桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2018年初藥師・船橋市

2018年01月08日 22時36分35秒 | 薬師詣で

 今年最初の薬師詣でです。
 去年五月ごろから、茨城県は美浦村にある海源寺というお寺に薬師詣でに行きたいと思うようになっていながら、交通手段が土浦から一時間に一本しかないバスだけが頼りとあって、なかなか思うようになりません。

 数日前の天気予報では、今日八日は大荒れの模様でした。大荒れとあっては、美浦村行は早々に諦めて、あまり遠くないところを捜し、船橋にある二つのお寺を巡ることにしました。

 二日前の六日になると、八日の天気は日中はずっと曇で、夕方から雨、と予報が変わり、この日の朝の段階での予報も変わりませんでした。
 夕方から雨、というのを信じて、傘は持たず、代わりにフード付きのコートを着て、念の為、トートバッグにポンチョを忍ばせました。薬師詣での日はわりと長い距離を歩くことが多いので、折り畳み傘一本といえど、持って歩いていると、取るに足らぬと思えるその重さが徐々に肩に堪えるようになるのです。



 電車の時間に余裕があったので、今日は先に慶林寺に参拝します。お正月を除いて、門は閉ざされています。

 慶林寺をあとにして、電車に乗るべく北小金駅へ歩き出したとき、早くも霧雨が降り出しました。



 北小金~新松戸~新八柱(八柱)と乗り換えて、新京成電鉄の北習志野駅で降りました。雨の心配をしていましたが、新京成に乗っている間、ときおり陽射しも出たりしました。
 北習志野駅は東葉高速鉄道と接続しているので、駅前は意外に広く、賑わっています。



 ここから古和釜十字路行のバスに乗ります。
 出発時の乗客は十人ほど。
 途中で一人乗り、二人降りました。あと二つで終点という停留所で、残った全員が降りてしまい、わずかな時間でしたが、バスは私の貸切となりました。



 北習志野駅前からバスに揺られること十三分。終点の古和釜(こわがま)十字路に着きました。
 十字路という呼称のとおり、交差するのは千葉県道57号線(千葉鎌ヶ谷松戸線)です。交差点を突っ切ると、急に鄙びた径に変わりました。



 バス停から歩くこと四分。左手に朱塗りの伽藍が見えてきました。
 目指す瑠璃光山東光寺(天台宗)でした。
「瑠璃光」に「東光」と重なれば、薬師如来を指す以外考えられませんが、不思議なことに、このお寺の本尊は阿弥陀如来です。



 本堂右手に、かつて薬師堂があったと考えられている一角がありました。

 中央に建つ四角い石碑が薬師堂があったことを示す石碑、右の白い御堂が新しく建てられた薬師堂です。 

 薬師堂は焼失したらしいのですが、いつごろなくなったのか、いまのところはまったくわかっていないようです。

 


 前の画像の中央にある石碑と右に見える御堂です。



 新しい薬師堂の中を覗き込んでみると、平安時代の作と考えられている、小さな薬師如来坐像がおわしました。左手には確かに薬壺を持っておられます。



 薬師堂跡の後ろにはおびただしい数の石像がありました。いずれも古びているのと樹々に囲まれて薄暗いのとで、何が刻まれているのか、はっきりとは見えません。



 このお寺の由緒は、というと……。
 境内に掲げられた「東光寺の由来」には、源義康の嫡男・義道という人が十八歳のとき、父の勘気を蒙って下総に入り、この近くに居を構えた、とありますが、それは寺の由来とは直接関係がありません。肝心のお寺の開創はいつかというと、平安末期ごろ、義則入道恵光という人が開いた、とありました。

 源義康とは源氏の嫡流・八幡太郎義家の孫で、足利氏の祖となる人ですが、三十一歳で死んでいます。息子の義道が十八歳ということは、遅くとも十三歳で父親になっていることになります。
 遥か昔は生まれたばかりなのに妻を娶るということもあったので、十三歳で父親になる、という話はないとはいえない話ではありますが、私が知る限り、義康の男子には義清、義長、義兼、義房の四人があって、義道という名はありません。

 東光寺をあとにして西光寺に向かいます。
 道は一旦下り、やがて上りになります。とくに記するようなもののない、鄙びた光景ですが、まったく知らなかった土地を歩くと、特別なもののないところでも、なんとなく心がわくわくします。

