細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(30) 「日本橋の首都高速道路は本当に「負の遺産」なのか」 松田 大生(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:33:06 | 教育のこと

「日本橋の首都高速道路は本当に「負の遺産」なのか」 松田 大生

 数年前から東京の日本橋において進んでいるある事業がある。それは首都高速道路都心環状線を地下化するプロジェクトである。この事業は首都高速道路の開通から40年以上が経過し、劣化したインフラの更新工事の一つであると言われればそれまでである。だが、私はこの首都高速道路の地下化には、なにか特別な意義があるように感じる。この工事の意義そして賛否両論であるこの事業について、この事業や日本橋について調べながら考察してみる。

 首都高速道路の日本橋近辺地下化事業は、1963年に開通した首都高速道路都心環状線の区間の設備の老朽化損傷の対策、更新をするために始まった。開通から40年以上が経過し、一日約10万台以上の車が通過するこの区間においてどのように更新工事が行われるかということが問題となった。当初は現在の高架橋の道床のコンクリート床から鋼床版へと設備を更新する、というものだった。だが2016年に日本橋周辺が国家戦略特区の「都市再生プロジェクト」に追加され、周辺のまちづくりと伴い地下化を図ることとなった。道路敷地の上下空間に建物の建設を可能とする立体道路制度を活用することで首都高速道路を地下へ移動し高架橋を撤去、そして日本橋周辺に空を取り戻し景観・環境の改善を図るというものへと変革していった。

 また、この区間の首都高速道路の歴史としては、1950年後半から日本は高度経済成長を迎え、交通渋滞が慢性化していた。このペースで自動車が増えていくと都内の道路交通が完全に麻痺してしまうという状況を改善するために、都心部の街路機能を補完する「連続した立体交差道路」として計画された。またこの区間を含む約32kmがオリンピック関連道路として優先的に整備された。その中で日本橋周辺では日本橋川の水を抜き河床に高速道路を通す予定であったが防災の観点から高架に変更され、1963年に川の上を高架で結ぶ形で開通している。

 さて、この事業が進む上で「高度経済成長の『負の遺産』である首都高速道路」を地下化して日本橋に青空を取り戻そう、などという意見が見られる。また、小池百合子東京都知事も記者会見で「首都高が日本橋の上空を走るのは歴史と文化を無視して利便性だけを追求してきた結果であり、『これまでのインフラの悪しきモデル』である」とバッサリと切り捨てた。だが首都高速道路は実際に負の遺産であるのだろうか。また、これまでの歴史と文化を無視したものであるのだろうか。私個人の感想、意見としては否である。その理由としては、日本橋が過去においても交通の要所であったことである。

 まず、過去も今も日本橋は交通の要所である。江戸時代から日本橋は東海道の起点として、江戸の町人文化を支える街として栄え、多くの人通りがあり、数え切れないほどの人や物が行き交った。そして日本橋川が水上交通の要所として栄えた。そして現在は首都高速道路の路線の中でも重要な路線の一つ、都心環状線が通り、そして鉄道はJR総武快速線(新日本橋)の他、東京メトロ銀座線や東西線、半蔵門線に都営浅草線といった多くの地下鉄が日本橋の地下を走る。これらを考慮して日本橋に首都高速道路が走っていることは日本橋の歴史を無視した結果なのであろうか。インターネット上に地下に首都高速道路を移し再開発を進めたあとのイメージが公開されており、そのイメージを見た私は、「どこにでもありそうな心地よい再開発された水辺空間」という印象を抱いてしまった。また、そのイメージにはもはや「交通の要所」という日本橋の江戸時代から続いてきたアイデンティティは消え失せていた。果たしてそのような再開発が日本橋の歴史と文化を重視しているものなのであろうか。

