楽しく想像力を働かせることと現実そのもの、遊びと現実がそれぞれお互いを作り出す親であり子でもあることが分かりました。らせん状にお互いが向上しあうことでしょう。また、遊びが世界を動かす。そう言い換えられるかもしれません。遊びがどれだけ大事か、改めて教えられました。
今日はその条件が語られます。
一つの条件:少し前に、私は北京放送を「マクルーハン的」と呼びました。また、私が認めなくてはならないのは、ここで説明した信ぴょう性のギャップは、人間の本性の他の大転換の中にあっては、枝葉の問題でしかないと見ることができる、ということです。この人間性の他の大転換は、現代の「情報環境」に伴うものですし、その情報環境は、私どもの概念と感覚生活全てを変えています。あるいは、マクルーハンがごく最近述べたことを私も耳にしたことですが、「即席の電子情報は、新しい音響空間、ないしは、共鳴空間をこしらえます。その中心は至る所にありますし、その端っこはどこにもありません」。この共鳴空間は、マクルーハンはそう信じているのですが、不連続体です。その不連続体は「私的な、自分を確かにしようとする道筋、西洋人の“後世への最大遺物”を暴力的に歪めます」。しかし、専門技術的事実で出来た世界の移り変わり、人間の変貌における幼稚に見える自由に細心の注意を払っている思想家とは対照的に、私のように、臨床心理を生業とする者の心に、繰り返し繰り返し響くのは、人間のライフサイクルや人間の習慣の構造の中の、生育歴上、情緒的に当然ある事実の方です。人間のライフサイクルも人間の習慣の構造も、専門技術の時代に持ち込まれていますし、現実に、遺物の世界そのものの中で、人々が自分を確かにする「本物」をますます死に物狂いで求めていることを、示しているのかもしれません。このような、自分を確かにしたいという根源的欲求は、私どもはハッキリ主張しなくてはなりませんが、一歩一歩歩みを進めるくらい遅々としてしか変化していきませんから、生きている(生かさせている)という実感(その実感と共に、人生を主人公として楽しんでいる実感)は、世代が変わっても必ず繰り返される、この根源的欲求が、時代が変わっても本当に新しいものに対してどのように関わるのか、という相対的な関係次第ではないのか、といぶかる人も出てくるかもしれません。
途中ですが、今日のところはここまでとします。ここまででも、エリクソンは実に大事なことを次から次へと指摘してくれますね。ホントついていくのが大変です。
自分を確かにすること、自分のアイデンティティが、西洋人の“後世への最大遺物”であること、自分を確かにしたいという欲求が、根源的なものであること、生きている(生かされている)という実感が、人生を主人公として楽しんでいる実感と親戚であること、専門技術が発達した現代社会では、自分を確かにしたいという根源的欲求が、なおさら強まっていること、まあ、挙げればきりがありませんね。
ここでは、アイデンティティ、自分を確かにすることが“後世への最大遺物”である点を取り上げます。そして、“後世への最大遺物”と言えば、内村鑑三の有名な講演です(岩波文庫)。内村は、『後世への最大遺物』のなかでは、お金や事業や思想など様々な遺物について語った後で、最大遺物として、有名な「勇ましく高尚な生涯」について語ります。ともすると、「勇ましく高尚な生涯」は、他者のためには命も惜しまぬコルベ神父か、ノーベル賞を取るほど学問を究めた山中伸弥教授のような生涯を思うかもしれません。しかし、そうではないのです。エリクソンのアイデンティティに極めて近いのですから、実に不思議です。
内村は『後世への最大遺物』の中で言います。
「高尚なる勇ましい生涯とは何であるか…失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。此世の中は悲しみの世の中でなくして、喜びの世の中であるといふことを我々の生涯に実行して、其生涯を世の中の贈物として此世を去るといふことであります。その遺物は、誰にも出来る遺物ではないかと思う。」
これは、エリクソン以前に、日本人が根源的信頼感、そうして、アイデンティティについて語ったものです。
今日はその条件が語られます。
一つの条件:少し前に、私は北京放送を「マクルーハン的」と呼びました。また、私が認めなくてはならないのは、ここで説明した信ぴょう性のギャップは、人間の本性の他の大転換の中にあっては、枝葉の問題でしかないと見ることができる、ということです。この人間性の他の大転換は、現代の「情報環境」に伴うものですし、その情報環境は、私どもの概念と感覚生活全てを変えています。あるいは、マクルーハンがごく最近述べたことを私も耳にしたことですが、「即席の電子情報は、新しい音響空間、ないしは、共鳴空間をこしらえます。その中心は至る所にありますし、その端っこはどこにもありません」。この共鳴空間は、マクルーハンはそう信じているのですが、不連続体です。その不連続体は「私的な、自分を確かにしようとする道筋、西洋人の“後世への最大遺物”を暴力的に歪めます」。しかし、専門技術的事実で出来た世界の移り変わり、人間の変貌における幼稚に見える自由に細心の注意を払っている思想家とは対照的に、私のように、臨床心理を生業とする者の心に、繰り返し繰り返し響くのは、人間のライフサイクルや人間の習慣の構造の中の、生育歴上、情緒的に当然ある事実の方です。人間のライフサイクルも人間の習慣の構造も、専門技術の時代に持ち込まれていますし、現実に、遺物の世界そのものの中で、人々が自分を確かにする「本物」をますます死に物狂いで求めていることを、示しているのかもしれません。このような、自分を確かにしたいという根源的欲求は、私どもはハッキリ主張しなくてはなりませんが、一歩一歩歩みを進めるくらい遅々としてしか変化していきませんから、生きている(生かさせている)という実感(その実感と共に、人生を主人公として楽しんでいる実感)は、世代が変わっても必ず繰り返される、この根源的欲求が、時代が変わっても本当に新しいものに対してどのように関わるのか、という相対的な関係次第ではないのか、といぶかる人も出てくるかもしれません。
途中ですが、今日のところはここまでとします。ここまででも、エリクソンは実に大事なことを次から次へと指摘してくれますね。ホントついていくのが大変です。
自分を確かにすること、自分のアイデンティティが、西洋人の“後世への最大遺物”であること、自分を確かにしたいという欲求が、根源的なものであること、生きている(生かされている)という実感が、人生を主人公として楽しんでいる実感と親戚であること、専門技術が発達した現代社会では、自分を確かにしたいという根源的欲求が、なおさら強まっていること、まあ、挙げればきりがありませんね。
ここでは、アイデンティティ、自分を確かにすることが“後世への最大遺物”である点を取り上げます。そして、“後世への最大遺物”と言えば、内村鑑三の有名な講演です(岩波文庫)。内村は、『後世への最大遺物』のなかでは、お金や事業や思想など様々な遺物について語った後で、最大遺物として、有名な「勇ましく高尚な生涯」について語ります。ともすると、「勇ましく高尚な生涯」は、他者のためには命も惜しまぬコルベ神父か、ノーベル賞を取るほど学問を究めた山中伸弥教授のような生涯を思うかもしれません。しかし、そうではないのです。エリクソンのアイデンティティに極めて近いのですから、実に不思議です。
内村は『後世への最大遺物』の中で言います。
「高尚なる勇ましい生涯とは何であるか…失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。此世の中は悲しみの世の中でなくして、喜びの世の中であるといふことを我々の生涯に実行して、其生涯を世の中の贈物として此世を去るといふことであります。その遺物は、誰にも出来る遺物ではないかと思う。」
これは、エリクソン以前に、日本人が根源的信頼感、そうして、アイデンティティについて語ったものです。