エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

癒しの時空 見当識の選択は人生の選択 加藤周一さん

2013-06-14 00:05:11 | エリクソンの発達臨床心理




 エリクソンが、解釈において感覚的な「感じの一致」を重視していたこと、通常は言語化することによって捨て去る感覚的リアリティを保持するために、言葉の選択にも気を配っていたことが分かりました。遊びとその解釈にはそのような感覚的リアリティがとても大事なわけです。エリクソンはそのことを、時間と空間に結びつけて論じます。





 このように、組み立て遊びセラピーにとっては、自己愛的な自尊感情を大きく修復する以上のことがあるわけです。組み立て遊びセラピーの詳細は、特別なものであれ典型的なものであれ、いくつもの経験的次元を明確に示しています。そのいくつもの経験的次元が、シックリ来る決め台詞によって統一されるのです。精神分析の言葉では、私どもは自我が機能しているのが分かります。あるいは、所定の面白い組み立て遊に根源的な方法を認めることこそが、私どもの努力そのものでなくてはなりません。つまりその根源的方法とは、人生という舞台での様々な経験、しかも、折り合いがつかないままの経験が、特定の時空の組み立てに翻訳され、その時空の組み立ての中で折り合いがつくものにされる方法です。それでは、それとなく申し上げたテーマと遊んでみましょう。
 私どもの組み立ての全体的な形は、子どもの頃の真に根源的な発達上の事実を示しています。つまり、今まさに成長している人間は、自由で囚われのない動きができるところまで、2本の足で直立して立つ姿勢、という、進化の恵みを自分のものにするようにならなくてはなりません。それと同時に、根源的な時空に対するひとつの見当識をも自分のものにするようにならなくてはならないのです。奥行きのある見通しと用心深い想像力を働かせて、人間は自分自身を自分の仲間の時空の中に位置づけることを学ぶのです。仲間の時空とは、<ここ>にあるものと<あそこ>にあるものを「見通す」ことであり、背後にあるものと裏にあるものを振り向くことです。様々な価値付けをさまざまな方向性と組み合わせることで、人間は上にあるもの、より上にあるもの、一番上にあるものを尊敬するようになりますし、下にあるもの、より下にあるもの、一番下にあるものを軽蔑するようになります。しかし、このような上下の見当識はまた、キッパリとした左右の見当識をも作り出します。そして、最後的には、社会的違いや性的違いに対する強力な意味付けが、すべてのこういった方向性と離れがたく結びつくようになります





 ここはとてつもなく大事な部分ですね。意識の方向性・方向づけ=見当識(定位)と、その選択の問題です。日本語では、見当識と言えば、高齢者の見当識障害が話題の中心で、自分が今いる時間・空間・「名前」が分からなくなること以上の理解が進まないことが非常に多いと思います。せいぜい「時間的・空間的・社会的な位置を知ること」が見当識のすべてだと思いがちです。しかしそれでは、orientation、もともとは「東(オリエント)向き」を意味したこの言葉にある方向性、向きの意味合いが飛んでしまいます。私たちは「♪ 上を向いて歩こう ♪」と意識することもできますし、知らず知らずのうちに伏し目ガチになることもあるのです。今日のところで、さまざまな方向性には、極上~最悪までの様々な意味付けがあることが分かります。そして、それは仲間が認める意味付けでもあるのです。その詳細は、「日常生活の中の儀式化」で翻訳した部分を思い出すか、参照するか、していただきたいと思います。そして、ここではまだ語られておりませんが、「何を極上(最悪)と認めるのか?」、「自分はどういう方向性を意識して生きるのか?」、「意味付けを共にする仲間と認める範囲を、どこまで広げるのか(あるいは、狭くするのか)?」という問題が残ります。つまり、自分はどのような「一つの見当識」を選ぶのか?ということです。これについては、エリクソンは別のところで教えてくれます。しかしこの点で、加藤周一の『日本文化における時間と空間』は教科書です

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