エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪真実の関係≫の基本の「き」

2015-10-23 07:28:36 | アイデンティティの根源

 

 あの世とこの世を分けるルターの考え方は、問題アリでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.235の第2パラグラフ、下から5行目途中から。

 

 

 

 

 

こういった、いろんな土地、いろんな事務所、いろんな仕事は、同様に神が下さるものであり、神が導いてくださるものであると、ルターは定義しましたものの間にあって、ルターは、改革者、革命を起こす者という自分の仕事に触れることは、すっかり忘れていたからです。しかし、ルターは、すでに破門状を燃やしちゃってました。ルター自身が反乱を呼び起こしていたんですね。ルターの最初の「言ってること」と「やってること」の関係が、忘れ去られていきました。

 

 

 

 

 

 ルターのような信頼を回復した人でさえ、いったん事が起こると、「言ってること」と「やっていること」を一致させて、人と関わる、という真実の関係の基本を忘れがちになるんですね。信頼を回復していない人でしたら…?

 

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「《私》という感じ」と真実な関係

2015-10-23 06:56:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
仏道は自己なり
 「仏道は自己なり」とは、浜松市半田山の龍泉寺参禅道場の門にある、道元禅師の言葉です。仏教も、非常に心理学的だと感じさせる言葉ですね。 以前に、ここの道場の師...
 

 

 

 防衛機制についても、氏か育ちか、という議論があるようですね。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p85の、線の下から。

 

 

 

 

 

 私と私たち

 

 自我防衛を議論した後は、「自我心理学」と呼ばれたりするものに戻る時でしょう。今日では、同様の意味に、「自己心理学」という言葉に出合います。私自身は、心理社会的ないずれの方向も、二律背反ですが、一人の人の最も個人的なことであると同時に、「私たち」という共同の意味にとっても、最も根源的なことでもあるものを議論することなしには、語ることができません。私は、「《私》という感じ」を、言葉を戴いた、感じ、また、考える存在を自覚する、ひとりびとりの中心である、とします。そういう存在は、本当の自分と向かい合うことができますし、無意識的な自我という考えも形作ることができます。

 

 

 

 

 

 「《私》という感じ」は、エリクソンの用語で、アイデンティティと同様、中心的な言葉です。でもね、その割には知られていませんでしょ。エリクソンの紹介者が「偏った」紹介をしているからです。「礼拝のような真実な関係:リチュアライゼーション」もあまり知られていませんよね。

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愛着障害児支援に不可欠な自覚

2015-10-23 02:59:16 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 発達トラウマのある愛着障害の子どもが回復する最初は、子どもが笑顔になる場面を作るような関わりです。

  ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.208の図の下から。

 

 

 

 

 神経科学者のジュセフ・レドックスと彼の同僚が示しているのは、私どもが意識的に感情脳に関わることができる唯一の道は、自覚を通して、すなわち、前頭前皮質を活性化することによるしかない、ということです。前頭前皮質は、自分の内側で起きてることに気付いて、自分が感じていることを感じられるようにする脳です(「内省」という特別な専門用語は、ラテン語では「内を見ること」です)。私どもの意識脳のほとんどは、外を見ることに焦点付けることに役立ちます。すなわち、他者に合わせたり、将来の計画を立てたりすることです。しかし、それだと、自分自身をコントロールすることができません。神経科学研究によれば、私どもが感じる感じ方を変更できる唯一の道は、私どもの「内的な(心の)」経験を意識するようになることですし、私どもの内側で起きていることに親しむようになることです。

 

 

 

 

 

 感情脳に関わるためには、内省することが必要です。ですから、発達トラウマのある愛着障害の子どもに関わる私どもも、内省すること、内省する生活が、何よりも大事になる所以です。

 

 

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主権者教育

2015-10-23 02:08:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人を大事にできるのは、自己愛から卒業して、信頼が豊かになった人だけ
  人を大事にする人は、どんな人でも大事にできますし、人を客観的にみられる人なら、どなたに対しても客観的になれます。面白いですね。 p112第2パラグラフ。 ...
 

 

 選挙権が18才以上の市民に開放されて、にわかに「主権者教育」ということが言われるようになりました。今までは「主権者教育」はどうだったのでしょうか? そもそも「主権者教育」とはどういうことを言うのでしょうか?そもそも「主権」とは何のことでしょうか?

 主権については、当ブログでも、何度か取り上げてきています(ポーゲンセの感動基本的人権を蔑ろにしている安倍政権 国家>個人 は大間違いなど)。

 放送大学の宮本みち子さんによれば、スウェーデンでは、学校が民主主義教育、主権者教育の要になっているようですね(http://www.akaruisenkyo.or.jp/wp/wp-content/uploads/2012/08/swe.pdf)。そこで宮本みち子さんが強調している点は、社会科教育です。スウェーデンでは、社会科の教育には、2つの特色があるといいます。いずれの点も優れた人権教育、優れた主権者教育になっていると私は考えます。

 1つは、社会科教育が、年号や歴史上の人物の名前や歴史的事件、制度の名前を暗記することが中心の日本の社会科教育とは異なり、子どもたちが「賢く安全に」生活するのに役立つものになっているそうですね。いわば「賢く安全な生活ガイドブック」になってる訳ですね。

 もう1つは、「社会は自分たちの手で変革できるものなのだということを教えていることです」。ですから、丸山眞男教授がおっしゃるように、制度や規則を「既製品」として受け取る日本人とは正反対ですよね。スウェーデンでは、制度や規則は変更することができるものと、教えられているとのことです。これは非常に大事ですね。

 今の日本は、政治は、変わらない、変えられない、という無力感が広まっているから、国政も地方政治も、投票率が減ってんですね。それは、日本の社会科教育が、スウェーデンのような生活ガイドにもならず、制度や規則は変えられるということを、伝えてないし、むしろ逆をやってるからでしょう。暗記中心の社会科教育は、制度や規則を「既製品」として受け取る態度に似ていますし、学校にある制度や規則も、子どもにとっては「既製品」でしょ。子どもはそれを変更することができない、「言っても無駄よ」ということは学んでも(「ルールなんだから、従いなさい((ルールや教員の)下になりなさい)」)、制度やルールや教員に対して、物申し、それを変えることができる、ということは学んでないんですね。日本の子どもは、学校教育を通じて、「言っても無駄」ということと、「従順」という名の無力感を、学んでいることが多いと私は強く感じます。

 私は、主権者教育や人権教育は、何か特別なものではないと考えます。むしろ、普通の教科学習や日常生活の中で、学校の制度やルールは変更可能だ、ということを子どもたちが実感できるような教育現場にしていくことが、真の主権者教育であり、真の人権教育だと、信じて疑わないものですね。

 

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