1人の時間 ソリチュード
愛着障害の子どものケア。感情的な対応と正しいことを強要する対応が禁忌。望ましいのは、穏やかな対応と、内省的な対応。最近の小学校は、愛着障害の子どもだらけ。夏休...
先日、子どもたちと遊んでいると、タッチを求められることが多いことを記しました(日本の貧困の根本原因)。今晩も、タッチを考えます。
「ホントに多くの子どもが寂しい思いを抱えながら、暮らしているのが痛いほど分かります。どこの小学校に行っても、そうですからね。昼休みなどに校庭で遊んでますでしょ。すると、どこの小学校でも、「おじさん、おんぶして」「抱っこして」…。それが次から次でしょ。タッチ、スキンシップが全く足りてません。何故でしょうか? 昔は定時退勤が当たり前だった、市役所の職員でさえも、今は残業残業でしょ。民間企業はもっと残業してますでしょ。すると、お父さん、あ母さんは、なかなかお家に帰れません。それも、子どもが赤ちゃんの時からですからね。子どもはずっと寂しい思いをして生きてきたことになりませんか? 」
実際にすごいんですよ。私がしゃがんだ状態で、子どもを一人抱っこしてますでしょ。すると、次から次へと、重なるようにオンブをしてもらおうと背中に覆いかぶさってくるんですからね。震災トラウマが関係していると思いますか? 関係ないですね。 むしろ、赤ちゃんの頃から抱っこされたり、おんぶされたり、キスされたり、手を握ってもらったりする経験が絶対的に足りてないからですね。それが、発達トラウマになってるから、本能的に、自ずから、自分の足りないところを遊びの中で補おうとしているのだと、強く感じますからね。臨床家が感じること、すなわち、「≪私≫という感じ」が捉えた感じは、とても大事で、当てになりますしね。
考えてみれば、人間の最初の絆であるアタッチメント attachmentは、タッチ touchがなければ、成り立ちません。これは、実際に発達面から考えても、言語学的に考えても、あるいは、神学的に考えても、そうだということです。
まず、赤ちゃんがお母さんのアタッチメントを育み、根源的信頼感を身に着けていくためには、お母さんから繰り返しタッチされなけりゃあ、無理でしょ。オッパイを貰う時、オシメを取り換えてもらう時、あやしてもらう時…、お母さんが赤ちゃんにタッチしないで、するなんてこと、出来ませんでしょ。 むしろ、そんなことができたら、それはマンガです。お母さんが赤ちゃんにタッチせずに、オッパイを上げる図をイメージして見たら、わかります。赤ちゃんがお母さんと離れて、向き合って、目と目で触れ合う、アイコンタクトの前には、かならず、直接的で、温もりが伝わるタッチがなければなりませんよね。
それから、言葉の上でもね。アタッチメント attachmetは、タッチ touch 入りです。タッチ tachという語根は、タッチ touchという意味だからです。アタッチメント以外ですと、デタッチメント detachment 「関わらないこと」「離れること」があります。
それから、神学。
以前、このブログで翻訳した「ガリラヤの言い伝えは、「≪私≫という感じ」」に、「マルコによる福音書」第5章29-34節が出てきます(触れるのは、信頼の証拠)。ここは「長血の女」と言われるところです。全財産をつぎ込んでも、自分の婦人科の病が治らなかった女性です。医者に騙されたのかもしれませんね。でも、この女性は一心に、必死な思いで、恐る恐る、イエスの衣服に触れます。タッチですね。すると、そのタッチを通して、イエスから、その女性に、virtue ヴァーチュー 「人格的な力」が伝わったそうです。すると、たちまちその、ダラダラと陰部から流れていた血が止まった、と言います。その女性も、劇的に自分の病が癒されて、ビックリするは、嬉しいは、恐ろしいは…という感じだったことでしょう。
タッチ、それは人間にとって、なくてはならないもの、人の体も心も育てるもの、人の体も心もいやすもの。