽館」が立っているのも宜(むべ)なるかな・・・

ということで、きょうはここまで。

後日(あしたかも・・・)、詳細を書きたいと思っています。

つづき:2015/08/12 小坂町の「近代化産業遺産」に酔いしれた(康楽館編)

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帰省ドライブ&観光の初日は大満足

2015-08-10 20:53:31 | 旅行記

きのうの記事「あす、1泊2日で帰省します」で予告したとおり、きょう、「帰省ドライブ&観光をスタートさせました。

きょうの旅程は、以下のとおり。

自宅新見沼大橋有料道路東北道浦和IC佐野SA 満車⇒(都賀西方PA)⇒(安達太良SA)⇒(長者原SA)⇒一関IC毛越寺中尊寺高館義経堂⇒ホテル

で、帰省ドライブがこれほど楽々だったのは、ちょっと記憶にありません

そりゃ、朝食を摂ろうと立ち寄った佐野SAが駐車場空きがなく、そのまま本線に戻るというできごともありましたし、スピードダウンする区間もありましたけれど、渋滞が皆無だというのは、近年なことかも・・・
しかも、外気温も27℃~32℃の間をウロウロしていて、途中、エアコンを切ったりもしていました。

その結果、約450km走行したのに、燃料はまだ半分近く残っていて、燃費上々です

   

詳細は後日書きたいと思っていますが(またネタ溜まってしまった・・・)、きょうの3スポット超ダイジェストで。

まず毛越寺「もうつうじ」と読みます)は、とにかく広々とした庭園が印象的でした。

現在、当時の伽藍はまったく残っておらず、再建された堂宇はほんのちょっぴりで、往時はどんな眺めだったのか想像できません
想像図だけでなく、模型とかCGで観られる工夫があれば良いのにねぇ。

それと、まだ8月の中旬に入ったばかりだというのに、もうモミジ色づき始めていたこと

きょうなんて、汗だくの暑さだったというのに、さすが東北

   

中尊寺は、あれほどきつい坂の上にあるとはつゆ知らず、、、(その分、山上からの眺めはよろし)

中尊寺からの眺め

また、金色堂の屋根が「瓦」の形に加工された木材で葺かれていることもつゆ知らず・・・ そして、軒先の「丸瓦」の一部は先端がボロボロになっていることが気になりました。

現在は覆堂で完全に保護されている金色堂ですが、先代の覆堂は、風雨日光が入り込む構造でしたから仕方のないことなのかもしれません。

   

最後の高館義経堂「たかだちぎけいどう」と読みます)も、中尊寺ほどではないにしろ、小高い丘の上にありまして、

これまた眺めいい
蛇行する北上川と、背景の、そして緑鮮やか田んぼが美しい

高館義経堂からの眺め

たまにはこんな風景を見ないと、気持ちがささくれますぞ、K.I.T

ということで、「帰省ドライブ&観光の初日は、無事かつ満足の中で終えることができたのでありました。

つづき:2015/08/11 帰省ドライブ&観光の2日目は超満足

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あす、1泊2日で帰省します

2015-08-09 22:13:28 | 日記・エッセイ・コラム

金曜日から10日間夏休みに突入した私、当初の予定では、きのう(8日・土曜日)きょう(9日・日曜日)帰省する予定にしていました。

ところが、先週木曜日、珍しくケータイを自宅置き忘れて出勤してしまった私、帰宅してケータイをチェックすると、実家からの着信履歴が入っていました。

実家からケータイに電話が入るなんて、ほとんどないのに、よりによってケータイを忘れていった日に電話がはいるか…
世の中って、こんなもんか… と感じ入りながら実家に電話すると、母親曰く、

8日か9日に帰ってくると言ってたけど、11日以降にできない?

ですと。

なんでも、実家では、経年劣化著しい門柱と塀を修理中で、車庫職人さんたち休憩場所にしているのだとか。
そして、修理は11日まで続き、修理が終わるまでは車庫が使えないのだそうです。

そして、母親は、

仙台にでも泊まって、観光してくれば?

