ルターが、話し言葉であるドイツ語で翻訳したのはバイブルが本当に実感を持って読むことができるようになるためです。
Young Man Luther 『青年ルター』p.233の8行目途中から。
ニーチェが言ってます。「ドイツ語の散文の傑作は、ドイツで最も偉大な伝道者の傑作です。それ以来、聖書が、最高のドイツ語の本です。ルターが翻訳した聖書に比べたら、その他のほとんどすべての本は、「文学」です。つまり、「文学」とは、ドイツで育ったものでもなければ、ルターの聖書がそうなったみたいに、ドイツ人の心になったものでもなければ、現在でもドイツ人の心ではないものです。」と。ヤーコプ・グリム(訳注:グリム童話を集めた1人)は、ドイツ文学を始めた学者ですが、彼が言ってることは、ドイツ文学の開花は、ルターの業績を無視しては、存在しなかったということです。グリムは「ほとんど奇跡的なほどの純度と、深い影響力の故に、ルターのドイツ語は、新しいドイツ語の核にもなりましたし、その根っこにもなりました。ドイツ語を育てたと言われる人、ドイツ語を若返らせ、詩の花を咲かせたと言われた人も、ルターには及びません」ということです。
ルターは、かつては不信の塊でしたが、信頼を回復してから翻訳した聖書の言葉は、人々の心を攫むことができました。それは、ルターが自分のイメージを話し言葉にした聖書の話し言葉が、人々の心のイメージを話し言葉にするものでもあったからです。
しかし、考えてみれば、聖書の、少なくとも新約聖書の言葉は、コイネと呼ばれた、当時の話し言葉のギリシア語だったのですから、はじめから、人々のイメージ、実感を大事にしたのが、聖書だった、といえそうです。聖書の、実感主義が原点です。