新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2025年最初の遠征は愛知へ #2-3

2025-01-18 15:03:35 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-2」のつづきです。

名古屋市市政資料館第4~7常設展示室をすっ飛ばして「控訴第貮號法廷」だったという第8常設展示室から。

旧刑事訴訟法時代の法廷が再現されていました

この復原法廷は、大正11年(1922)にこの庁舎が新築された際の名古屋控訴院第2号法廷を再現したもので、刑事合議制の公判をモデルにしています、
当寺の控訴院は、地方裁判所の第一審判決に対する控訴などの裁判が3人の判事によって行われ、正面の法壇の中央に判事、その左側に検事、右側に裁判所書記が着席しました。(以下略)

この辺りは、朝ドラ「虎に翼」を視ていた人にはすっかり馴染んだ光景です。
この手前には、実際に使われたという弁護士の法服と法冠が展示されていまして、

戦前の法服・法冠は、明治23(1890)年11月1日に施行された「裁判所構成法」によって定められました。当時、海外の国々の法服にならって、内外に威厳を示す法服ということで、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の黒川真頼教授が依頼を受け、デザインしました。ヨーロッパの法服を参考にして、それに古代の官服のイメージを加えた和洋折衷のものとなっています。
判事や検事の法服には襟と胸に唐草模様と桐の刺繍がほどこされています。実は、この刺繍の色で官職が、桐の個数で裁判所の等級が区別されています。判事の刺繍は紫色大審院判事が7個、控訴院判事が5個、地方裁判所と区裁判所は3個でした。検事については刺繍の色は緋色桐の数は判事と同じ書記深緑の唐草模様の刺繍のみ。弁護士襟と胸唐草模様のみの刺繍がほどこされていました。

さらに説明板によれば、現在も裁判官が着用する法服の色がなのは、は他の色に染まることがないため、『公正さ』を象徴する色として選ばれている」のだそうな。

この法服の規定や、法廷での座席からは、検事の位置づけが現在とはかなり違うことが判ります。ちなみに現在、検事は、法服を脱ぎ法壇から降りて、弁護士と同じ高さで向き合っています。

上に載せた復原法廷は、

名古屋地方裁判所単独制による裁判を行うために設けられていた法廷を、傍聴席の一部を除き、昭和23年(1948)ころの模様に再現したものです。
裁判所構成法が施行された明治23年(1980)以降の地方裁判所では、法廷における裁判は、判事3人による合議制が採用されていましたが、昭和22年裁判所法に変わってからは、単独制が原則になりました。

というもの。
そういえば、「虎に翼」で、新潟地裁三條支部での裁判とか、新潟地裁での暴行事件の裁判をトラちゃんひとりで裁いていましたっけ…

   

時代が行ったり来たりしていますが、明治23年名古屋地裁が出した判決言渡書のレプリカが展示されていました。

用箋の右上に大きく「天皇ノ名二於テ」と印刷されているのが特徴的ですが、

明治23年11月の明治憲法施行に伴い、菊の紋章「天皇ノ名二於テ」の文字が記載されました、翌年2月廃止されました。

と、この用箋が使われたのは、わずか4か月足らずの期間だったみたい
どうしてこんなに短期間に変更されたのでしょうか?
大日本帝国憲法では、

第五十七條 司法權ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判󠄁所󠄁之ヲ行フ

と規定していましたから、判決言渡書「天皇ノ名二於テ」で始まっても不思議はないのですがねぇ…
もしかして、下級審で「天皇ノ名二於テ」出された判決が上級審で覆ることがあるということが関係しているのかなぁ

法律に関してド素人の私にはよく判りませんので、先に進みます

   

最後の第11常設展示室は元「控訴第壹號 大法廷」

この中は復原された「陪審法廷」でした。

正面の法壇上に判事席があるのは他の法廷と一緒ですが、左側には、

法壇上に検事席、法壇下のひな壇に弁護人席があり、右側には、

ひな壇状の「陪審員席」がありました。

日本でも陪審制を採っていた時期があったことは聞いたことがある気がしますが、現在の裁判員裁判どう違うのでしょうか?

この陪審法廷は、昭和3年(1928)陪審法の施行に伴い、この庁舎の西側に新築された陪審庁舎内に設けられていた法廷の主要部分を移設したものです。
陪審制度は、(1) 特定の刑事事件の第一審公判に、一般人から抽せん等で選ばれた12名の陪審員が列席して、犯罪事実の有無を評議して答申する、(2) 裁判所は答申を不当と認める時は、他の陪審に付すことができ、相当と認めるときは採用して判決を宣告する、というものでした。
陪審裁判が全国で行われた事件数は、施行の翌年には143件を数えましたが、陪審裁判には控訴ができなかったことや、多額の費用を要したことなどの理由により、その後次第に活用されなくなり、ついに昭和18年(1943)に施行が停止され、今日に至っています。

だそうで、要は、一般人が「犯罪事実の有無」を答申し、裁判所はその答申が相当と認めるときはそれを採用して判決を宣告する、というものらしい。
でも、裁判所が答申を不当と認めた場合には別の陪審に付すことができるのでは、あまりにも陪審員の評議や答申を軽視してるのではないかと思われます。

なお、現在の裁判員裁判は、最高裁のサイトによれば、

証拠をすべて調べたら,今度は,事実を認定し,被告人が有罪か無罪か有罪だとしたらどんな刑にするべきかを,裁判官と一緒に議論し(評議),決定する(評決)ことになります。
評議を尽くしても,意見の全員一致が得られなかったとき,評決は,多数決により行われます。
ただし,裁判員だけによる意見では,被告人に不利な判断(被告人が有罪か無罪かの評決の場面では,有罪の判断)をすることはできず,裁判官1人以上が多数意見に賛成していることが必要です。
有罪か無罪か,有罪の場合の刑に関する裁判員の意見は,裁判官と同じ重みを持ちます

だそうで、一般人(裁判員)がプロの裁判官と一緒に議論・評決するところが、陪審制との大きな違いのようです。
私に「裁判員」の役目が回ってくることなんてあるのかな?

   

名古屋市市政資料館の見学の最後に、1階にあるという留置場を見に行きました。

そして、これが独居房の内部。

でも、どうして裁判所の中留置場があるんだろうか?
と不思議に思ったら、「留置場の謎」と題する説明板がありました。

この建物ができた大正11年の名古屋控訴院だった頃、こちらの留置場はどのように使われていたのでしょうか。
実は、この留置場がどのような目的に使われていたのか詳しく記録した資料は残っていません(中略) 当時は、裁判官と検事が同じ建物に居たことから、おそらく、現在でいう「裁判中の被告人」や「まだ起訴されていない被疑者」の立場にある人などを、取り調べのためにこの建物に呼び、一時的に収容しておくために用いられた場所であったと考えられます
ですから、この留置場は、「懲役○年」といった判決をうけた囚人が刑に服す場所ではないようです。
現在の裁判所には、主に裁判を受けるために裁判所に移送された被告人が、自分の裁判が始まるまで、一時的に収容される「仮監(かりかん)」という場所がありますが、「留置場」はありません

だそうです。
この説明板の別の部分で、裁判中の刑事被告人や死刑確定者を収監する拘置所は、東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡の8か所しかないことを知りました。
もちろん、日本各地に「拘置支所」はありますが、拘置所が東京以西にしかなく、しかも関西に3か所も集中しているのはどうしたことなんでしょ?