 緩い上り坂を上り詰めると、最初に横断してきた千葉県道57号線に出ます。道は右にカーブしながら下っています。いつもはどうなのか、さほど交通量はありません。

 しばらく歩くと、左手に神社らしき玉垣が見えたので、寄ってみることにしました。



 八王子神社でした。
 普段は神社があっても寄ってみることは少ないのですが、この日は次の西光寺に参拝したら帰る、と決めていたので、寄って行くことにしました。



 主祭神は日本武尊。社伝によれば、創建は平安時代初期の大同二年(807年)。



 八王子神社から下り坂を四分歩いて、西光寺に着きました。
 真言宗豊山派のお寺です。木の扉で閉ざされて、中を窺うことはできませんが、こちらの本尊は薬師如来です。
 この薬師如来は鎌倉時代の寛喜二年(1230年)の作とされていますが、寺の由来は知られていません。



 本堂左にあった阿弥陀堂。

「西」とは阿弥陀さまを表わす方角です。その「西」をいただく西光寺の本尊が阿弥陀如来ではなく、薬師如来で、別に阿弥陀堂がある。

 先に訪れた東光寺の「東光」とは東方瑠璃光(薬師)如来の略ですから、お薬師さまを本尊と祀っているのが普通であるはずなのに、阿弥陀様を本尊といただいて、ただし、ちゃんと薬師堂もありました。
 今日は八王子神社に寄り道をしたので、何分か余分にかかっていますが、東光寺と西光寺の間は距離にして800メートル足らず、歩いて十分もかかりません。
 天台宗と真言宗と宗派は異なっていても、距離が近く、寺号と本尊の食い違い方が妙に合致している。
 出先ではこの不思議を解く手立てがないので、宿題として持ち帰りますが、西光寺のお参りを終えて、今日の予定は終了です。


 持参の地図に目を落とすと、西光寺横にある小径がクネクネと曲がりながらも、行きに通ってきたバス通りに繋がっているようです。きた径をそのまま戻るのも芸がないと思えたので、クネクネ小径を歩くことにしました。



 空を見上げると、西の空こそ黒雲に覆われていましたが……。



 東に目を転ずると、陽射しはないものの、青空が見えていて、当分雨の降る気配はないようでした。
 昨年の初藥師は浅草寺の橋本薬師堂と西浅草の東光院にお参りしましたが、曇のち雨という、今日と同じような天候でした。その日、雨が降り出したのは午後二時半ごろ。私はすでに庵に帰り着いていました。
 今日はどうだろうか、と思いながらクネクネ小径を歩き始めます。



 歩き始めてしばらくすると、簡易舗装の径は切れて、砂利道になりました。
 出かける前、私が慶林寺に参拝していたころ、こちらでは多少の雨が降ったものか、こんな泥濘の径に出くわしてしまいました。



 さらに進めば、草叢から猪でも飛び出してきそうな雰囲気になりました。
 ただ、物騒に思えたのはここまで。画像にある右へのカーブを曲がると、林が途切れて、くるときにバスで通ってきた古和釜高校の裏手に出ます。表に廻れば、降りた古和釜十字路の一つ手前のバス停・古和釜高校前でバスに乗れるはずです。



 ところが、古和釜高校前に出る径はなく、さらに一つ先の刈米バス停に出ました。



 やってきたバスは、行きに降りた北習志野より一駅松戸寄りの高根木戸を通る便でした。 

 2011年の一月八日から始めた薬師詣では八年目を迎えました。「7年×12回+2回」で、去年までの薬師詣では通算八十六回。「+2」というのは、八日以外に十二日(この日も薬師如来の縁日です)にも薬師詣でに出かけた月が二度あるからです。
 これだけ数を重ねると、雨に祟られるときが出てきても不思議ではありませんが、お寺を巡っている間に雨に遭ったというケースはほんの数度しかありません。 

 この日も刈込停留所でバスに乗った直後に小雨が降り出しました。高根木戸駅前でバスを降りて、駅に駆け込むまで、ほんの少し雨に打たれただけです。
 フード付きのコートを着ていたので、電車に乗ってから、風でフードが飛ばされないよう調節をしました。
 しかし、電車を乗り継いで北小金に帰ってきてみると、路面がわずかに濡れているだけで、雨は降っていませんでした。

 気のせいか、薬師詣でをするときは、少しだけ佳きことがあります。

この日、歩いたところ。北習志野駅から古和釜十字路バス停、刈込バス停から高根木戸駅はバスを利用。



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