とな。

う~む、、、帰省2~3日遅らせるのはやぶさかではないけれど、さて、どうしようか… と、しばし考えた後、

そうだ平泉に行こう そして、小坂にも出かけてみよう

と思い立ちました。

実は私、平泉観光したことがなく、毎年夏休み東北道往復するたびに、平泉を素通りすることに忸怩たるものを感じていましたし、秋田県北東部にある小坂(旧南部藩領で、旧陸奥国)には以前から行きたい と思いつつも、実家のある秋田市(旧久保田藩、旧出羽国)からは結構遠くて叶いませんでした

そんなこともあって、帰省ドライブの概要がさっさと決まり一関ホテル確保

加えて、東北道渋滞予測も、きのう・きょうと比べて格段に渋滞が少ない

こりゃイイかも です (割引は無いけれど・・・)

どんな帰省ドライブになるのでしょうか? 楽しみです

【追記】タイトルを間違えていました

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きょうはちょっと過ごしやすかったような…

2015-08-08 23:00:34 | 映画

ここ1週間の酷暑に比べれば、かなりマシだったような気がして、きょうも外出してきました

きょうの行程は以下のとおりです。

自宅⇒徒歩最寄り駅武蔵野線南浦和駅京浜東北線浦和駅⇒徒歩シネコン⇒徒歩浦和駅湘南新宿ライン恵比寿駅山手線目黒駅⇒徒歩目黒区美術館⇒徒歩目黒駅山手線池袋駅買い物池袋駅埼京線最寄り駅⇒徒歩⇒自宅

この行程から察せられるかもしれませんが、今日のTASKは、以下の三つでした。

1) 映画「日本のいちばん長い日」を鑑賞
2) 「村野藤吾の建築」を鑑賞
3) 帰省土産を購入

そして、無事にTASK完遂

   

まずは、きょう公開初日となった原田眞人監督・脚本の 映画「日本のいちばん長い日」のことから書き始めます。

「日本のいちばん長い日」といえば岡本喜八監督による1967に公開された作品が思い出される私でございまして(TVでしか観たことがない…)、三船敏郎演じる阿南陸軍大臣が、閉じられた雨戸の隙間から朝日が差し込む縁側で自刃するシーン(うなり声が蘇るよう…)がきつく脳裏に刻み込まれています、

そんなわけで、私は、この1967年版と、2015年版とで、どこが違う?、どれだけ違う? という視点から見始めたのですが、、、、かなぁ~り違っていました

もちろん、ベースとなるストーリーは、現実に起こったできとですし、さらにいえば、版が変わったとはいえ、ベースとなったのは同じ半藤一利さんの作品ですから、1967年版2015年版とで基本が違うはずはないのですが、「ただのリメイクじゃないよ」という原田監督のつぶやきが聞こえるよう

そもそも、玉音盤争奪戦をメインに、1945年8月14~15日24時間に焦点を絞った1967年版に対して、2015年版は、昭和天皇がぐっと前に出て昭和天皇・鈴木首相・阿南陸相3人の「大人のつながり」を描き込んだ点で大いに異なります

そして、余計な「みどころ」創作することなく、事実(証言)に沿って近代日本にとって最大級「重要な日々」真っ正面から描いたこの作品、これはこれは良い作品だぁ

ただ、を言えば、なんの予備知識先入観もなしでこの作品を観た人が、話の流れを理解をできるか疑問です。
もちろん、映画ですから、「絵で語る」のが基本で、お節介なナレーションやテロップで説明を加えるのは無粋の極みだと私は思っています(この点で原田監督潔い
さはさりながら、登場人物のほとんどが早口だし、出てくる単語の多くが今や使われなくなってしまったことば(いわゆる“死語”
ちょっとこの辺りを危惧しております。

一方、阿南陸相役の役所広司鈴木首相役の山努迫水書記官役の堤真一を始め、出演者の演技は素晴らしいものだったと思います。
とりわけ昭和天皇を演じたモックン、相当にプレッシャーがあったとは思いますが、見事でした。良い役者になってきなぁと思います。

まだ書きたいネタが残っていますが、「村野藤吾の建築」の話ともども、また後日

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平日休みの過ごし方

2015-08-08 07:40:03 | 美術館・博物館・アート

夏休み初日のきょうきのうは平日貴重平日休みであります。
もっとも、来週はずっと「平日休み」なのですが、私は帰省していますので、首都圏での平日休みはやはり貴重です

4年前の記事「めったにない『平日休み』は忙しい」で、平日休みの過ごし方について、

1) 官公庁に行く
2) 銀行の窓口に行く(ATMで現金を入金する)
3) 休日には混んでいるところに行く

3つの行動を挙げてみました。
そして、きょうきのうは、上記の2) 3) を決行 (役所には用事がなかった)

まず、4年前と同様、貯金箱に貯まった1円玉と5円玉を銀行口座に入金し(約8ヶ月で300円ほど貯まっていました)、3)日本橋室町三井記念美術館で開催中の「錦絵誕生250年 フィラデルフィア美術館浮世絵名品展 春信一番! 写楽二番!」を選びました。

三井記念美術館

様々な展覧会の中で、浮世絵絵巻物の展覧会は、ちょっと観客が多いと、行列に並ばないと間近に観られないのが常ですから…。
しかも、写楽北斎も良いのですが、わたしとしては広重春信の作品・作風が好きなんです

