勤め先近くにある欅(ケヤキ)の高木です。五年見ていますが、こんなふうにきれいに色づいたのは初めて。
十月なかばに行きそびれていた前ヶ崎城址を訪ねました。
プリンタの具合は恢復せず、相変わらず地図はないままですが、今回は我が庵から直接出向くので、方角をたがえる心配はなさそうです。
通い慣れた道を大谷口城址に向かって歩きます。最初の目印は廣徳寺入口にあるセブンイレブンです。ここで煙草とビタミンウォーター、それにキャラメルを仕込みました。
方向をたがえる心配はないと思いましたが、セブンイレブンを出たところで早くも失敗を犯しています。
庵で詳細に検討し、頭に叩き込んできた地図では、北東に向かって真っ直ぐに伸びる道があるはずでした。
確かに北東に向かう道はありました。
が、覗き見たところ、真っ直ぐとはいいがたい。次の角かと思って歩くと、そこは細い路地で、どうやらやり過ごした道を曲がるのが正解だったようです。
しかし、わずか一本先を曲がるだけ、と軽んじたのも失敗の上塗り。一本それただけのはずの道が「ヘ」の字型に弧を描いていたとは思いもせず、気づきもせず……。
見たような場所に出た、と思ったら、本土寺の参道でした。
本来なら本土寺の遙か後方を歩いていなければならなかったはず。仁王門前を左折して本土寺を半周、ようやく所期の道に出ました。
中央分離帯があり、平坦な道を歩くこと約二十分、やがて下り坂に差しかかりました。広かった道路が坂を下ったところで、T字路になってしまいます。
千葉県ならではの道路のつくり方です。せっかく広々とした道路をつくりながら、それをまっとうさせる、ということがない。
やむを得ぬ事情はあるのだろうと思いますが、途中で道が狭くなったり、ここのように、突如農道に毛の生えたような道路に変わるので、渋滞が起きるのです。
前ヶ崎城址遠景。
馬の背中を思わせるような細長い台地の左先端にあります。回り道をしたので、ここまでの所要時間は一時間。
公園入口と土塁の上から見下ろした本郭跡です。
遺されているのは入口の階段部分と本郭跡、その背後の土塁部分だけ。
前ヶ崎城址については、大谷口(小金)城主だった高城氏関連の城だったのだろうと推測される以外、築城の歴史も城主もはっきりしていません。私が城址探訪のバイブルのようにしている「東葛の中世城郭」にも明確な記載がありません。
前ヶ崎城の天然の要害にもなっていた富士川を遡ること300メートルで坂川との合流点に出ました。
そこからおよそ1キロのところに野々下水辺公園がありました。夏は賑わっていそうですが、いまの季節は人影もまばらです。
ここには坂川の水源となる水の湧き出し口があります。その源は28・5キロ先の利根川。北千葉導水路で導かれています。
野々下水辺公園に建てられている北千葉導水路の導管を輪切りにしたモニュメント。内径は4メートル。
坂川の最上流で見つけたダイサギとアオサギのツーショットです。
前ヶ崎城址隣の流山運転免許センター前から南流山駅へバス便があったので、帰りはバスに乗ることにして、終点の一つ手前で下車。東福寺を訪ねました。
通い慣れた(?)はずの東福寺。それなのに、気づかぬことがたくさんありました。
一つは裏手の奥の院にはすでに千仏堂はなかったということです。どこに移されたかというと、本堂左手にありました。
もう一つは、関東の地にありながら、平將門が征伐されたことを悦ぶ人たちがいたということです。
文久三年(1863年)に奉納された俵藤太(藤原秀郷)の絵馬があることを示す掲示板。
近辺では一番雰囲気のあるお寺だと気に入っているのですが、將門贔屓になりかけている私としてはちょっと残念……。
山門の仁王像のうち、吽形。
阿形のほうは防護ネットに引っかかって撮せませんでした。運慶作と言い伝える人がいますが、運慶にしては力感が乏しい。
さすがにお寺が掲げている紹介では運慶には触れておらず、流山市内では最大の像だと紹介するのにとどめています。
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