積み木遊びには、作った子どもの心の中の時間と空間だけではなく、その子の社会の文化における時間と空間も映し出されていることが分かりました。また、学校の日常的儀式化については、今後の論述を期待したいですね。
臨床における「透明な意思表示」の話です。
臨床の仕事においては、遊びの中でも、夢の中で、とともに、どこにでもある不安と、望んでいたその解決法に対する、大なり小なり、透明な意思表示が見つかることを、私どもは当然のことと見なしています。しかしながら、一人の子どもが、こころを病んでいなければ、おもちゃの世界を使って、受容的な観察者と短い時間、時を共にすると、中心的な葛藤を劇的に表現できるでしょうし、そうするでしょう、などということは、なかなか信じがたいことかもしれませんね。もし私がそのことを疑っていれば、そのような積み木遊びをもう30年も前に私のためにしてくれた、バークレーの子ども達の何人かの生育歴を見直した時に、もっといい学びができました。これが可能だったのは、カリフォルニア大学人間発達研究所が、歴史上最も重要な「縦断」研究を行ってきたからに他なりません。この研究では、人生最初の20年間ずっと、データを豊かに収集したばかりではなく、その子たちが30歳、40歳の誕生日になるまで、追跡調査をしたのでした。運命と歴史は、想像できることですが、研究に参加してくださった人々に、予想だにしない支援と試練をもたらしてきましたが、その支援も試練も、それぞれの人がその人ならではのやり方で受け止めていました。しかし、支援と試練を受け止めた、その人ならではのやり方が、今や明確になっていることですが、積み木遊びの内容と形とに、いつも何度でも、驚くほど音色が似ていたのです。その積み木遊びは、子ども達が12歳の時に、私のために短時間でテーブルに並べてくれたものなのです。
積み木遊びに現れるその子の心の時間と空間は、その子が生涯を通して経験する様々な出来事(支援と試練)を受け止める際の参照枠になっている、そのことが、臨床心理の驚くべき、ノーベル賞級の発見だというべきでしょう。それこそが、個人の見当識であると同時に、その人の社会の文化における時間と空間なのです。
このことをエリクソンほど明確に教えてくれる人は、私は寡聞にして、他に一人しか知りません。 それは、加藤周一であり、彼の執念ともいうべき遺作『日本文化における時間と空間』です。