そんな疑問を感じつつ、名古屋市市政資料館見学を終えました

   

ここで、ちょっと「法服・法冠」の話を蒸し返します。

戦前の「法服・法冠」似た装束の人たちの写真を見たことがあります。

東京美術学校の記念写真です。(最前列の左から6人目が岡倉天心)
もしかして、東京美術学校の教官・学生の制服も、デザインしたのは黒川真頼さんか? と思ってしらべたところ、こちらのサイトによると、宮田亮平東京藝術大学学長(当時)曰く、

東京美術学校が設立された時代の日本の裁判官や国会の議長の衣装は、威厳を作るための制服として西洋風ではなくて日本の装束として、聖徳太子をヒントに作られておりました設立当時の東京美術学校の制服も、日本のファッションデザインを確立された黒川真頼先生が岡倉天心の命によりデザインしたものです。当初の評判はあまり良くなく5年ほどでなくなってしまったものですが、黒川真頼先生がデザインされたえび茶色の装束をまとってみると、本学の創立120周年を迎える記念の年の卒業式に最適な姿で、『命』という文字を揮毫できたと思います。

ですと
ビンゴ

    

ということで、いやぁ面白かった

外に出た私は、名古屋市市政資料館の周りを一周したのち、次の目的地「徳川美術館」へと向かいました。

つづき:2025/01/19 2025年最初の遠征は愛知へ #2-4

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-2

2025-01-17 15:47:25 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-1」のつづきは、名古屋市市政資料館3階の見聞録です。

なお、名古屋市市政資料館1階は基本的に「書庫(この施設は名古屋市の公文書館でもある)、2階閲覧室と市民が借りられる集会所になっていて、3階司法と名古屋市政に関する常設展示室企画展示室に割り当てられていました。

まずは「檢事長室」のプレートが掲げられた第1常設展示室「名古屋控訴院メモリアル」

この建物は「名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」だったわけですが、

明治22年(1889)大日本国憲法が発布されたのに伴い、司法の分野においても、裁判所構成法などにより近代的な司法制度が定められました。裁判所構成法はドイツにならい、大審院・控訴院・地方裁判所・区裁判所の組織形態をとり、大審院は東京に、控訴院は全国7か所(のちに8か所となる)に、地方裁判所・区裁判所は各地に設置されました。裁判所庁舎は、従来の建物を流用した木造から、大審院をはじめとして煉瓦造へ、更に鉄筋コンクリート造へと、時代とともに変遷していきます。控訴院庁舎も、明治10年(1877)竣工の建物を転用した長崎控訴院から、大正15年(1826)竣工の札幌控訴院まで、その構造・様式・規模ともさまざまです。全国8か所の控訴院庁舎のうち、現在も残っているのは、札幌と名古屋の2か所のみです。

だとか。
へぇ~、現存する控訴院庁舎は札幌と名古屋のみとな

旧札幌控訴院(現札幌市資料館)の建物は、2022年4月の旭川・札幌遠征のとき、外観だけ拝見しました (記事)

旧札幌控訴院の車寄せを良く見ると、

「目隠しした女性」「天秤」「剣(天秤の支柱)と、「正義の女神(テミス)」をイメージさせるレリーフで飾られていました(「札幌控訴院」の字体がステキ)。
一方、旧名古屋控訴院はと言いますと、

何やら金色に輝く徽章が掲げられていまして、「これは何?」と思っていました。
すると、第1常設展示室に、そのレプリカが展示されていて、こんな説明がされていました

この建物の正面、車寄の上部に神鏡と神剣を組み合わせたこの装飾が取り付けられています。
この建物は裁判を行うところであり、人が人を裁くという厳粛な行為が行われる神聖な場所であるところから、建築的にも、装飾的にもいろいろと配慮がなされています。それは、神聖さを建築的に表すドーム秤の絵が描かれているステンドグラスなどにも示されていますが、公正な裁判を意味する神鏡と神剣を組み合わせたこの装飾もこうした趣旨を表したもので、厳正で公平な裁判を静かに主張しています。

神鏡は、真実を写すということで、「目隠しした女性」の代わりだと考えればよいということでしょうか

   

第2常設展示室立派会議室

この部屋は、創建時控訴院の会議室として設置され、長い間、重要な役割を果たしてきました。部屋の南側は露台に通じる扉北側には奉安所を設け、重厚な調度品を置いて、全体に荘重な雰囲気をかもし出しています。(中略)
この部屋は、長い歳月の中で幾度か内装を変えられたので、残された文献や当時の写真、聞きとり調査などを手掛かりとして創建時の姿に復原したものです。

説明にある「奉安所」とは、いわゆる「御真影」を飾っていた場所と推察しますが、頭上に菊の御紋をいただき、これでもか とばかりに何重ものカーテンで飾られた設えは、「いかにも」威厳をたたえていました

一方で、天井のシャンデリアは、意外と質素

まぁ、ここは宴会場(ボールルーム)ではなく「会議室」ですからねぇ…

   

第3常設展示室は、第4~7常設展示室での名古屋市政に関する展示への「つなぎ」のような感じの「名古屋近代建築史」

ここで私の目を惹いたのが、「いとう呉服店」の模型でした。模型、それも建物の模型となると、私、目がないのですよ

この建物は、中区栄の交差点にありました。
明治43(1910)年に、いとう呉服店の店舗として建設されましたが、大正14(1925)年には、松坂屋百貨店と改称され、南大津通りの現在地へ移転したため、その後は栄屋の店舗となっていました。久しく名古屋のひとびとに親しまれていた建物でしたが、戦災を受けてとりこわされました。(中略)
道路が交差する角地にあったため、それぞれの道路に面して出入口を付け、屋上のドームも二方向からの景観に対応するように配置されています。設計者は、建築家鈴木禎次です。
この建物は、名古屋の商店建築が、江戸時代かの古い形式から、近代的な商業建築へと移り変わる初期の様子をよく示しています。

そうか、松坂屋「いとう呉服店」から始まったのか…
と、ここで以前から知りたいと思っていた謎を解明できました。

松坂屋の商標は、で囲まれた井桁の中に漢字一文字が書かれたものなのですが、私はこの漢字が読めず、ずっとスッキリできずにいました

この記事を書くにあたって調べてみると、松坂屋名古屋店のSHOP BLOGに詳細な説明が載っていました。

通常「いとうまる」と呼ばれている松坂屋の商標は、創業家である伊藤家の「藤」の文字を、組織と団結を表す「井桁」と完全を意味する「円」で囲んだものである。1784年(天明4)に記された「暖簾の明細書」には「白揚り 紋丸の内は井筒藤字(白揚りとは模様を白く染め抜くこと、井筒は井桁の意)と表現されている。この、「いとうまる」の商標がいつ定められたものかは確かではないが、それが史料に出てくるのは、暖簾分けを成文化した1768年(明和5)の「定録(さだめろく)」が最初であった。この定録には、支配人以上は「いとうまる」、支配脇以下は井桁のない「まるふじ」の暖簾を許すということが記されている。呉服店の暖簾は、木綿製の紺染めを白抜きしたものが一般的であったが、松坂屋では、地色がもしくは赤(柿色)のものを用いていた。

なるほどぉ~
と納得したのもつかの間、新たに「なぜ『いとう呉服店』『松坂屋』という屋号に変えた?」という疑問が沸いてきました。
これもまた松坂屋名古屋店のSHOP BLOGに答えがありました

1768年(明和5年)4月、名古屋の伊藤屋は、江戸・上野広小路の呉服店であった松坂屋を買収し、念願の江戸進出を果たしました。買収が成立すると、屋号は長年にわたり江戸市民に親しまれた松坂屋名を存続し「いとう松坂屋」として地域密着経営を展開したこともあり、上野店はめざましい繁盛ぶりであったとのことです。
伊藤屋は1910年(明治43年)「株式会社いとう呉服店」を創立し百貨店に転業しました。その後、国内では洋装が主流となり、呉服店という名称が時代にそぐわないものとなったため、1925年(大正14年)には名古屋、上野、銀座、大阪の全店の商号を松坂屋に統一し「株式会社松坂屋」が誕生することになったのです。

これはこれは…
買収した江戸の呉服店の屋号を継承して旧松坂屋以来の顧客をつなぎとめたと共に「いとう松坂屋」新しい顧客を獲得したというわけですな。
でも、1925年に、上野・銀座だけでなく、名古屋・大阪の店も「松坂屋」に統一してしまったとは… 名古屋では反発はなかったのでしょうか? それにしても経営陣は思いきったことをしたものだと思います。

ここでふと思い出した話。
1980年代、日産自動車が、米国ではそれまで「DATSUN」「NISSAN」と使い分けていたブランド名を「NISSAN」に統一したのですが、このとき、米国のユーザーからは、「乗用車メーカーのDATSUNが、小型トラックメーカーのNISSANに買収された」と誤解されたのだとか…。