 また、景観として何が美しいか、ということは時代によって移り変わっているということは念頭に置かなければならないと私は考える。「空を見上げても首都高速道路の高架しか見えず景観も何もあったものではない」「首都高速道路の存在によって景観が破壊されている」といった意見を否定するわけではないし、またそういう意見があることは十分承知であり、また、これらの意見が間違っているというわけでもない。だが、首都高速道路の建設当時はビルの合間や川の上などを高架で走る高速道路は都市的、近未来的であるという評価も聞かれたらしい。外国の事例であるが、1870年にエッフェル塔がパリに建設されたときにはこんな建物はパリに似つかわしくないという意見も多く聞かれたといわれている。だが、現在のパリでそんなことをいう人は皆無に等しいであろう。日本橋の首都高速道路の高架は撤去されてしまうことが確定してしまったが、将来はビルの中に首都高速道路の高架が入り組んでいる光景を、これこそが東京である、という感覚で受け入れられることを私は願ってやまない。そして最後に、日本橋近辺の再開発事業が、無事に完成するよう、そして交通の要所日本橋のアイデンティティをできるだけ失われないように再開発されるよう心から願いたい。


学生による論文(29) 「土木で魅了する」 本田 玲美(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:31:32 | 教育のこと

「土木で魅了する」 本田 玲美

 土木の構造物は道路とかトンネルとか橋とか、無機質で冷たく地味なイメージが世に行き渡っていると思う。対して建築は家や図書館など、人々が集まり団欒していて暖かいイメージなのかもしれない。私は土木が冷たいとは思っておらず、むしろ壮大で数え切れないほど多くの人々の命を背負っている熱いものものとして捉えている。

 今回の授業は橋梁についてだったが、世界の偉大な橋梁を見て、改めて先人たちの功績が感じられた。冒頭に出てきたポン・デュ・ガールは、紀元1世紀の古代ローマ帝国時代の建設されたアーチの水道橋で、世界遺産に登録されている。約2000年前にできてから600年以上にわたって水を運び、今でもその雄大な姿を誇っているのは素晴らしいことだ。古代ローマの土木技術は創造より進んでいて、古代ローマ三大インフラ事業として水道、舗装道路、排水溝の建設が知られている。「テルマエ・ロマエ」の大浴場で知られるように、古代ローマ人が豊富な水を使っていたのは、まぎれもなく水道整備が充実していたからだ。ローマ水道は最大100万人の人口を支えることになり、まさに大きなストック効果が表れていた。

 話が変わるが、私は横浜国立大学都市基盤学科に入学する前、1年間法政大学に在籍していた。そこは横国の都市基盤学科よりももう少し建築やデザインに傾いていて、デザインスタジで都市の公園のデザインを模型でプレゼンしたりしていた。その頃はちょうどコロナ禍のステイホームが叫ばれていて、ほとんどキャンパスに行かずに自宅でひたすら講義を視聴し、一人で図学や模型製作をする毎日だった。講義はどれも面白かったが、特に印象に残っている「デザイン文化論」という建築学科の学生とともに受けていた授業がある。授業の割とメインに置かれていたのが、ルネサンス期の天才レオナルド・ダ・ヴィンチだ。モナ・リザで知られるように美術家としてはもちろん、多岐にわたる分野で技術者として活躍した。ちなみに法政大学の当学部では少し前までスローガンのようなものがあり、「現代のダ・ヴィンチを目指す」という言葉であった。

 レオナルドは人間と自然とのつながりというテーマを彼の大きな柱としていたという。画家として絵画を幼いころから描いていたが、美術以外にも様々な分野に秀でている人物であった。そうした好奇心の源は「アナロギア」、類似という意味の言葉に集約される。彼は自然界を観察していく過程で人体と植物、建築物と宇宙など、あらゆるものの間にアナロギアを見出すことに夢中になっていたという。観察して、人間との関連を見つけて、さらにデザインへ移るという考え方をしていたというのだ。レオナルドの絵画の能力はもちろん、自然科学へのたゆまぬ追求、行動力に驚かされる。