と、ここで昨夜は眠くなり、撃沈
「きょう」「きのう」に修正して出直しです。

   

さて、「フィラデルフィア美術館浮世絵名品展」、楽しませていただきました
浮世絵版画の性格から、借り出した作品を全品展示することは叶わず、会期中に展示替えが必要なため、点数はさほど多くはありませんが(70点ほど)、保存状態の良い作品が多く、また、目を惹く作品が多くて、私のメモ帳には結構な量の書き込みが残りました。

やはり、タイトルどおり、春信の作品が多くかつ魅力的な作品が目白押しで、私は状態

きのう観た春信の作品から「お持ち帰りしたい作品」pick upしますと、「やつし芦葉達磨」「五常 智」「遊女と客(林間煖酒焼紅葉)」「お波お初」、、、と止まりません

これらの作品のうち、ポストカードを買えた「やつし芦葉達磨」を載せておきましょう。

鈴木春信「やつし芦葉達磨」着物のピンクが鮮やかです。
そして、写真では判りませんが、現物を観ると、版木を摺重ねた立体感が感じられて、まさしく芦の葉に乗った美人(達磨)が画面から浮かび上がってくるようでした。

う~~んんん、図録から「お波お初」載せちゃおう

この2作品に限らず、春信って、着物の裾の描き方がホント魅力的です。
春信の作品をご覧になる機会がありましたら、かわいらしい顔と共に、着物の裾にもご注目くださいませ。

    

もう一人の金看板写楽の作品には初見のものはありませんでしたが、4年半前の「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦谷重三郎」展(記事はこちら)以来、久しぶりに大童山を観られてにんまりでした。

また、「三代目沢村宋十郎の大岸蔵人」では、宋十郎の持つ扇の柄に思わず注目

粋ですなぁ、涼しげですなぁ~、、、と感心したら、実はこの文様「観世水(かんぜみず)」という定番の文様なんだとか。

もともとは能楽観世家の定紋で、こちらの記事を借りれば、

四代目沢村宗十郎がまだ源之助を名乗っていた時代に「小間物屋弥七」の役で着て当たり、彼の人気も手伝って流行した。

のだとか。

なるほど・・・。三代目宋十郎は、息子が流行らせた文様の扇を持っていらっしゃるわけですな。

   

その他、目を惹いた作品を急いで(これから出かけるもので)紹介します。

北斎の代表作の一つ「富嶽三十六景 凱風快晴」は、なんとも素晴らしい保存状態で、山腹にくっきり版木の木目が見えるのが面白い

広重の作品では、私が一番カッコイイと思っている「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」が、色鮮やかで、ケースの中からを放っているよう

春勝「二代目嵐三五郎の工藤祐経」を観るのは、2年半ぶり(記事はこちら)。
「已己巳己」「いこみき」と読むんでしたっけ・・・

というころで、ちょっと書き足りないのですが、本編はここまで

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祝 夏休み!

2015-08-06 22:52:20 | タウンウオッチング

私の会社は明日から10日間の夏休みでして、実質、きょうの夕方から夏休みに突入しました

通勤・帰宅時の道路は、先々週から「夏休みモード」で混み出して、今週は連日渋滞に巻き込まれていたのですが、それも今夜の「苦行一休みです。

その「苦行、毎年のことながら、交通量が多くて、「みんな、いったいどこからどこへ、何しに行くんだろ」と思うばかり・・・

しかも、だ きのうの帰りは、環八用賀中学校交差点あたりで道路工事が行われていて、いつもなら2分程度で通過できる瀬田交差点~環八東名交差点の区間を通るのに要した時間は30分
ただでさえ「夏休みモード」混んでいるというのに、まったくいつもと同じように20:00道路工事を始めるんだから・・・
もともと、R246の神奈川区間では21:00以降から夜間工事を始めているのに、環八笹目通りの東京区間では、夕方の渋滞尾を引いているような20:00から夜間工事を始めるものだから、何度も工事渋滞に嵌まり、何とかならんかと思っている私でありまして、昨夜の「状況を無視しているかのような用賀中学校交差点あたりでの夜間工事には怒りを覚えました

   

ところで、きょうの帰り道、職場から遠くない地点で、完全にイカれた軽トラに遭遇しました。

私がこの軽トラを意識し始めたのは、交差点で信号待ちをしていたときのこと。

どこからか音楽が聞こえます。んんん? 軍歌?
でも、周りに街宣車っぽいクルマはいません

と、私のクルマの後ろで信号待ちしていた軽トラが車線変更して右折車線に入って前に進みます。私のクルマの横を通り過ぎるとき、軍歌の音源がこの軽トラであることが判りました。
でも、見かけは、フツーの白い軽トラ
趣味か・・・、と思ううちに、その軽トラは、交差点の手前から左の直進・左折レーンに入り、信号待ち先頭のクルマの前へ

ええっ 何、それ
そんなのあり?