と、かなり脇道に逸れてきたところで、「#2-3」につづきます。
「#2-3」では、「名古屋市政」に関する展示をすっ飛ばして「司法展示」のことから再開します。

つづき:2025/01/18 2025年最初の遠征は愛知へ #2-3

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-1

2025-01-15 14:52:44 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #1」のつづきは、愛知遠征2日目(1月12日(日))編の始まりです。

私は、遠征2日目名古屋市内の観光にあてて、昼下がりの早めの新幹線で帰ることにしていました。
ただ、その観光スポットとして出発前からピックアップしていたのは、朝ドラ「虎に翼」東京地裁に見立てられていた名古屋市市政資料館(旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎)だけでした。
この状況は当日朝になっても変わらず、地図アプリを見ながら、観光スポットルートを検討していました。
そして、最終的に決めたのが、「#0」で書いたように、名古屋駅⇒名古屋市市政資料館⇒徳川美術館⇒鶴舞公園⇒名古屋駅という周回ルートでした。

9時をちょいと過ぎた頃に行動を開始し、まずは名古屋駅へ。
リニア中央新幹線の名古屋駅新設工事のために複雑怪奇になっている道路(多くが車両通行止め&歩行者専用になっていた)を難なく通過して名古屋駅に着くと、コインロッカーに荷物を入れて…と思ったら、名古屋駅のコインロッカーって、なんとも目立たない
京都駅なんて、これでも足りぬか とばかりに、あちこちにコインロッカーが並んでいるのですが、名古屋駅勝手が違いました
それでも、「コインロッカー検索機」で場所を確認すると、使い勝手の良さそうなエリアにあるコインロッカーに荷物を入れ、さぁ、身軽になったぁ でした。

名古屋駅から地下鉄桜通線久屋大通駅地下鉄名城線と乗り継いで、名古屋城駅で地上に出ました。

ここから私はルートを間違え、わざわざ市役所・県庁の裏手を通る遠回り(逆回り)ルートを歩いてしまいました。
市役所・県庁の裏手には、県や市の公館が立ち並んでいて、日曜日だけに閑散としていました。

県庁ではなにやら工事が行われているようで、養生壁危なっかしい

と、左手の立派なお屋敷の門を見ると、、、

「大村秀章」ということは、知事公邸なんですな

さて、空濠に架かる久屋橋を渡ると左に曲がり、空濠を眺めながら進みました。

空濠は草刈りなどしっかりと管理・整備されているようでした。
名古屋城は空濠が多いイメージですから、名古屋市は空濠管理に手慣れているのでしょうね。

「市政資料館南」交差点を左折すると、この辺りの住所は、、、、

町名表示

そのものズバリ「東外堀町」でした

ここで右手に瀟洒な洋館を見つけました。

門柱には「愛知懸議員會館」とありますが、いったい何のための建物?
どうやらこの建物は、名古屋市長も務めた大喜多寅之助さんの事務所兼邸宅として1920年に建てられたものらしい。
そして、1952年に愛知県の所有となり、現在に至るというもの。
でも、やはり何に使っているか良く判りません。
「議員会館」といえば、国会議事堂の裏に3棟立っている「議員先生たちの集合事務所」のイメージなのですが、ここはそんな使われ方をするには狭すぎます。県議会議員先生たちの社交場なら判りますが…

このように、道を間違え、遠回りしてしまった故に、空濠やら愛知県議員会館を眺めることができたわけで、結果オーライです

   

そして、名古屋市市政資料館に到着

いやぁ良い建物です

名古屋市市政資料館パンフレット(300円)から抜き書きしますと、

この建物は、大正11(1922)年に、当時の司法省によって名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎として建設されて以来、昭和54(1979)年3月に名古屋高等・地方裁判所が現在の新庁舎に移転されるまでの間、中部地方の司法の中心として活動し、歴史を深く刻み込んできました。
また、この建物は、煉瓦の、花崗岩の、銅板の、スレートのを組み合わせた華やかさと荘重な構成にまとめあげた、ネオ・バロック様式を基調とする建築様式をとっており、日本の近代建築における大正末期の動向を忠実に表現しています。
こうした経緯から、歴史的・文化的にも貴重な遺産として、昭和59(1984)年5月21日、国の重要文化財に指定されました。
名古屋市では、この建物が市民の皆さんに残されている重要な文化遺産であることから、この建物が持っている歴史的特性を踏まえながら、文化的に有効に活用していただくことができるよう、名古屋市市政資料館として整備したものです。

だそうです。

ちなみに、帝冠様式の代表的な建物であるところの名古屋市役所は1933年愛知県庁は1938年の竣工です。
わずか10年の間に建築様式もずいぶんと様変わりしたものです。

さて、車寄せを抜けて中を見ますと、

階段があって、その奥にも階段
こういう、構図、好きなんですよねぇ~

最初の階段を登って2階に入ると、

おぉ、「虎に翼」で何度も出てきたあの階段

この階段を登る前に、2階をウロウロしてたところ、「虎に翼」の出演者の皆さんの色紙が飾られていました。

この中で、伊藤沙莉さんの色紙が「はて?」しててかわいかった

この色紙が飾られている場所の裏側は事務室になっていまして、わたしはここで名古屋市市政資料館のパンフレットを購入しました。
そこで驚いたのは、「領収書を発行しますので、苗字だけ教えてください」と言われたこと。そういえば、駿府城址パンフレットを購入したときも、職員さんから苗字入りの領収書を発行してもらったっけ…
レジスターを1台置けば良い話なのだけれど、コスト的には、職員さんの手を煩わせるほうがマシなのかな…

階段を昇り、2階を見下ろすとこんな感じ。

それにしても、色づかい「裁判所」だったとは思えないほど明るいのはどうしたことでしょう?
天井なんて、こんな色と意匠だし、

階段突き当たりのステンドグラスも、裁判所らしく「天秤」の意匠を使いつつも、優美で、そして明るい

そういえば、去年の紅白歌合戦での米津玄師さんと「虎に翼」とのコラボ企画は、この名古屋市市政資料館で収録されたものでしたが、床を緑にして、階段の両端ほかには球状のフロアライトを並べて、さらに華やかに演出していましたっけ

あのコラボ企画で、トラちゃん「よねさんと呼びかけるシーンがあったのですが、あの「よねさん」米津さんにもかけてるよね

   

名古屋市市政資料館は、「建物展示」のほか、「市政展示」「司法展示」が常設展示の 3本柱になっていました。
私のばあい、名古屋の市政にはほとんど興味がありませんから、もっぱら「建物展示」「司法展示」を楽しんだわけでありまして、その辺は「#2-2」につづきます。

つづき:2025/01/17 2025年最初の遠征は愛知へ #2-2

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2025年最初の遠征は愛知へ #1

2025-01-14 18:54:15 | 旅行記

「#0 & #M」のつづき、愛知旅行の初日編を始めます。

赤羽駅の駅ナカのそば屋でのんびりと朝食を摂ったあと、余裕を持って東京駅に到着し、予約していた東海道新幹線に乗り込みました。
私が乗った新大阪行き「のぞみは、指定席満席だとか。そうか、私は1泊2日の遠征だけど、世間一般的には「3連休の初日」なんだものね。

途中、っつうか、この日は一日中好天に恵まれ、富士山もクッキリと見えました

富士市辺りからだとこんなに近く、大きく見える富士山だけれど、見えないときはホントに見えないんだよねぇ

新幹線は定刻の10:45名古屋に到着し、まずは、いつものように、ホテルに荷物を預けに行きました。
私は名古屋駅の太閤通口近くのホテルを予約していたのですが、ミー友さんたちと話をすると、セントレア周辺のホテルに泊まっている人がけっこういて、へぇ~でした。セントレア周辺のホテルに泊まったら、ライヴの他はどうやって時間をつぶすんだろと思ったりして…。

それはともかく、スマホの地図アプリを参照しながらホテルに向かったところ、名古屋駅の北西側ではリニア中央新幹線工事の真っ最中で、たくさんの道路が通行止めになっていて、あれまぁ でした。

リニア中央新幹線がこんなに「現実」のものになっていたとは、まったく知りませんでした
それはそうと、名古屋駅⇔ホテルを最短距離で歩こうとすると、なかなか難しい
それでも、たいした距離でもありませんから、ちょっと迂回しても、歩く分には大きな影響はなかったように思えます。クルマだと大変そうですが…。

