エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#見せしめ  #逃げようもない苦痛

2024-11-24 07:30:38 | エリクソンの発達臨床心理

#心からの自由 #思いがけない恵み                                                                                                                                                                                                                                              
#心に野獣を飼う子ども #不愉快な想い #聖書の言葉 #単独者の恵み #ラブレター #遊び場 = #結界 ➡ #聖書の神様のいのちが一巡する  #英知の極致 #下準備 ≧  ......

「発達トラウマ障害 Enpedia」
情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。 
 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 p.94の第2パラグラフから。


 毎日礼拝の第2の要素が,第1の要素と違うのは,快く進んでやる意志が自由であるほど,正しい選択ができる ということを強調する点です。赤ちゃんの時期の毎日礼拝は,何かを避けることは,親の責任でしたが,第2の毎日礼拝では,その子が「自分を見る」ように自分を躾なくてはなりません。この目当てのために,両親や目上の子ども等は,その子と,自分を見なかった場合その子がなる者を比べて,2つの対立する自己イメージを作ってしまいます。ですから,第2のステージに,「不甲斐ない私」の発生源がある訳です。この不甲斐ない私は,「人間を上下2つに分けるウソ」を良しとするイメージの肝です。と言いますのも,不甲斐ない私」は,自分じゃないもの,あるいは,自分がそうは見えないもの全てであり,しかも,将来そうなるかもしれないもの全てです。それに,獣や低俗な人種を呼ぶ 露骨なイメージや名前を呼ぶときに,下品な言葉使われます。獣や低俗な人種に似てはいけないのは,自分の仲間に認めてもらうためです。もちろん,この大嫌いな特徴の背後には,親たち自身も誘惑されてきた者のイメージがある場合が多いですから,うちの子どももそうなるかもしれないと不安になる恐れているイメージがあるものです。ですから,「力強い道」は,そうならないために,子どもらがイメージできるようにならなくてはならないものです。自分を疑う自分陰で自分を恥じる自分とは,自分の影を追い出さなくっちゃという気持ちとくっ付いていますが,この自分の影を追い出さなくっちゃという気持ちこそが,抑えつれられた激しい怒りを作り出すことになります。この抑えつれられた激しい怒りは,結局,自分を悪く言う親に対する反抗に化けることになりますし,回り回って,錦の御旗を掲げて人を悪く言うことに化けることになります。私がこのことを重苦しく描くのは,この1歳,2歳の時期に,善悪に分裂した自分」の源があるばかりではなく,「人間を上下(善悪)2つに分けるウソ」の源があるからなんです。と申しますのも,一点の曇りもなく,(訳註:神の目には貴い 本来 かけがえのない価値がある)自分自身を耐えがたいほど悪く見ることは,強迫的な行動に駆り立てられる障害や 妄想に取りつかれる障害や うつ病など 多くの心の病の根底にあるものです。たほう,他の集団に対する 理屈の通らない偏見は,最新兵器で武装して,1つの人類を否定する者同士,滅ぼし合うことにもなります。この滅ぼし合いは,おそらく,真実の1つの人類になる間際なのかもしれませんね。しかしながら,自分が2つに分裂すると同時に 人類も上下に分裂すると滅ぼし合いが生じることになるのはすべて,いつも何度でも,善悪を峻別した際の「悪 不甲斐ない私」を聖書の神様に許していただく毎日礼拝を新鮮にしなければならないことが,とても大切なことを示しています。様々な言葉と様々な音色で 善悪を峻別する際の「悪 不甲斐ない私」を聖書の神様に許していただく毎日礼拝を新鮮にしなければならないことことは,その子にも判ると同時に,その子が試す 仲間内で善しとされる傾向に ピッタリと合っています。 
 大人の儀式が,1歳、2歳の時期に根付いていることを,容易に判る事でしょう。「試練(裁判)」の景色ではめいっぱいに,この善悪を分ける要素大きく良しとされます。この善悪を分ける要素は,一人びとりの心の中ではお馴染みのドラマを,白日に晒します。と申しますのも,律法は,あぁあ 私どもの(訳註:悪い良心同様,いつでも監視の目をギラリと光らせている と信じ込まされています。(訳註:悪い良心の原理は,須らく,法律書に固定化されたかのように,信念体系の刻み付けられて,法の執行を,丁度いい被告人に 言い渡すべきことを 言い渡すものです。刑事裁判では,見つけられた者は,「見せしめ」になります。その見せしめ」に,大衆は,心のうちにある恥を投影することがありますでしょ。判断は,神が良しとされたことに基づくことであって,暴力や個人の激怒を宣告したものではありません。


 見せしめ」には,多くの人が,心のうちにある恥を投影しがちです。しかも,暴力や個人の激怒を宣告したものではなく,神が良しとされたことに基づくとされたら,逃げようもない苦痛です。
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