加藤周一のような哲学的な評論家リップマンのモノを見る時の「単純化」の問題を、エリクソンは引用します。その単純化に伴う、とてつもなく大事な三項関係の登場です。
実際の環境は、直接知るには、まったく、あまりにも巨大すぎますし、あまりにも複雑すぎますし、あまりにもはかなすぎます。私どもはその環境の中で活動しなくてはなりませんが、その環境に対処できるようになる前に、環境をより単純なモデルに従って再構成しなくてはなりません。世論の分析を始めるには、活動の舞台と、その活動の舞台に対する人間のイメージと、その活動の舞台に対して苦労して作り出したイメージに対する人間の反応の三項関係を理解しなくてはなりません。
そして、リップマンは、政治評論家として、実際には自分の権限外の、と私どもが言いたくなるものですが、結論に達します。それは、その結論が、私どもが試みるだけの値打ちがある飛躍をするように求めなければ、の話ですが。
作り話の範囲が、完全な幻覚から、科学者が概念的な枠組みのモデルを完全に意識して用いることまで、実に幅広く広がります。…人間たちが理論を組み立てるという事実そのものが、人間たちの偽物の環境、すなわち、世界に対して心の中で作り出したイメージが、人間が考え、感じ、行動する際に決定的な要素になる、ということのまさしく証拠なのです。
この最後の引用は、私どもがよく考えなくてはならない範囲が広範であることを示すのですが、それよりも前に引用した評論はすべて、政界は、政治を最も近くから観察し、そう願いたいのですが、政治に最も精通していると感じている人だけが、活動の舞台として経験できることを、証明しているように思われます。しかも、その活動の舞台とは、予め想定していたヴィジョンには追いつかず、国家の夢は言うに及ばず、「実感が伴う」現実にも、かなしいかな、及ばないのです。
ここは、リップマンの評論を引用することで、非常に大事な視点が提供されました。それは、舞台、舞台に対するイメージ、それから、そのイメージに対する反応の三項関係です。これを臨床の言葉に変えると、私は次のようになると考えます。それは、出来事(舞台)、出来事に対するイメージ(舞台に対するイメージ)、それから、そのイメージに対する話し言葉と実際の行動(そのイメージに対する反応)の三項関係です。この三項関係がピッタリした実感を伴って結びつく(連合する)のか、それとも、この三項関係が、ピッタリとした実感が伴わず、逆に、そのそれぞれがずれていて、そのずれているところに「ウソとフリ」が介在していて、うまく結びつかない(連合しない)、あるいは、「ウソとフリ」を含んだまま、結びついて(連合して)しまうのか、ということが、実に人生を決定する、といっても過言ではない命題です。前者が根源的信頼感の系譜であり、後者が根源的不信感の系譜なのです。
この三項関係がピッタリ結びつくためには、私どもはどうしたらいいのでしょうか?
実際の環境は、直接知るには、まったく、あまりにも巨大すぎますし、あまりにも複雑すぎますし、あまりにもはかなすぎます。私どもはその環境の中で活動しなくてはなりませんが、その環境に対処できるようになる前に、環境をより単純なモデルに従って再構成しなくてはなりません。世論の分析を始めるには、活動の舞台と、その活動の舞台に対する人間のイメージと、その活動の舞台に対して苦労して作り出したイメージに対する人間の反応の三項関係を理解しなくてはなりません。
そして、リップマンは、政治評論家として、実際には自分の権限外の、と私どもが言いたくなるものですが、結論に達します。それは、その結論が、私どもが試みるだけの値打ちがある飛躍をするように求めなければ、の話ですが。
作り話の範囲が、完全な幻覚から、科学者が概念的な枠組みのモデルを完全に意識して用いることまで、実に幅広く広がります。…人間たちが理論を組み立てるという事実そのものが、人間たちの偽物の環境、すなわち、世界に対して心の中で作り出したイメージが、人間が考え、感じ、行動する際に決定的な要素になる、ということのまさしく証拠なのです。
この最後の引用は、私どもがよく考えなくてはならない範囲が広範であることを示すのですが、それよりも前に引用した評論はすべて、政界は、政治を最も近くから観察し、そう願いたいのですが、政治に最も精通していると感じている人だけが、活動の舞台として経験できることを、証明しているように思われます。しかも、その活動の舞台とは、予め想定していたヴィジョンには追いつかず、国家の夢は言うに及ばず、「実感が伴う」現実にも、かなしいかな、及ばないのです。
ここは、リップマンの評論を引用することで、非常に大事な視点が提供されました。それは、舞台、舞台に対するイメージ、それから、そのイメージに対する反応の三項関係です。これを臨床の言葉に変えると、私は次のようになると考えます。それは、出来事(舞台)、出来事に対するイメージ(舞台に対するイメージ)、それから、そのイメージに対する話し言葉と実際の行動(そのイメージに対する反応)の三項関係です。この三項関係がピッタリした実感を伴って結びつく(連合する)のか、それとも、この三項関係が、ピッタリとした実感が伴わず、逆に、そのそれぞれがずれていて、そのずれているところに「ウソとフリ」が介在していて、うまく結びつかない(連合しない)、あるいは、「ウソとフリ」を含んだまま、結びついて(連合して)しまうのか、ということが、実に人生を決定する、といっても過言ではない命題です。前者が根源的信頼感の系譜であり、後者が根源的不信感の系譜なのです。
この三項関係がピッタリ結びつくためには、私どもはどうしたらいいのでしょうか?