エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

心の光

2014-07-31 05:34:02 | アイデンティティの根源

 

 ≪私≫が広々とした≪私たち≫と結びつけば、結びつくほど、イキイキ、ピチピチして生きていける。まさに福音ですね。

 今日はp329の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに申し上げたことですが、≪私≫という感じは、生きていること関して最も確かな事実の一つなんですが(実際に、一番はっきりしたことなのかもわかりません)、同時に、最もはっきりしない事実の一つでもあるんですね。心理の人は、≪私≫という感じは、心理学的関心ではなくって、哲学的関心だって考えがちなんですね。後で議論しますか、私の先生、ジグムント・フロイトは、≪私≫という感じを、(ほぼ)無視しようとしました。でも、この主体的な感じが、私どもが意識して生きているその意識の境界線上にあるというのも事実でして、≪私≫という感じが健康であるかどうかは、自分を確かにするものとして、心理社会的な生活を送る生き方の質次第だということも、疑いえないことですね。聖書では、人間らしい≪私≫について一番直接言っていることは、心のともし火という形で、すなわち、自覚の輝きという形で出てまいります。もともとのガリラヤの言い伝えは、マタイの説明の中で出てきます。「ともし火を点けたら、枡の下に置かないで、燭台の上において、部屋中に光が当たるようにするでしょう」(「マタイによる福音書」第5章15節)。「眼は、身体の明かりです。あなたの眼が調子よければ、身体全体も光でいっぱいだ。しかし、あなたの眼が調子悪ければ、あなたの身体も、闇でいっぱいだ。心の中の光が暗ければ、その闇の深さはバカでっかい」(「マタイによる福音書」第6章22節)。実際、私どもの≪私≫という感じのおかげで、私どもは感覚的な気づきがあると、そこにヌミノースの中心を感じることができますね。 

 

 

 

 

 心の光、それは明るく、しかも、温もりに満ちているんですね。

 ですから、心の光があれば、自ずから、陽気で楽しく、しかも、悦びに満ちた毎日が過ごせますよね。親愛なる友よ!

 

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