 また、ルネサンスの特徴でもあるが彼は古代ローマの建築や橋に非常に興味を持ち、デッサンしては自身の芸術や自然科学の研究に応用していたという。余談だが、彼は通称「ダ・ヴィンチの橋」と呼ばれる釘や接着剤を使わずに摩擦力で支えられる構造を考案しており、実際にオスマン帝国の土木工事計画において200m間の橋を設計している。そんな万能の天才であるレオナルドが惹かれるものというのは、それだけの魅力があるということだと思う。知識に長けていたから建物や橋の外見だけで美しいと感じただけはなく、その構造物の役割や価値を理解していたのだろう。今回の土木史と文明の授業で内藤廣氏の「技術の翻訳」という言葉が登場したが、私はこの言葉を技術の価値や意味を専門以外の人も認識させることだと考えた。レオナルドはまさに土木の分野を超えて土木技術のアイディアを翻訳し、自分で活用していたということなのだと思う。ただ、彼のように自己完結できるのは稀なことで、普通の人にはこちらから技術の良さを伝えるアプローチをすべきである。

 私たち土木の人間は熱いパッションと誇れる技術、価値をもっと発信して、多くの人々を魅了することが、達成すべき任務一つだと思う。そうすれば日本人の意識が少しずつ変わり、土木の重要性を広く周知できるはずだ。魅力を発信するには、まずその対象、つまり相手を知らなければならない。相手は多種多様でそれぞれの得意分野があるのは当然だから、私たちが知見を広げていくことが望ましい。レオナルドが土木の良さを感じとってくれたとするならば、こちらも彼のように他分野にも首を突っ込んで逆のことをすれば良いのではないだろうか。つまり、法政大学の言葉を借りれば「現代のダ・ヴィンチを目指す」、そして土木で人々を魅了していくのだ。

参考文献
古代ローマライブラリー 「古代ローマの上水道―構造から水道橋の建設方法、コンテストまであった水質管理まで―」
https://anc-rome.info/waterworks/


学生による論文(28) 「橋梁による「立体交差」の計り知れない恩恵」 堀 雅也(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:29:56 | 教育のこと

「橋梁による「立体交差」の計り知れない恩恵」 堀 雅也

 橋梁の役割は、様々な「道」を立体交差させることである。無論道路に限らず、鉄道や河川などの立体交差についても、大半が橋梁によって実現されている。一般に橋梁と言えば、河川を越すために掛けるもの、特に長大なものが想起されるが、現代においては道ごとに階層を分けることでそれぞれの通行を簡便にする、立体交差のために使われているものがとても多い。特に高架橋の活用は、都市部における道路の利便性を格段に向上させており、現在も様々な箇所で高架化工事が行われている。以下に、具体的にどのような恩恵があるかを整理する。

 まず、道路立体交差(道路同士の交差)においては、最も支障を減らしたジャンクション型(信号が存在しない)、直進交通は支障を受けないアンダーパスとオーバーパスの組み合わせ、一方の道路の直進交通が支障を受けないアンダー・オーバーパスの3パターンに大別できる。

 ジャンクション型は、用地を多く必要とするデメリットを持ちつつも全ての交通を信号で止める必要が無く、豊田JCTや平和島ランプ直下(平和島公園東側)の交差点で採用されている。これらはいずれも用地取得が行いやすい場所であり、デメリットが無視できるために採用されたと考察出来る。高速道路のジャンクションとしては、日本においては比較的メジャーな形態ではあるが、平和島ランプ下の交差点に採用されている理由としては、いずれも倉庫街を結ぶ故に平日は非常に混雑する都道318号(環状七号)線と都道316号線の交差点であるために、西側の平和島交差点や東側の環七大井ふ頭交差点まで列を伸ばさないための策と考えられる。また、日本初の道路立体交差である松原橋交差点は、環状七号側にのみ信号のあるジャンクション型であるが、都市計画上は完全なジャンクションにする予定である。

