「あなたにとっても、最も好きな(フェイヴァリットな)思想家は誰ですか?」と訊かれたら、私は「加藤周一さん」と申し上げます。まだ訊かれたことはないけれどもね。
最初はどういうきっかけかは、忘れましたが、西村秀夫先生が、「聖書を学ぶ会」の集会(エクレシア)で、加藤周一さんのことを話したことがきっかけかもしれません。もう20年以上も前かもしれません。第一高等学校で西村先生は加藤周一と同級生で、しかも、テニス部(庭球部)でも一緒だったと言います。加藤さんはテニスが上手で「選手」だったそうですが、西村先生は万年補欠だったらしい。東京帝国大学では、加藤さんが医学部、先生が理学部で別々になったけれども、晩年に、加藤周一さんとの手紙のやり取りを西村先生は楽しんでいて、そのことを集会で話されたことがありました。
加藤周一さんも、西村秀夫先生のことに触れているところがあります。それは『羊の歌 わが回想』のp123「駒場」について書かれているところにあります。西村先生の告白通り、その「東京の男」は「庭球ではひどく不器用であった」と書いてあります。そして、「彼は後に庭球部の事務を引きうけて、選手のために献身的にはたらき、さらに戦後一高が東大の教養学部になったときには、その学生の世話係りとなって、彼が二十歳のときにあれほど愛していた駒場を、生涯の仕事場とした」とあります。西村先生の人柄の一端を見事に表現していると感じます。
その『羊の歌 わが回想』からふたつの文書を引用しておこうと思います。
まず、p108から
「そもそも低能な人間が多く、詐欺が成功する世界でなければ、わずか五年か十年のうちに一変するような理想や目的のために、何十万の青年を戦場にひき出し、何百万の国民を熱狂させるあの戦争という事業は、成り立たなかったはずだろう。…おそらく、熱烈な愛国者の多くは、隣人を愛さないから、その代わりに国を愛するのである。」
もう1つは、p184~185にかけて。
「私がいちばん強い影響を受けたのは、おそらく、戦争中の日本国に天から降ってきたような渡辺一夫助教授からであったにちがいない。…もしその抜くべからざる精神が、私たちの側にあって、『狂気』を『狂気』とよび、『時代錯誤』を『時代錯誤』とよびつづけるということがなかったら、果たして私が、ながいいくさの間を通して、とにかく正気を保ちつづけることができたかどうか、大いに疑わしい」
自由と正気は、こうして生まれます。
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