ホテルに荷物を預けたあと、名古屋駅に戻り、ちょっと早めながら昼食を食べるべく、エスカ地下街をブラブラ
ランチの一番人気はどう見ても「矢場とんで、いつものように長蛇の列ができていました。並んでいる人たちの様子をみると、半分くらいの人たちが大きなキャリーバッグを持っていて、いかにも観光客、それもインバウンド客っぽさが漂っていました。

私はというと、そもそも行列に並ぶのは大嫌いですから、「矢場とん」に比べると行列がだいぶマシ「ひつまぶし」にしました。

ひつまぶしは、そのまま薬味とワサビで、出汁をかけて、の3段階を楽しむものですが、私には名古屋の蒲焼きの味がちょいとクドく感じられるものですから、せいぜい2口くらいにとどめて、すぐに&に移行するのを常としておりまして、この日も同様の食べ方にしました。

食事を終えた私は、地下2階の駐車場の一角に見つけた喫煙所一服したのち、さぁ、行くぜ、セントレア

   

まずは案内矢印を頼りに名鉄名古屋駅まで行くと、ミュースカイのチケットを買おうとしました。
自販機でチケットを選択し始めた段階では空席があったのですが、デビットカードで支払おうとしたら「このクレジットカードは使えません」というメッセージが出てきました ならば現金で買おうかと、操作するうちに「満席」 

あれまと思ううちに、次の特急の指定席も「満席」 

結局、12:26発の特急の普通車に乗ってセントレアに向かいましたが、座席に座ることは到底かなわず、座れたときは、既に電車は知多半島を走っていました

そして、13:00ちょい過ぎ中部国際空港駅に到着。

セントレアからAich Sky Expo(愛知県国際展示場)までは、500mほど歩く必要がありまして、冷たい
名古屋から約40km電車で30~40分。よほどのことがない限り、再びここ(Aichi Sky Expo)に来ることは無いだろな… などと考えておりました。
でも、首都圏でいえば幕張メッセも似たようなものか…

そしてそしてAichi Sky Expoに到着

なんと大きく立派な施設なんでしょ
さすが愛知県お金持ち

ここまでグダグダ書いてしまいましたが、Aichi Sky Expoの館内には座る場所がたくさんあるし、フードコートもあるし、とりわけ夏の暑さ冬の寒さの中で入場を待つには、かなり良い会場かと思われました。
宮城のセキスイハイム スーパーアリーナと比べたら、あちらは入場待ちのとき寒くてたまらないし、トイレのほとんどは仮設だし、飲食できる場所は無いしで、かなりの差があると感じました。
もっとも、それぞれの施設の主目的が違うわけで、仕方ないとも言えます。

   

一気に「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」終演後に話が飛びます

Aich Sky Expoからセントレアへの帰り道は、来場客がバラバラに歩いていた往路と違って、ドカン集中していますので、時間がかかるし、そしてなお一層寒かった

名鉄は、MISIAのライヴに合わせて、19時ちょい過ぎと19時半ちょい過ぎに、2本快速急行増発してくれていましたが、やはり帰りは確実に座って帰りたい
ということで、19:17発特急名鉄岐阜行きミューチケットを購入しました(450円也)。
もっと早い時刻ミュースカイに乗りたかったのですが、そちらは早々に満席になっていました

セントレアまで往復してみると、ミュースカイ特急の特別車両キャパが足りていないのではないかと思ったりして…
もっとも、簡単に車両を増やせるわけもなく、インバウンドも高水準で続くでしょうから、解決はなかなか難しそうです。

   

私が乗った電車は19:54名鉄名古屋駅に到着しました。
ライヴ終了から約2時間ですから、やはり交通の便が…

私はホテルへのチェックイン「20:00に設定していましたので、どこにも寄らずにまずホテルに向かい、チェックインしました。

ホテルの自室に入り、一服したのち(喫煙可の部屋)、夕食を食べに行きました。

首都圏でも食べられるけれど(北浦和や赤羽にも店がある)、名古屋に来たら、やはりコレでしょう

と、「世界の山ちゃん」で夕食を摂りました。
体調不良が続いていたここ1か月半ビールレギュラー缶1本飲むのがやっとという状況が続いていたのですが、「幻の手羽先」威力炸裂なのか(ポテトサラダも美味しかった)、中ジョッキを2杯飲んでしまいました

良い気持ちになってホテルに戻った私は、ここでも風呂ではなくシャワーを浴びてスッキリ(このホテルのシャワーカーテンが小さすぎバスマットビショビショ)。

風呂上がりっつうかシャワー後は、TVもつけず、ぼ~っと「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」を反芻して過ごしました。

こうして愛知遠征初日の夜はふけていったのでした。

つづき:2025/01/15 2025年最初の遠征は愛知へ #2-1

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2025年最初の遠征は愛知へ #0 & #M

2025-01-13 20:31:12 | MISIA/旅行記

「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」の開幕をめがけて、愛知に遠征してきました。

MISIAのライヴは2 daysでしたが、私が参加したのは初日だけで、珍しく1泊2日の短期遠征。
チケットが取れなかったケースを除けば、2 daysのうち片方だけ参加は私にとって異例なのですが、とりえあえず初日だけ抑えておこうという魂胆で、年末・年始の体調不良はまったくもって予想外でした。「病み上がり」スロースタートになって、結果的には良かったのかなと思っています。

ということで、例によって、まずは2日間の行程から始めます。

【初日:1月11日(土)】
自宅⇒徒歩自宅最寄り駅埼京線赤羽駅朝食上野東京ライン東京駅東海道新幹線名古屋駅⇒徒歩ホテル⇒徒歩エスカ地下街(昼食)⇒名鉄名古屋駅名鉄空港線[特急]中部国際空港駅⇒徒歩愛知県国際展示場(Aichi Sky Expo)「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」⇒徒歩中部国際空港駅名鉄空港線[特急]名鉄名古屋駅⇒徒歩ホテル⇒徒歩夕食⇒徒歩⇒ホテル

【2日目:1月12日(日)】
ホテル⇒徒歩名古屋駅地下鉄桜通線久屋大通駅地下鉄名城線名古屋城駅⇒徒歩名古屋市市政資料館⇒徒歩東大手駅名鉄瀬戸線森下駅⇒徒歩徳川美術館⇒徒歩大曽根駅JR中央線鶴舞駅鶴舞公園鶴舞駅JR中央線名古屋駅駅ナカで昼食東海道新幹線東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線自宅最寄り駅⇒徒歩自宅

基本的に「初日はMISIAだけ、2日目は観光だけ」の遠征でした。

   

2日目のことや初日のあれこれは後まわしにしまして、「#M」として、「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」初日のことを書いておきます。

MISIAがラジオで語っていたところによれば、2018年春の「THE SUPER TOUR OF MISIA」「THE TOUR OF MISIA」シリーズとは別物で、「THE TOUR OF MISIA」は2016年12月~17年2月の「THE TOUR OF MISIA LOVE BEBOP」以来、7年ぶりの開催になるそうな。

私は「星空のライヴ」「SOUL JAZZ」好きだし、「平成武道館」とか「THE GREAT HOPE」お気に入りのライヴですが、「打ち込み」生演奏を絶妙に融合させ、ノリノリ & アゲアゲのあの「THE TOUR OF MISIA」が帰ってくるというのは楽しみ以外のなにものでもありません

と、期待感満載で、入場開始を待ちました。
ん?? これはどういう意味だ??