 オーバーパスとアンダーパスが併用されている形態は、用地をほとんど増やさずに直進交通を流すことが出来、関東では美女木JCTが代表的と言える。但しこの構造には右左折車が信号の支障を受けるデメリットもある。

 オーバーパス・アンダーパスのみを擁した交差点は取り上げるまでもないほど多く存在しており、こちらも松原橋と同じく信号の支障を受けない方が主となって構成されている。大学近くでは三ッ沢西町の交差点がこれに該当し、車通りの多い新横浜通りを主として構成されている。メリットとしては費用が抑えられる点が挙げられ、また従となる道路の信号を長く取れるため、副次的に従となる道路の混雑も緩和する事が期待できる。
 
 次に、道路と鉄道の立体交差を挙げる。これは踏切を解消して道路側の交通をスムーズにする他にも、踏切の解消によって事故の減少、維持コストの減少が見込まれる。基本的には道路を上に振ってオーバーパスを形成するが、日照権の問題などによりアンダーパスを形成したり、交差道路が多い場合には鉄道を高架化・地下化したりする例も多い。

 今回は道路についてのみ述べたが、鉄道同士の立体交差かつ道路とも立体交差する京急蒲田、全て高架上で立体交差を繰り返す宇多津など鉄道においても立体交差は重宝され、大抵の場合道路立体交差より大がかりな橋梁が使われている。そして上記すべての工事によって減らされる事故、減らされる渋滞、それによる環境改善、時間短縮、輸送力の増強などは全て「時間で積分出来る(=使えば使うほど積み重なっていく)」ストック効果であり、日々身近なところで一般人も恩恵を受けることが出来ているのは非常に喜ばしいことである。

参考
・大田区 まちマップおおた https://www2.wagmap.jp/ota/Portal 最終閲覧日:2022年10月21日


学生による論文(27) 「橋梁の社会における役割・効果」 藤田 光(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:28:16 | 教育のこと

「橋梁の社会における役割・効果」 藤田 光

 今回は橋梁の発達についての授業であった。

 僕は、橋は以下の2点で特に重要な意味(役割・効果)を持っていると考える。

 1点目は、川や海に橋が架けられることにより、今まで海上交通を用いて渡るか別の橋に迂回して渡らなければいけなかったことが解消し、大量の人や物流が高速に通行できることが可能になることで、様々な人や物流の移動時間の短縮や安全な交通移動、物流の増加や安定に中長期的に繋がるというストック効果の観点からのメリットがある。具体例として本州四国連絡橋を取り上げる。参考文献*1も参考にして以下記す。本州四国連絡橋は、昭和63年(1998年)に開通した神戸・鳴門ルート(明石海峡大橋・大鳴門橋)、昭和53年(1988年)に開通した児島・坂出ルート(瀬戸大橋)、平成11年(1999年)に開通した尾道・今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)からなる。本州四国連絡橋の開通により、本州と四国間の自動車交通量が役3.4倍、自動車貨物流動量が約2.5倍と大幅に増加した。また、本州四国連絡橋の経済効果は全国に及び、平成30年(2018年)の効果額は約2.4兆円、このうち四国地方の効果額は約0.9兆円であり、四国地方の総生産の約6%も占めている。加えて、瀬戸中央自動車道が開通した昭和63年(1998年)から平成30年(2018年)までの累計では全国の効果額は約41兆円となっている。また、昭和63年(1998年)には1日平均26往復便数しか本州・四国間の高速バスが運行されていなかったが、平成29年(2017年)には平均375往復便数の高速バスが運行されている。以上のように、物流におけるかなりの経済効果、輸送力の向上を橋はもたらしている。上記のことに関連して、地域の産業の発達にもかなり貢献していると考える。具体的には、本州四国連絡橋が開通することにより本州と四国の間の物流が増加し、より多くの大型トラックが本州と四国を行き来することになった。そして、徳島県にはLED産業がより集積し、平成21年から28年の推移では出荷額が1.9倍になり、平成28年の全国シェアでは約64%を占めている。また、愛媛県の今治タオルのシェアが拡大した。さらに、真鯛が高い鮮度で大都市の市場へも出荷されるようにもなった。加えて、高速道路ネットワークの拡充により、流通形態が確率されたことから、四国にコンビニが展開するようになった。上記に記したことから、本州四国連絡橋は地域の産業の発達にも貢献したと言える。