なんだか現実のできごととは思えない

狐につままれた気分のうちに、信号が変わって前進

交差点を通過しても、まだかすかに軍歌が聞こえる。
っつうことは、さっきの軽トラは私のクルマの数台前を走っているようです。

しばらく走ってカーブにさしかかると、くだんの軽トラが私のクルマの4~5台前を走ってるのが見えました。

あれ? さっきの信号待ちのとき、私のクルマの前には2~3台くらいしかいなかったはずです。

ということは、あの軽トラは、無茶な追い越しをしただけでなく、信号無視をして交差点を直進したとしか考えられません

そして、聞こえてくる軍歌の音量は次第にアップして、窓を閉めていても聞こえる

もしかして街宣車ごっこ? (そんな遊びがあるとは聞いたことがありませぬ)

そして、この「なんちゃって街宣車」軽トラ、とある交差点を左折して私の進路から去って行きました。
良かった良かった…

ただ、軽トラが左折した交差点は、一方通行の出口…。

連日の酷暑イカれてしまったとしか思えません

良い子はマネしちゃだめだよ

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2週連続遠征、まずは関西遠征記(その4)

2015-08-02 22:19:52 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2週連続遠征、まずは関西遠征記(その3)」のつづきも、国立民族学博物館(みんぱく)見聞録です。

この翌日に訪れた京都国立博物館では特集陳列「日本の仮面 人と神仏、鬼の多彩な表情」を観ました。

京都周辺の社寺に伝来した仮面35面を展示します。東寺の五重塔供養法会で用いられた十二天面(平安時代)、八部衆面(鎌倉時代)、丹後国分寺で追儺会に登場した毘沙門天面(鎌倉時代)、神社に伝来した能狂言面(室町~江戸時代)などです。仮面は儀礼や芸能に使用するための道具ですが、それぞれ造られた時代の造形の特徴が現れています。その多彩な表情をご覧ください。

というものだったのですが、みんぱくで観たたくさんの仮面毒気に当てられたというか、魅せられ過ぎたというか、日本の仮面のインパクトは弱かった・・・

ということで、今回はみんぱくで観た仮面特集です。

まずは、パプア・ニューギニアイアトムル族の仮面。

 カッコイイ
照明の当て方も上手いと思います。

次はこれまたパプア・ニューギニアの、今度はバイニング族(説明板の表記による)の大きな仮面。

説明板によれば、

木の枠にタパをぬいつけて、鳥をあらわしている。子どもの誕生を祝う儀礼などのさいに、仮面の下部に長い草の葉をのれん状につけ、中に人が入って踊る。

だそうです。
には見えないなぁ・・・
で、ここからは「細長い系」で、こちらもパプア・ニューギニアセピック川流域)のもので、これまた中に人が入るのだとか。

籐で編んだ仮面のなかに人が入り、下側にある人面の目から外を見る。
儀礼の場に仮面をかぶったものが現れたとき、祖先の霊が現世にもどってきたとされる。

だそうな。

次もセピック川の仮面。
これは、長い

そして、こちらはさらに長い



この仮面をつけたら、上半身が隠れてしまいそうです

と、考えてみれば、ここまで紹介した仮面はすべてパプア・ニューギニアのもの

大航海時代、パプア・ニューギニアにやって来た西欧の探検隊が島に上陸した場面を想像してみましょう。
「ここはどこ?的な不安な状況の探検隊の目の前に、こんな仮面をつけた住民たちが集まってきたとしたら・・・、かなり不安だったことでしょうねぇ

それにしても、パプア・ニューギニアがこれほどまでに「仮面王国」だったとは知りませんでした

勉強になりました。

   

ところできょうは、体調不良「MISIA星空のライヴVIII -MOON JOURNEY-」高松公演キャンセルこちらの記事をご参照方)したMISIA「ROCK IN JAPAN FES. 2015」のステージ立つ(立った)日
回復できているんだろうか・・・不安だったのですが、終了後のTwitterを見ると、絶賛の嵐

良かったぁ~

完全復活といってよろしいのでしょうか?

実は、この記事を書いている途中から「ROCK IN JAPAN FES. 2015」でのMISIAに関するTwitterに気もそぞろで・・・この記事品質は保証できません

それにしても、初の生MISIAの聴衆をこれほど掴むMISIAさすが です。

これで安心してあさってNHK「いのちのうた」を迎えることできます

と、最後に、MISIAを連想してしまったみんぱくの展示を紹介して今夜はお終いにしましょう。

2015/08/15 2週連続遠征、まずは関西遠征記(その5)

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