「演出の都合上 ご移動できない 時間がございます」とはどういう意味だ?
聴衆が移動できなくなる演出とは、もしかして…

まぁ、始まれば判るわけで…
それよりも、忘れないうちにCheck IN

Aichi Sky Expo座席割りは、事前にチェックしていた他のライヴとほぼ同じで、こんな感じ。

Aichi Sky Expoの座席表

私の座席はA10ブロックの8列目と、始まってみないと判らないものの、上々っぽい位置でした。

そして座席に着いてみると、事前に得ていた情報どおり、椅子が小さい いかにも「お安いパイプ椅子」です

それはそうと、ステージのデザインが、私の座席からはよく判りません

こんなときは、場内を移動して(開演前ですから)、いろいろな角度から観察するに限ります
そして判ったのは、「MISIA星空のライヴ Starry Night Fantasy」とは違って左右対称のステージだけれど、かなり変わった形をしていました。
このステージが、背後の壁と合わせて、「あの形」を造っているのではないかと気づいたのは、ライヴの後半でした

   

ほぼ定刻に始まったライヴ、初っぱなからMISIAのボーカルが響き渡るったらありゃしない
さらに、ありゃぁ~、序盤からこの曲が来るかぁ~ ってヤツ。

そして、ほぼお馴染みバックバンドも聴かせてくれます
ある曲終盤のリードプレイのリレーは、なんともJazzyでカッコイイ

ただ、私がイメージする「THE TOUR OF MISIA」とはちょっと違う気が…ヒップホップメドレーは無いし、ダンサーさんジャンルが違うし…。
これが7年間の空白を経てたどり着いた新しい「THE TOUR OF MISIA」なのか?

なんて思っていたら、アンコール明けは、まさに「THE TOUR OF MISIA」でした
これだよ、コレコレ

「X」でいろんな人たちの感想を読むと、私と同じ感覚をいだいた方が多い印象です。
本編だってぜんぜん悪くない(っつうか、素晴らしいMISIAのボーカルとバックの皆さん)のだけれど、古くからのサポーターが抱く「THE TOUR OF MISIA」とは違う感じ…

そして、2日目の公演終了後の「X」によると、2日目は初日から変更が加えられ、「THE TOUR OF MISIA」らしさが増したらしい
この「変更」が、曲順の変更なのか、曲の入れ替えなのか、アレンジの変更なのか判りませんが、いったい何が変わったのでしょうか

そりゃ、調べれば判るはずですが、私は今の状態をキープして、次の大阪公演を楽しみに待ちたいと思います(私は福井には行きませぬ)。

いやぁ~、楽しみだなぁ

あ、そうだ、MISIANew Album「LOVE NEVER DIES」「2025 Coming Soon…」だと、ライヴ当日に発表されたわけですが、

MISIAのおことば

だそうで、「Coming Soon」とは言えなさそうです

つづき:2025/01/14 2025年最初の遠征は愛知へ #1

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きのうの帰省Uターンは、懐と心痛むことが…

2025-01-10 15:46:21 | 旅行記

私が新幹線で帰省するとき、Uターンは、月曜日か木曜日別邸最寄りのバス停から「平日のみ4本」しか走っていない路線バスに乗って秋田駅まで行くのが「お約束」になっています。
昨日も、水道の元栓4か所を閉じ、便器に不凍液を流し込み、ゴミ出しをしたあと、バス停へと向かいました。

バス停でしばらくバスが来るのを待っているとき、別邸から持ってきた「鍵「違うことに気づきました。

本来なら本宅(メイン&サブロックの鍵)と別邸の鍵を一つにまとめたものを持ってこなければならないのに、このとき私のポケットに入っていたのは「別邸専用の鍵」別邸の鍵セコムのホームセキュリティの鍵をセットにしたものでした。
つまり、この鍵では本宅に入れません

「非常用として本宅のメインロックの鍵小銭入れに入れていますが、問題は、本宅のサブロックをかけたか否かということ。
普段、本宅で暮らしているときは、もっぱらサブロックを使っていますが、帰省のときはメインロックだけ使うことが多く、今回もそうした気がするのですが、確証はありません
このまま「別邸専用の鍵を持って帰った場合、「非常用」の鍵オートロックは突破できても、サブロックがかかっていたら家に入れません
「イチかバチか」はあまりにもリスキーなため、バスの時刻を気にしつつも、別邸に戻り、鍵セット交換してくることにしました。

小走り気味別邸に戻り、鍵を開けて玄関を開けると、玄関口にある鍵ボックスから「帰省セットを取りだし、玄関の鍵を締めて、バス停に戻ろうとしました。

このとき、セコムのホームセキュリティ「外出モード」のままで一連の作業を済ませたのですが、ほんの1分ほどの作業だったというのに、セキュリティシステムが作動し、スマホに、セコムから電話がかかってきました。
事情を説明したことで理解してもらえたのですが、セキュリティシステムをリセットしなければならない由

こりゃバスには乗れないかもしれないと思いつつ、再び別邸に戻り、セキュリティシステムのメイン機器で「リセット」

これでホームセキュリティは通常の「外出モード」に戻ったのですが、バス停に戻る途中、バス走りさる様子が見えました

予定がガラガラと音をたてて崩れ去ったのです

   

別邸最寄りのバス停から徒歩10分ほどの羽州街道沿いのバス停まで歩けば、新幹線に間に合うバスがあるかもしれない…と行ってみると、私が乗る予定だったバスの30分後、つまりこの約20分後に次の秋田駅行きのバスが来ることが判りました。
でも、バスの時刻表はあてにならないし、朝8:30頃というのは交通ラッシュも心配で、バスタクシーか、先に来た方で秋田駅に向かうことにしました。

そして、結局、タクシーを拾い(よく拾えた)、2,000円近く払って(バスなら300円弱)、秋田駅に行くことになりました。

その途中、太平川橋太平川を渡ったとき、河岸のサクラ大々的伐採中であることに気づきました (この3日前にバスにのって墓参りに行った時は気づかなかった)

秋田市内でも有数サクラの名所太平川であれほどの伐採が行われているというのは、何事だ??? 病気か???

何やら胸騒ぎがして、スマホを使って「太平川 サクラ」で検索してみると、、、昨年10月の読売新聞の記事が出てきました。

なんでも太平川沿いのサクラの半数治水対策として伐採されるのだそうで、、

工事は昨年(2023年)7月の記録的大雨で河川の流域が浸水したことなどを受け、今年度から5年間の工期で行われる。範囲は、桜大橋付近から旭川との合流地点付近までの約4.6キロで、今年度から桜並木がある下流部側で工事が始まっている。

とな
あの水害(記事) を受けての治水対策としてサクラを伐っているのか

何十年かに一度の水害の対策としてあれほどの桜並木を伐採するなんて… と、個人的にはゾワゾワするのですが、これは、太平川が氾濫したとして別邸にまでは影響が及ばないだとういう感覚が私にあるからかもしれません。
毎年あのサクラを楽しんできた一方で、氾濫の恐れのある川のそばで暮らしている近所の人たちの思いの方が大事だとは判るのですが…。

2023年春に観てきた(記事) 太平川のサクラの写真を載せて、さらに感慨にふけりたいと思います

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2024年の美術館・博物館めぐりの振り返り [番外編]

2025-01-08 17:49:09 | 美術館・博物館・アート

「2024年の美術館・博物館めぐりの振り返り [後編]」のつづき、「番外編」です。
この「番外編」2023年版から始めたもので、

「前編」「後編」で取り上げた美術館・博物館での企画展・特別展以外の、私が今年観て/行って、楽しんだもの/感慨深かったものを列挙しておこうという趣向です。

ということで、まずは、

歴史公園えさし藤原の郷

噂には聞いていた「えさし藤原の郷」には、昨年5月の帰省ドライブの途中、初めて行ってきました。
その訪問記を完結できずに終わってしまったのが残念ですが、こんなに楽しいところとは思いもよりませんでした
クルマだと、浦和から約5時間かかりますので、首都圏からは気軽に行けるところではありませんが、行くだけの価値がある施設だと思いました。

20haの広大な敷地に厳密な時代考証のもと再現された日本初の平安時代の歴史テーマパークだというだけあって、エリアが広いし、それよりもなによりも、本物ぶりがハンパありません
古いお寺を訪問したとき、電灯が下がっていることにちょっと興ざめすることが良くあるものですが、ここではそんなことはありません。
元をたどればNHK大河ドラマ「炎立つ」オープンセットとしてつくられ、その後も多くのTVドラマ(とりわけNHK大河ドラマ)や映画撮影に使われている場所ですから、来場者の便利さよりも、「平安時代の再現」が優先されるのもむべなるかな、です。

