子どもの頃の問題を解決することが大事である、こういうと、「精神分析だな」と早わかりの人が出てくるかもしれませんね。
しかしそれだけではないのです。つまり、これは見当識の問題でもあるのです。見当識とは、心にある時間と空間であると同時に、その時空の中で、自分をどう位置づけて、しかも、何を、命を懸けられる夢や目的として、どういう方向性を選択して生きていくか、という指針でもあるのです。
「過去」という時間が、振り返る「背後」という空間に置き換えて捉えられる文化もあるでしょう。日本もその範疇かもしれません。「目の前」にあると信じられている将来を占う占いは、大流行りなのが日本の文化の現状でしょう。しかし、私どもは日頃、時間を特定の空間に置き換えていることを意識していません。しかし、たとえば、古代ユダヤや古代ギリシャでは、過去は「目の前」のあり、未来が「背後」にあると考えられていました。古代ユダヤや古代ギリシャでは、「目の前」にある過去は大事にして、よく見ることが習慣にもなりました。見当識はもちろん文化の影響が大きいのですが、それでも、いったんそれを意識すれば、どういう見当識を持つかを選択できるのです。ですから、「過去」を「目の前」において、意識していくことが、見当識を選択する上で欠かせないのです。
最近この見当識の好例が注目されました。それは冒険家の三浦雄一郎さんです。エベレスト登頂という命懸けの夢を、不退転の覚悟でハッキリ意識して、その夢の実現のためにあれだけ、厳しいトレーニングを日々行いながら、アクティヴに、しかも、あらゆる英知を駆使して、しかも、陽気に明るく行動して、夢を実現しましたね。そこにあるのは、夢というイメージであり、それをハッキリとさせる話し言葉であり、夢の実現を果たすための日々の習慣と英知と、なによりも、陽気な明るさです。
もちろん、生育歴をじっくり考えることには、世間で認められている理論的根拠があります。というのも、生育歴の最初の場面は、人類の進化の本質に本来備わっている、いつくかの理由から、人生のかなりの割合を占めるからです。しかも、歴史を通じて運命を決することが、同じ理由から、無視され、抑圧され、神話化されてきたからです。そこで、人が自分自身に対するピジョンの、生育歴上の源を研究したいと私どもが願う時に、私どもが意識しなくてはならないことは、子どもの頃のあらゆるイメージと、そのイメージを長年抑圧していることが、世界に対する見方を変える上で重要な場面ですし、これまでも重要な場面であり続けてきた、ということです。初めを調べるだけでは、なくした無邪気さを意識するビジョンと、対処すべき隠れた呪いを意識するビジョンとを隠してしまいます。しかも、無邪気さを失うことも、呪いが隠れていることも、いずれもある意味では避けられない運命なのですが。
子どもの頃のイメージは、世界をどのように見るのか、その見方を変える上で重要なことだといいます。それは、見当識と関係していることは、冒頭で記したとおりです。エリクソンは、この議論をどのように展開していくでしょうか?