 2点目は、橋が街のシンボルとして果たす役割である。橋は人間のデザイン等の創造的才能を表す傑作でもある。今回の授業では猿橋を触れて下さったが、かなり立派な橋であると私自身も思っている。猿橋は、羽木橋あるいは肘木橋と呼ばれる張り出し桁構造で作られており、木製で作られている橋である。木製で作られた橋であることから、周囲の景観や日本の古来の雰囲気ともかなりマッチしており、個人的にはかなり綺麗だなと改めて実感させられた。これも1226年以前から使用されていたことから、日本古来の土木技術のすごさを改めて実感させられた。また、今回の授業では、ローマの時代から橋は架けられており、それが現在でも使われていることを学んだ。そのことから、その時から架けられた橋はかなりのストック効果を発揮しているが、それ以外にも昔からの人々のデザインや技術のすごさを改めて実感することができた。具体的には、今回の授業で紹介していただいたポン・デュ・ガールを例に挙げ、参考文献*2、*3も参考に以下述べる。ポン・デュ・ガールはフランス南部・ガール県のガルドン川に架かる水道橋であり、50kmも離れた水源地のユゼスから当時ネマウススと呼ばれたニームの町まで水を引いていた水路の一部であり、6世紀頃までは実際に使われていた水道橋である。この水路は水源地から街までの高低差は17mほどしかなく、1kmあたり34cmという微妙な勾配をつけて水が流れるよう設計しなければならなかったため、そこで建設されたのが、16階建てのビルに匹敵する高さ49mのポン・デュ・ガールである。ポン・デュ・ガールは二千年近く前に作られたが、長い風雪に耐え、いまだに構造的な問題が生じていない。主体構造を石、煉瓦、コンクリートブロック等の塊状の材料を積み上げて作った構造である組積造で作られている。そのことから、この2000年前においてもこのような技術があったことに驚き、ローマの偉人のすごさを再認識した。また、ポン・デュ・ガールは自然に調和しつつ景観に配慮された橋であると思っている。さらに、幾何学的で美しい山荘のアーチはローマの平和の特徴になっており、人々から愛され続けている。そのことから、現在は世界遺産にも登録されている。そして、それが現在観光でも広く用いられているため、橋は綺麗だと観光にも繋がるということも実感することができた。

 以上のことから、橋には様々なすさまじい役割・効果があり、それを担っていることを今回の授業を受け、その後考えることで改めて実感することができた。今後、そのことをしっかりと頭に入れた上で勉強や研究、土木技術者になった後の仕事を行っていきたいと思った。加えて、今後も様々な橋を見て回り、どのような橋が人々にとって映りが良いのかについても様々な文献も読みつつ考えていきたいと思った。

 今回の授業では明石海峡大橋が誇っていた世界最大の中央支間長が1915チャナッカレ橋に抜かれてしまったことも改めて学んだ。細田先生もおっしゃっていたが、日本は社会インフラにより投資をすべきだと私も考える。また、私自身も将来、社会インフラを担う人材として、人々に愛されるような社会インフラを作れるように、今後も一生懸命土木を学ばなければならない、と改めて実感させられた。

〈参考文献〉
*1.本四架橋開通による経済効果 環瀬戸内海地域交流促進協議会(2022年10月22日閲覧)
https://www.skr.mlit.go.jp/pres/h31backnum/i1695/190415-4.pdf
*2.『構造デザイン講義』
*3. ポン・デュ・ガール 2000年前の水道橋は ローマ人の英知の結晶 世界遺産(2022年10月22日閲覧)
https://www.hankyu-travel.com/heritage/france/pontdugard.php