そして、昨年の場合は、NHK大河ドラマ「光る君へ」で、何度もえさし藤原の郷で撮影された場面が登場して、そのたびに私はウヒョヒョと喜んでいました。

この「政庁」では、前庭に舞台を設置して「五節の舞」のシーンが撮影されたほか、大宰府の街もここで撮影されていましたっけ

「政庁・正殿」の内部も、小屋組照明器具無しで再現されているし、城柵自然に汚れていて、こりゃ、ロケ地として人気があるのも当然でしょ。

こんな「平安ワンダーランド」の入場料が1,000円だなんて
また遠からぬ時期に再訪してみたいと考えています。
別邸からならクルマで2時間の時間・距離ですし…。

三内丸山遺跡

お次も東北で、こちらも初めて行ってきました。
私が受けた歴史の授業では、東北の縄文遺跡としては秋田・大湯の環状列石のことは出てきたけれど、三内丸山遺跡なんて聞いたことがありませんでした
それもそのはず、Wikipediaによれば、

本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられた。 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。

と、発見されてから30年ほどしか経っていないわけですから、学校の授業に出てこなかったのは仕方ありません。

さて、「縄文時代前期中頃から中期末葉 (約5900-4200年前) の大規模集落跡」だという三内丸山遺跡は、私が訪れた日が好天だったことも相まって、とても気持ち良く楽しむことがことができました。

まず、写真などでは観たことがありましたが、シンボル的存在の「大型掘立柱建物」のなんとデカいこと

説明板によると、

この復元した大型掘立柱建物は、発掘調査の成果や柱穴の底にかかっていた土圧の分析結果などから全体の大きさを推定したもので、柱間と同じ4.2m間隔で床を作り、3層の建物としています。屋根についてはさまざまな説があることから現在のところ復元していません。
掘立柱建物は柱穴を掘り、柱を立て、床や屋根を支えています。ここからは直径約2m、深さ約2mの柱穴が3個ずつ2列並んで見つかりました。柱穴の中からは直径約1mのクリの木柱が見つかりました。縄文時代中期後半(紀元前約2,600年)のものと考えられています。

「大型掘立柱建物」の右側に白いドーム状のものが見えますが、ここがそもそも「大型掘立柱建物」が立っていた場所で、ドーム内部には掘立柱の遺構が残されていました。

この「大型掘立柱建物」はなんのための建物なんでしょうか?
物見台か、祭祀場か何かだったんでしょうな

それはそうと、「大型掘立柱建物」の隣の「大型竪穴建物」もかなりデカい '(遠くに見える山は八甲田山みたい…)

説明板によると、

長さが10m以上の竪穴建物は大型竪穴建物と呼ばれています。この復元大型竪穴建物は長さ約32m、幅約9.8m、床面積約250㎡であり、日本最大のものです。縄文時代中期後半(紀元前約2,800年)のものを復元しました。住居の他に、集会所や共同作業場などの説があります。

だそうで、中に入ってみると、

ほわぁ広い

地面から1m以上も掘り下げていることもあって天井が高く、「住居の他に、集会所や共同作業場などの説」に加えて、「体育館」説があっても良いかもしれません

ところで、縄文・弥生時代の住居「竪穴住居」というイメージがありますが、三内丸山遺跡にもありました。

説明板によると、

竪穴建物は地面を掘って床を作り、柱を立て、屋根をかけています。縄文中期(紀元前約3,000年)の竪穴建物を再現しており、屋根は、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元しています。
時代によって、平面形、柱の配置、炉の位置や構造に違いが見られます。

だそうです。

一方、掘立柱建物は、

掘立柱建物は地面に柱穴を掘り、柱を立てたもので、地面に炉や床などの跡が見つからないことから、高床建物であったと考えられています。柱は約35cmの倍数で配置されています。

だそうな。
この「35cmの倍数」について、Wikipediaでは、大型掘立柱建物柱の間隔が4.2mであることに関連して、

特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されているので、「縄文尺」とも言うべき長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられる。

と書いています。三内丸山遺跡の説明板もこの「縄文尺」の存在を臭わせていますが、それであれば、大型掘立柱の柱の幅と深さ2mではなく2.1mでなければつじつまが合わないのではないかと考えたりして…

そんなことを考えつつも三内丸山遺跡を楽しんだ私は、続いて、ほぼお隣の施設に移動しました。

青森県立美術館

「あおもり犬に会いたいという思いで行ってみた青森県立美術館が、三内丸山遺跡エリア内にあるとは思いもよりませんでした

そして、青森県立美術館が、タイポグラフィーも含めて統一的なデザインに基づいたお洒落な美術館だったこと、

弘前出身の奈良美智氏と良好な関係を築いていること、

ゆったりかつ広い展示スペースを持っていることに感心しまくりでした。

シャガールが描いたバレエ「アレコ」の背景画なんて、シャガールらしい色彩はもちろん、その圧倒的な大きさ(約883~914cm × 約1,472~1,524cm)に、しばらく口がぽかんと開いたままでした。
この背景画は全4点のうち3点を青森県立美術館が所蔵し、残り1点をフィラデルフィア美術館から27年3月末まで貸与されているのだとか。
恐らく、その1点が返還される際には、他の3点も「お礼参り」として渡米するのでしょうな…。

こんな青森県立美術館に引き換えわが故郷の県立美術館ときたら… と、どうしてもうんざりせざるを得ませんでした。
その私の気持ちを更に逆なでするように、青森県立美術館の次の企画展(24/7/13 ━ 9/29)が、よりによって秋田出身鴻池朋子さんの展覧会だというのがなんとも…

谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館

昨年7月、「PEACEFUL PARK 2024 for 能登」のため金沢に遠征しました。
ところが、このライヴで、史上最悪の体験をしてしまい、そのことを封印するべく、この金沢遠征のことは、敢えてブログで触れずに来ました
でも、「谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館」に行ったことは記録に残しておきたい

常設展示の谷口吉郎による「迎賓館赤坂離宮 和風別館『遊心亭』」の再現は、見事でございました

遊心亭でご接待を受ける機会なんて、一生無いわけで、気持ちだけ味わってきました

そんなわけで(どんなわけだ)、今年も「こんな凄いところがあったのかみたいな場所に行き着きたいものです。

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2024年の美術館・博物館めぐりの振り返り [後編]

2025-01-07 17:56:41 | 美術館・博物館・アート

「2024年の美術館・博物館めぐりの振り返り [前編]」のつづきは、「次点に選んだ展覧会です。

こちらも観た順番に紹介することにいたしまして、まずは2024年1~4月に観た3展。

中尊寺金色堂 @東京国立博物館 [記事]

中尊寺には2015年8月の帰省ドライブの途中に立ち寄ったことがありまして、金色堂もそのとき拝観しました。ただ、金色堂もその内部もガラス越しでしか見られず、ちょっと欲求不満だったのですが、「金色堂建立900年」を記念したこの展覧会は、金色堂そのものこそ現物不在ですが、普段は藤原清衡公が眠る中央壇「ユニット」(阿弥陀如来坐像・観音菩薩立像・勢至菩薩立像と6体の地蔵菩薩立像、増長天と持国天)がそろって東京国立博物館特別5室にお出ましになるという「現地で拝観するより凄いという展覧会でした。
恐らく当代選りすぐりの仏師が造ったとおぼしい仏さまたちを、360°ぐるりと拝見することができた上、金色堂の伽藍内部を巨大LEDスクリーン実物大の8KDGで見られるという趣向は、いかにも現代だし、金色堂の精細な模型(1/5サイズ)も楽しかった

木村伊兵衛 写真に生きる @東京都写真美術館

木村伊兵衛東京・下谷の生まれですが、秋田県人にとっては、お隣の山形・酒田出身の土門拳よりも馴染み深い写真家だと思います。
木村の名前は知らなくても、木村が秋田で撮影した作品を1点も観たことがない人はいないのじゃなかろうかと思う次第で…。若い人でも、ちょっと前まで秋田県のキャンペーン「あきたびじょん」で木村の代表作「秋田おばこ」が使われていましたからきっと知っているはずです。

