エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

控えめで、ユーモアセンスのある言い方

2015-10-17 11:51:11 | アイデンティティの根源

 

 ルターとその他の修道士らとは、対照的でした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.234の第2パラグラフ、14行目途中から。

 

 

 

 

 

そしてここで、革命的なビューリタニズムが始まります。それは、大勢に異を唱える個人主義と、美的な禁欲主義と、残忍な独善性が混じり合ったものでして、プロテスタンティズムをかなりの部分、特色付けるものになりました。ルターが理解しがたかったのは、ルターが何を生み出してきたのか、ということでした。あらゆる命令、あらゆる忠告に反して、ルターはヴィッテンベルグに急行し、1週間の間、来る日も来る日も説教しましたが、それはまた、力強く、控えめにして、ユーモアセンスのあるものでした。ルターは言いました、「人を傷つけるかもしれないものを全て打つ壊そうとすれば、女も酒もなくさなくちゃなりませんよ。」と。ルターは、ザクセン地方のビール生産の中心地で、最後の言葉をどうやって無事に言い切ったのかは、分かりません。しかし、ルターは自分の主張をハッキリさせたことは確かなことです。こうして、ルターは自分の友達の中に最初の敵が出来ましたが、その友達はルターを「反動屋」と呼び出したのでした。

 

 

 

 

 

 これを読むと、内村鑑三やハンナ・アーレントが、自分の立場を鮮明に主張する時に、多くの友達を失ったことを思い出しますね。大事な友人を失う悲しみは、人間が体験する悲しみの中でも、大きいものでしょうね。内村は、天皇に写真に頭を下げるのが「足りない」という形で、ハンナ・アーレントは、アイヒマンは悪魔ではなく、お役所仕事をしただけだったといった時…。

 私どもも、本当に正しいことをする時には、そんな悲しみを体験する場合が多いものです。ですから、本当に正しいことは、声高には言わないものですよね。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちがしてるみたい、声高に、暴力的には言わない。本当に正しいことは、むしろ、控えめに、ユーモアセンスの中で言うものです。

 ですから、正しいかどうかは、その言い方ですぐに見分けがつきまっせ!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オバケ退治から、ヒットラーまで

2015-10-17 10:25:30 | エリクソンの発達臨床心理

 人間にとって必要不可欠な防衛機制も、やりすぎになると病的です。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p83の第2パラグラフです。

 

 

 

 

 

 アンナ・フロイトの文書に、この可能性を指摘する件があります。もちろん、一番明らかなのは、ひとりびとりの、ある種の防衛機制は、社会の慣習になっている守りと似ている、ということです。たとえば、「虎の威を借りること」。なんか深刻な理由から、オバケが怖くて、いくつかの身振りをすることでオバケに関わらない様にしていた女の子がいます。それで、その子は、ホールで出会ったオバケの真似をしてます。そして、私どもは、怖い相手になることで、「不安を愉快な安心に変えちゃう遊び」(アンナ・フロイト、1936)のことを思うかもしれませんね。同様に、一番攻撃的な格好になることが「魔よけの原始的ないろんなやり方」になる、ということが、文化史を通して、ずっとありますからね。

 

 

 

 

 これも見事ですね。いつもお母さんに叱られている子が、お友達をいつも叱る子になるのは、どこの小学校に行っても、必ず出会う子どもです。これも、自分がいつも叱られて、心に土足で入られてる場合、その叱るお母さんに自分がなって、その時の怖い思いを解消しようと、本能的にするわけでしょ。秋田のなまはげなども、自然からくる恐怖を、怖い鬼になって、追い払おうとするものかもしれませんしね。ヒットラーに心酔した人々も、大恐慌以降の社会不安を、「強そうなヒットラー」に心酔して、なり切ることで、解消したみたいにね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義的人間像 改訂版

2015-10-17 08:50:07 | エリクソンの発達臨床心理

 

 いま日本は民主主義の危機です。民主主義を進める人、民主化の担い手はどんな人物なのかを確認したくなりますね。そう考えると、政治学の人、たとえば、丸山眞男教授や、福田歓一教授、あるいは、その先生の南原繁先生や、あるいは、宮田光雄先生から学ぼう、あるいは、早稲田であれば、藤原保信先生や鴨武彦先生から学ぼうという感じになるのかもしれません。しかし、今回は、経済学がご専門の矢内原忠雄先生から学んでみたいと思います。

 矢内原忠雄先生は、内村鑑三、新渡戸稲造2人の弟子です。ICUの武田清子先生の言葉を借りれば、内村・新渡戸2人の弟子に優れた人が多いということです。それは、2人の弟子の中に、戦後民主主義を支え、民主化を進めた人が多い、ということになります。南原繁先生(白雨会)も、矢内原忠雄先生(柏会)も、2人のお弟子であり、敗戦後の東大総長を務めた方でしたね。