学生による論文(26) 「長大橋が持つのはストック効果だけではない」 中村 亮介(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:27:06 | 教育のこと

「長大橋が持つのはストック効果だけではない」 中村 亮介

 2022年3月18日、トルコ西部のダーダネルス海峡を結ぶ吊り橋である「1915チャナッカレ大橋」が開通した。吊り橋の中央支柱間の長さは2023mとそれまで世界一であった明石海峡大橋を抜き、世界最長の吊り橋となった。橋の名前につく1915とは、第一次世界大戦中のガリポリの戦いで、オスマン帝国軍がイギリスを始めとする連合国軍を打ち負かした1915年3月18日が由来であり、開通式が行われた2022年3月18日は107年目の戦勝記念日であった。また、開通式には大統領であるエルドアン大統領が出席するなど、トルコがこの橋を非常に重要視していることが伺える。実際、この橋の開通により以前はフェリーで約1時間30分かかっていた所が約6分で渡れるようになり、人々や物流の往来がスムーズになることで、経済活動も活発になることが見込まれ、大きなストック効果を発揮すると思われる。この橋の建設には日本、韓国、中国、イタリアの建設会社が入札し4社の競合となったが最終的には韓国の企業が受注競争を勝ち抜き、当初の計画であった2023年の開通が一年前倒しとなった。これは、韓国側が韓国―トルコ修好65周年となる2022年に合わせて開通したかった意向が反映されたと考えられる。韓国側も開通式には首相の金富謙が出席するなど、韓国とトルコの友好関係を大きくアピールした形となった。この橋は日本と韓国の建設業者によって繰り広げられているメガプロジェクト戦いの最新版であり、日本もボスポラス海峡に第2ボスポラス橋や鉄道用の海底トンネルを建設するなど、両国共にヨーロッパとアジアに領土を持つトルコに将来性があると見込んでいることが伺える。ここまで、「1915チャナッカレ大橋」について紹介したが、このような長大な橋が国家にどのような影響を持つのか考察していきたいと思う。もちろん、先程述べたように橋が完成することで人々や物流の移動がスムーズになり国の発展に貢献するストック効果があるのは当然であるが、このような長い橋は国内のみならず世界中の注目を集めることができ、自国をアピールすることができる絶好の機会と言えるだろう。また、今回のように外国の建設会社と共同で建設することで相手国にとっても自国の技術力をアピールすることができるまたとない機会と言えよう。今回トルコと韓国が自国のアピールに成功した一方、吊り橋の長さで世界一を奪われ、かつ橋の建設の受注競争に負けた日本ははっきり言って屈辱以外の何者でもないのではないだろうか。ただ、私は今の日本は自国のインフラの整備でさえも遅れている状態であるため、外国のインフラ建設の受注の競争で負けても不思議ではないと考えている。この例のように、日本の国際的地位が低下し続けているのは明らかであり、正直言って今から再び返り咲くのはかなり厳しいと言わざるを得ないと思われるが、私は日本が未だ他国と比べて優れている点があると考えている。それは、耐震性である。例えば、明石海峡大橋は建設中に阪神・淡路大震災が発生したが、橋に大きな被害は起きなかった。東北地方では東日本大震災以降地震が頻発しているが、東北新幹線は少しの地震では構造物が壊れることはまずない。このような耐震性の技術力は地震大国である日本が他国と比べて絶対的に勝っているものであり、この技術力だけは死守しなければならないと考えている。実際に、この耐震性の技術力を売りに受注競争に勝利した例もあり、それは台湾高速鉄道建設の時である。当時、台湾は欧州の高速鉄道システムを採用する予定であったが、台湾で巨大地震が発生し、大きな被害が出たことから地震に対する対策を備えた日本の高速鉄道システムを採用することになったという経緯がある。今回の「1915チャナッカレ大橋」があるトルコも地震大国であり、韓国が持つ耐震性の技術力がどれほどあるのかは知らないが、技術力で勝る日本は耐震性を全面的に押し出していけば受注競争に打ち勝てることが出来たのでないかと考えている。まとめると、長大な橋は自国をアピールする絶好の機会であり、今回の例で日本は屈辱的な結果を被ったが、それは日本がインフラを軽視し続けたツケと言える。また、現状日本が他国と比べて勝っている技術力は耐震性であり、この技術力を国内外に積極的にアピールしていかなければならないと考えている。