この展覧会は、

本展は日本の写真史に大きな足跡を残した写真家・木村伊兵衛(1901-1974)没後50年展として、その仕事を回顧するものです。1920年代に実用化が始まったばかりの小型カメラに写真表現の可能性をいち早く見出し、それを駆使した文芸諸家のポートレート、あるいは東京下町の日常の場面を素早く切り取るスナップショットで名声を確立しました。1933年に開催された「ライカによる文芸家肖像写真展」では、従来の型にはまった肖像写真ではなく、被写体の一瞬の表情の変化を捉える独自のスタイルを確立し、また1936年には初めて沖縄を訪れて生活感にあふれた日常を記録するなど、“ライカの名手”としての名を早くに馳せました。
木村伊兵衛はまた、広告宣伝写真や歌舞伎などの舞台写真、カラーフィルムによる滞欧作品、秋田の農村をテーマにするシリーズなど、実にさまざまな被写体を捉えた数多くの傑作を残しました。その卓越したカメラ・ワーク、そして写真機材や感光材料への深い理解などは、旺盛な好奇心と豊かな体験に裏付けられています。印刷メディアを媒体として人間の営みのイメージを伝えるという写真の社会的な機能を自覚して、自らを「報道写真家」と位置づけました。その独特な眼差しにこだわった写真表現は、きわめてユニークなもので、見るものの記憶の中にいつまでも生き続けます。

というもので、メインビジュアル(馬のお尻と板塀と郵便受けの写真)も秋田・追分(秋田市金足辺り)で撮影されたもの。

これまで何度観たか判らない「秋田シリーズ」も、初めて観た「夢の島-沖縄」も、時空を飛び越え自分がその場にいるかのような感覚に浸ったのですが、衝撃は、「画室の川合玉堂」でした。
高い天井ととてつもなく大きな障子が印象的な画室で、巨大なキャンバス(日本画だけど)に向き合う川合玉堂を真横から捉えたこの作品は、静謐さ緊張感がもの凄かった

ほぼこの作品のためだけに図録を購入したのですが、なぜか「画室の川合玉堂「第2章 肖像と舞台」の表紙代わりに使われていて、他の作品よりも小さく印刷されていたのが、なんとも残念でした…

どうぶつ百江戸東京博物館コレクションより
  @東京ステーションギャラリー

江戸幕府創設からおよそ420年。江戸は巨大都市として発展し、京都、大坂に並ぶ三都のひとつとなりました。大都市江戸・東京に暮らした人々は、どのように動物とかかわってきたのでしょうか。それを物語る美術品や工芸品など約240件を、江戸東京博物館のコレクションから選りすぐって紹介します。
本展は、2022年パリ日本文化会館(フランス)で好評を博した「いきもの:江戸東京 動物たちとの暮らし」展を拡充した凱旋帰国展です。画巻、錦絵、装飾品、郷土玩具などに登場する動物たちの多様な姿をお楽しみください。 

江戸東京博物館は、2022年4月から来年2026年春(予定)まで大規模改修工事のため全面休館中で、この間、収蔵品は国内外を「ドサ回り」をしていて、この展覧会も、その元ネタたるパリでの「いきもの:江戸東京 動物たちとの暮らし」展もその一環です。

江戸・東京において人々が動物をどのようにとらえ、表現していたのかを俯瞰します。

と、「動物」をキーワードにして一つの展覧会が構成できてしまうというのは、それほど多くの「動物」を扱った作品が存在し、大量にコレクションされているからこそだと思います。
そんな感慨を持ちつつも、メインビジュアルが、大好き歌川広重の、大好き「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」だというだけで、妙に評価を上げてしまうのが私でございます

   

次は 次点 のうち2024年6~10月に観た3展です。

法然と極楽浄土 @東京国立博物館

令和6年(2024)に浄土宗開宗850年を迎えることを機に、法然による浄土宗の立教開宗から、弟子たちによる諸派の創設と教義の確立徳川将軍家の帰依によって大きく発展を遂げるまでの、浄土宗850年におよぶ歴史を、全国の浄土宗諸寺院等が所蔵する国宝、重要文化財を含む貴重な名宝によってたどるものです。困難な時代に分け隔てなく万人の救済を目指した法然と門弟たちの生き方や、大切に守り伝えられてきた文化財にふれていただく貴重な機会です。

というこの展覧会、予想以上に楽しめたのですが、ただ、私が行ったのは会期最終週の6月6日で、展覧会の目玉といってよい綴織當麻曼陀羅 (~5月6日)、「法然上人坐像」 (~5月12日)「法然上人絵伝(法然上人行状絵図)」(同)、「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)」 (同)は軒並み「公開終了」 

なお綴織當麻曼陀羅 は、2013年5月に、「當麻寺-極楽浄土へのあこがれ-」@奈良国立博物館現物を拝見しましたが、なんだか「黒ずんだ巨大な正方形」というイメージしか残っていません [訪問記]

この「法然と極楽浄土展」に限らず、日本美術の展覧会には展示品の入れ替えが「あってあたりまえ」ですから、事前に出品目録その他をチェックして、日程に余裕を持つことが必要です。って、どうして今さらこんなことを書いているんだろ

はにわ @東京国立博物館

「村上隆 もののけ 京都」展もそうでしたが、これほど笑顔の観客だらけの展覧会はそうそうあるものじゃないと思いました
もともと「はにわ好きの私ですから、はにわ大集結しているだけで気分は盛り上がりまくりでした
とりわけ、目玉の「挂甲の武人」5体の一斉展示は(そもそもこの展覧会のサブタイトルは「挂甲の武人 国宝指定50周年記念」)「反則だろでした

しかも50年前に国宝に指定され、東博でもちょくちょく観ることができる群馬県太田市飯塚町出土の「挂甲の武人」と、太田市や伊勢崎市で出土した他の「挂甲の武人」とはビミョーに造りが違っていて、それぞれの個性が感じられました。

展示方法も、単体で見てもかわいらしい動物のはにわを、こんな風に並べてしまう感覚

またこちらの「見返り鹿」もなかなかな造形です

一方で、この人物埴輪なんて、ウケ狙いで造ったとしか思えません

このように、「ほぼ土色の作品ばかりだけれど、楽しい」の極みだった「はにわ」展でしたが、残念だったのは、グッズ「挂甲の武人ぬいぐるみ」無かったことでした。

うちにいる「挂甲の武人ぬいぐるみ」は、2022年秋に開催された「国宝 東京国立博物館のすべて」展のグッズとして販売されていたもので、今回もこのぬいぐるみがあれば、「みずらカチューシャ」以上にウケていたと思うのですが…

檜細工師 三浦宏の粋
 @致道博物館

次点の最後は、記憶にも新しい「檜細工師 三浦宏の粋」展です。
この展覧会は、昨年10月末、懸案にしていた山形・鶴岡市探訪に出かけた際、たまたま致道博物館で開催されていたもの。

その内容はこちらでしっかりと書きましたので省略させていただきますが、こんな魅力的な展覧会に遭遇できたなんて、「僥倖としか言いようがありません

というところで「番外編」につづきます。

つづき:2025/01/08 2024年の美術館・博物館めぐりの振り返り [番外編]

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2024年の美術館・博物館めぐりの振り返り [前編]

2025-01-06 19:01:51 | 美術館・博物館・アート

例年なら12月30日にアップしている「美術館・博物館めぐりの振り返り」2024年版を、遅まきながら書きます。

この「振り返り」は、その年に観た展覧会のTOP 3~4次点の6~7展を選んでおりまして、当然ながら、ここで選ばれたとしても何のもつきません
それでも、2010年から13年も続けてきていますので、何かしらの「アーカイブ」にはなっているのではないかと思い、そのリンクを載せておきます。

2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年
2017年 2018年 2019年 2020年 2021年 2022年
 2023年

前振りはこの辺にしておきまして、2024年に徒然煙草が観た展覧会のTOP 4は こちら
順番は、いつものように、私が観た順番です。

大吉原展 @東京藝術大学大学美術館

私は気づいていませんでしたが、この展覧会は開催前から

本展のウェブサイトや広報資料について、文化の発信地としての性格のみが取り上げられており、人身売買や女性の性商品化といった遊廓の負の側面に触れられていないと批判が寄せられていた。(こちらのサイトより)