 今日は特に、矢内原忠雄先生の最晩年の文書「新しい人間像の形成」(1960)(武田清子, 1963『日本プロテスタント人間形成論』明治図書)から、「民主主義的人間」を考えます。この文書は、1960年5月19日のいわゆる「深夜国会」で、岸内閣が新安保条約を強行採決して間もなくの頃のものでしたから、矢内原忠雄先生もそのことに触れ「だまし討ち的」だと、この文書でおっしゃっています。矢内原忠雄先生がご存命ならば、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちの、議事録もない、戦争法案の強硬採決は、何とおっしゃるだろうと思います。

 矢内原忠雄先生は、「民主主義的人間像」として、8点を明示しています。必ずしも系統的なものではありません。矢内原忠雄先生も「断片的な人間像のスケッチ」と記しています。でも、矢内原忠雄先生自身、民主化を担い、矢内原忠雄先生の弟子たちも、民主化を担った人物を数多く出していることを考える時、民主化にとって大事な指摘である点は、揺るがないだろうと私は考えます。

 その8つの指摘のいつくかを見て見ましょう。矢内原忠雄先生が第一に挙げるもの、何だと思いますか? 「民主的な人間は、のびのびと手足を伸ばした自由な人間である」。実に愉快でしょ。「のびのびと手足を伸ばした自由」ですからね。「自由」と言えば、なんか小難しい抽象論を想像するのではないですか? でも、「のびのびと手足を伸ばした自由」となれば、自宅の居間でくつろぐ姿とか、心を許し合った者同士のくつろいだ感じが、具体的にイメージできますもんね。なんか晴れやかで、爽やかで、温かい感じです。コソコソ、コセコセ、ペコペコの東電や東芝や東洋ゴムや三井不動産、マイナンバー制度に熱心な厚生労働省の人らとは対照的。

 もう1つは、「民主的人間は自己の信念にもとづいて真理を愛し、正義のために戦う戦士である」。矢内原忠雄先生が、中国侵略を進める軍部の横暴と、それを止めることができない弱腰の政治を目の当たりにして、それを厳しくは批判し、それと闘い、東大を辞めされられたことにも思い至ります。民主化は、自分の損も覚悟で戦わなければ、実現しない正義です。それは今も同じ。信念をもって、真理を大事にする、その忠誠、その正直さが大事です。民主化は、真理に対する、そういった忠誠、そういった正直さを帯びた人々によって、進められてきたことは、民主化の歴史を少し学んだだけでも、分かります。民主化はいつでも、マルティン・ルーサー・キングのような戦いによって、進められてきたわけですね。今も民主化を進めようと思えば、真理を大事にしつつ、民主化のための、非暴力的な戦いを戦わなくてはなりません。その点、今の日本の腰抜けだらけのジャーナリズムやジャーナリズム学者、御用学者とは対照的。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラウマは、昔話じゃぁ、ない⁉

2015-10-17 01:03:54 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
大いなる福音 : ≪いまここ≫におられる神
  「放蕩息子」の譬え、長い譬えです。しかし、許しがはじめから予定されていることが何よりの福音であることが、ハッキリ示されます。 p355第2パラグラフ。...
 

 

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.206のブランクから。

 

 

 

 

 

発見に新たに注目

 

トラウマのことを話題にする時、私どもは1つの物語、1つの問いから始める場合が多いでしょ。「戦争の間に、何があったんだい?」だとか、「誰かが性的ないたずらをされたのかい?」だとか。あるいは、「事故のこと、レイプされたことを話してね」だとか、「あなたの家族に、アルコール依存症の人がいたの?」だとか。しかしながら、トラウマって、ずっと昔にあったことの話どころじゃぁ、ないんですね。トラウマにあった時に刻み込まれた、いろんな気持ち、いろんな体感は、単なる記憶として残るんじゃぁなくて、いまここで、自分が混乱してしまう身体反応として残っちゃうんですよ。

 

 

 

 

 

 トラウマには、震災や戦争のトラウマもあります。でも、アメリカでも日本でも問題になっているのは、その手の、万が一の時のトラウマではありません。毎日の生活の中で、発達の中で体験する、発達トラウマなんですね。発達トラウマがある場合、その多くは愛着障害ですが、それは、知的な発達の遅れ、自己肯定感(根源的信頼感)の弱さ、対人関係の困難、課題に対する消極性(あるいは、評価される場合は積極性になる場合もある)になって現れます。なぜなら、いつでもオッカナビックリ、あるいは、何とか自分に振り向いてくれる人を見つけようとするので、自分を生きられませんから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする