Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●『キジバトの記』読了(1/3)

2008年12月17日 07時26分16秒 | Weblog

『キジバトの記』、11月に読了。上野晴子著。裏山書房。19981月刊。奥付より著者履歴: 1926年、福岡県久留米市生まれ.畑 威・トモの六人の子の長女.高等女学校時代の一時期を東京で過ごすが、成人までの殆どは福岡で暮らす.1956年、上野英信と結婚,同年,息子を出産.1964年,鞍手に移り,夫と共に筑豊文庫を開設.19978月死去.享年70歳」。英信氏に作歌や著作を禁じられた著者が、氏の死後に、周りに勧められて著わした文章をまとめた、唯一の著書。

「気難しい男」(p.7) は、「追われゆく坑夫たち(1) を福岡市の茶園谷 (現在の六本松) にて執筆。

本のタイトルの由来。「夫が生きていた間、人の出入りの絶えなかった門前で、キジバトの存在に気づいた人はほとんどなかった。まして、この家の女房がキジバトの平安にあこがれていたことなど誰も知らない。・・・次の世にはキジバトに生まれ変わりたいと子供のように考えている」(pp.8-9)
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●『キジバトの記』読了(2/3)

2008年12月17日 07時24分14秒 | Weblog
【上野晴子著、『キジバトの記』
晴子さんの英信氏への尊敬と複雑な心情・・・。「・・・筑豊の闇に根を下ろした・・・不思議な運命・・・滅びゆく炭鉱の記録者たらしむべく、筑豊の地底へと導いた大いなる力・・・。記録文学に携わるについて唱えた「金を惜しむな、時間を惜しむな、命を惜しむな」の三原則・・・この戒めの見事な実践者・・・私はひそかに「偉大なエゴイスト」と呼んでいた」(pp.15-16)。「・・・英信は・・・鈍感過ぎる・・・。おそるべき勁さと非情さ・・・」(p.21)。「・・・腹の中で「このゴクラクトンボめ!」と夫を罵っていた」(p.34)。「進歩的な思想の持ち主でありながら・・・女性に対する部分だけがまるで凍結したように古典的でありつづけた・・・」(p.38)。「彼は私を自分の好む鋳型に嵌めこもうとして、私が内面に保ってきたものすべてを否定・・・短歌を禁じた・・・。・・・教育でなく調教である。私は殆ど窒息せんばかりだった・・・」(p.39)。「・・・文字通り命とひきかえに、愛する筑豊の写真集をまとめあげて静かに退場していった」(p.42)。氏の死後も、「一種の裏切り行為である。彼は私が書くことをけっしてよろこびはしないのだから」(p.145)
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●『キジバトの記』読了(3/3)

2008年12月17日 07時23分09秒 | Weblog

【上野晴子著、『キジバトの記』
土門拳さん (p.29)千田梅二さんと 「せんぷりせんじが笑った!(p.51150)

息子の朱さんのサイセンツウ (臍疝痛、p.104)! 「ヘソセンツウ」やっ!!

「遺言として活字になった短いメッセージ」 (2) (p.135)

「英信は病床から急に、川原さんを呼ぶようにと私に命じた。・・・資金を、そっくり彼にあげたいのだという。麻痺しはじめた舌でゆっくりと・・・「オトコガ、シゴトヲ、シタイトキニ、カネガ、ナイホド、ツライ、コトハナイ」・・・二人の友のこれが最後の対面・・・念願の「土呂久羅漢」は完成し、・・・英信との約束を見事に果たした河原さんのただ一つの違反はあのお金を手もつけずに返されたことである。英信と最後の対面をして宮崎に戻るや否や彼は私名義の貯金通帳を作って全額入れてしまった」(p.138)

川原一之「砦の闇のさらなる闇」(pp.177-185)。上野朱「驢馬の蹄」(pp.187-193)

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