のだそうな。
展示も観ずに広報資料から批判するということ自体、「活動家」的な視点を感じるのではあるけれど、確かに「吉原」ほどが交錯した場所はそうそうあるものじゃないし、江戸時代中期以降の日本(江戸)の文化は、吉原遊郭抜きに語ることはかなり難しい
それは、「大吉原展」で展示されている作品のジャンルの広さや質・量に如実に現れていると思います。

ちょうど昨日からNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」が始まり、第1回から、「幕府公認」として岡場所を下に見る吉原遊郭自体が内部に抱える超格差社会とか、下層の遊女悲惨さが描かれました。
そして、蔦重が叫ぶ「女郎あってこその吉原」という訴え、、、、、。

吉原の「光」にのみ目を向けるのは自己中心的だけれど、こちらの記事のように「性の搾取の場」としか見ようとしないのは、あまりにも視野狭窄だし無粋の極み(こちらの記事でいうキャンセルカルチャーそのもの)だと思うのです。

神護寺 @東京国立博物館

「神護寺」と聞くと、国宝「神護寺三像」を所有しているとしかイメージを持たなかった私ですが、これほどまでに真言密教にとって重要なお寺だとは思いもよりませんでした。

そして、空海存命中に描かれたという両界曼荼羅(高雄曼荼羅)(私が拝見したのは胎蔵界曼荼羅)の巨大さに驚き、江戸時代に描かれた模写で、その精細さに驚きました。

また、三筆空海自筆「灌頂暦名」は、それこそ「弘法も筆の誤り」で、修正しているのがなかなか人間っぽくて楽しかった

そして、展覧会のメインビジュアルに使われている「薬師如来立像」は、こんな厳しいお顔の薬師如来を見たことがない
っつうか、「どうして御本尊が薬師如来?」なのですが、神護寺の前身となる寺院の御本尊だったかららしい。
そういえば、比叡山延暦寺根本中堂の御本尊は最澄御手彫りの薬師如来像だったはず。これは偶然なのでしょうか?

空想旅行案内人
ジャン=ミッシェル・フォロン

  @東京ステーションギャラリー

この展覧会は拾いものでした
私にとっては「初耳」だったジャン=ミシェル・フォロンの描く造形色彩のなんと響いたことか
その響き方は、ガーンガーンと物音を立てるのではなく、心の奥底からジワジワと体全体に広がっていく感じでした。

ジャン=ミッシェル・フォロン(Jean-Michel Folon, 1934-2005)は、20世紀後半のベルギーを代表するアーティストのひとりです。若き日に偶然出会ったマグリットの壁画に感銘を受け、絵画世界に惹きつけられたフォロンは、1955年に移住したパリ近郊でドローイングを描く日々を送ります。フランスではなかなか芽が出ませんでしたが、アメリカの『ザ・ニューヨーカー』『タイム』などの有力誌で注目され、1960年代初頭にはそれらの表紙を飾るようになります。その後、各国で高く評価され、世界中の美術館で個展が開催されるなど目覚ましい活躍をみせました。
色彩豊かで詩情あふれるその作品は一見すると美しく爽やかにさえ感じられますが、そこには環境破壊や人権問題など厳しい現実への告発が隠れていると同時に、孤独や不安の感情が通奏低音のように流れています。
本展は初期のドローイングから水彩画、版画、ポスター、そして晩年の立体作品まで約230点を紹介する、日本で30年ぶりの大回顧展です。デジタル化やパンデミック、戦争など、社会的に大きな曲がり角にある現代、環境や自由への高い意識をもち、抑圧や暴力、差別などに静かな抗議を続けてきたフォロンの芸術を、いま、あらためて見直します。

という展覧会で、東京での開催は昨年9月で終わっていますが、1月11日~3月23日名古屋市美術館4月5日~6月22日あべのハルカス美術館に巡回しますので、機会がありましたら、是非、お出かけください

村上隆 もののけ 京都
  @京都市京セラ美術館

2024年TOP 4の最後を飾るのは、やはりこの展覧会でしょう

2024年2月3日~9月1日約7か月という長い会期の間、いつか行くぞと思いつつ、気がつけば8月下旬になっていました
会期末の土日(8月31日-9月1日)は混雑必至だけれど、8月27(火)-28日(水)には台風10号関西地方直撃するという予報が出ていたことから、8月29-31日の2泊3日で関西遠征を決行しました。

そして、メインの「村上隆 もののけ 京都」展は存分に楽しむことができたものの、ノロノロと進む台風10号の影響で29日夕から東海道新幹線運休するという事態が発生
結局私は、急遽新幹線から飛行機に変更して帰宅するという、なかなかな遠征となりました。(遠征記)

こんなことがありながらも、「村上隆 もののけ 京都」展だけでなく、京都&奈良観光はしっかりと楽しめたというのは、われながら大したもんだと思ったりして…

ということで、「後編」につづきます。

つづき:2025/01/07 2024年の美術館・博物館めぐりの振り返り [後編]

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体調不良につき #5

2025-01-05 17:00:53 | 日記・エッセイ・コラム

このブログを長くお読みくださっている方の中には、昨年末~年明けの流れ違和感を覚えた方がいらっしゃったかもしれません。
というのも、毎年12月30日「恒例」にしていた「美術館・博物館めぐりの振り返り」サボってしまっていたから…。

10年以上にわたって続けてきた「恒例」ですから、続けたいのはやまやまだったのですが、2024年も残り1週間という段階で、風邪をひいてしまい、ただでさえ「体調不良につき」だったというのに、それに輪を掛けて「体調絶不調」に陥っていたのです

ということで、「体調不良につき #4」のつづきです。

   

「#4」をアップした12月16日以降、蜂窩織炎の方は匍匐前進的にじんわりゆっくりと回復し続けたのですが、12月19日(木)に異変が…

24/12/19のポスト

翌20日(金)は、体温が38℃台に突入して、とにかく喉が痛い そして、食欲が無く全身がだるい…。

21日(土)になっても状況は変わらず。
ただし、蜂窩織炎はかなり良化した感じでした。

24/12/21朝のポスト

22日(日)は、有馬記念などを除けば、

有馬記念、散る…

ほぼ一日中、ベッドでうつらうつらと過ごし、23日(月)には予約済みの皮膚科CLに行き、また、先日の健診の検体内科CLに持って行くついでに、「病状が変わらなければ診てもらう」つもりにしていました。

ところが、23日(月)は、皮膚科CLの予約もなんのその(?)、記憶が1日分飛ぶほど、「何もしない一日」になってしまったのは、まったくもって想定外

24/12/24朝のポスト

24日(火)は、一日遅れで皮膚科CLの診療を受けることができましたが、内科CL休診日のため、健診の検体を持って行けたのは25日(水)のことでした。
そこで判ったのは、その内科CLでは「発熱外来」日時を限定して開設していることで、残されたチャンスは、年内最終日27日(金)の夕方だけだということでした。

こうして、満を持して、27日(金)の夕方、行きつけの内科CLを受診しました。

鼻穴に綿棒を突っ込まれて検査していただいた結果、幸いにも「ただの風邪」という診断で、ホッとしました
でも、だからといってすぐに回復するわけではなく、年を越えて喉の痛み(声もまともに出ない)と食欲不振全身のだるさ等々に悩まされることになりました。
とくに困ったのは、食欲がまったく無く、まともな食事を摂れない中、「毎食後服用」を指示されたクスリはいつ飲んだら良いのか? ということでした。
まぁ、「1日3回、適当な間隔を置いて」服用しましたけれど…

   

そして今、風邪の症状はほとんど治まり(今計測したところでは体温は36.2℃)、蜂窩織炎の方も、腫れはほとんど無くなり、残すは患部のグロさ若干の浸出液くらいのものまで回復しました

ただ、相変わらずビールを飲む気がまったく起きないことに困惑しています。
2日(木)に参加した恒例の新年会では、乾杯のときにグラス 1/4ほどのビールを口にしただけで、その後は緑茶をチビチビやっておりました。
しかも、これでいて、何の不自由も不満も感じないのですよ…
ビールを飲みたくなって、飲んで美味しく感じられたら、「全快」ということなのだろうなと思っています。

ということで、この記事が「体調不良につき」シリーズ流れ解散的最終回にならんことを願いつつ…

つづきのようなもの:2025/01/23 蜂窩織炎のおかげで肝機能が改善?

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