学生による論文(25) 『先人が築いてきた技術、私たちが築いていく技術』 中嶋 駿介(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:25:27 | 教育のこと

『先人が築いてきた技術、私たちが築いていく技術』 中嶋 駿介

 河川を、谷を、既存交通を、様々な障害を越えるために橋梁は建設されてきた。先人が築いてきた技術は橋梁の施工段階のみならず、供用段階にも及ぶ。今回は、施工して終わりではない橋梁の特徴に着目し、安全に橋梁を使用するために先人が築いてきた技術に着目する。そして、これからの私たちがどのように橋梁をはじめとするインフラを扱っていくべきなのかを導く。

 橋梁は施工して終わりではない。供用時にも絶えず襲い掛かる様々な障害。橋梁に特徴的なものとして「風」との戦いが挙げられる。2005年に発生した列車事故は、人類が「風」と戦い克服した例である。2005年12月25日19時14分頃、JR東日本の羽越本線砂越~北余目間を走行していた特急いなほ14号は、第二最上川橋梁を通過し終えたところで脱線した。この特急は6両編成であったが、すべての車両が脱線し前3両は横転した。この事故により、乗客5名が死亡、乗客30名と乗務員2名の32名が重軽傷を負った。年末に発生したこの事故は、その社会的な影響の大きさから社会の関心を強く集めることとなった。

 事故発生直後には運転手の過失に起因する人災だとする意見もあったが、詳細な調査により原因は突風であったことが分かった。現場の周囲約12kmに渡って農業作業小屋や道路わきの防雪板が吹き飛ばされていたことなどから導き出された結論だった。

 この事故を契機に、我々人類の「風」特に突風に対する知見は飛躍的に高まることとなった。突風による事故を防止するためには、いつどこで突風が発生するのかを把握する必要があった。とはいえ、突風は通常の強風とは違い極めて短い時間で局所的に発生する。このような突風を予測することは極めて難しい。不可能だと思われた。しかし、先人は違った。技術でこの困難に打ち勝ったのである。ドップラーレーダー(ドップラー現象を利用した観測装置)を用いて上空の雨粒の動きを観測し、突風の原因となる渦を観測することに成功した。さらに、気象庁のレーダーが観測した雨量や竜巻発生確率などの気象情報から発達した積乱雲を捉えることで突風の発生確率を推定することにも成功した。先人が生み出したこのような技術はその後も改良が重ねられ、2017年に実用化されている。これはまさに、私が前回の論文にて述べた新技術の社会実装に成功した例である。そして現在でもAIを活用し、探知精度の向上を目指して技術開発が続けられているという。

 この事故で得られた知見から、JRでは数多くの安全対策が取られた。風があまりにも強い際には正確なデータが得られなかった従来の風速計を改良し、増設した。強風が予測される線区には防風柵を設置し、突風対策を強化した。身近なところだと、JR京葉線がまさにこれである。このようなハード面での対策のみならず、ソフト面での対策も取られた。それまで最大瞬間風速30m/s以上で運転見合わせとしていた運転規制基準は、この事故以降最大瞬間風速25m/s以上で運転見合わせへと見直されたのだ。

 ここまで見てきたように、先人は事故を契機として「風」に対する研究を飛躍的に進歩させ、それを社会実装することで橋梁の安全性を高めてきた。思い返せば、1940年にアメリカ合衆国で発生したタコマナローズ橋の崩落事故も「風」が原因であった。この事故を契機に先人は研究を進歩させ、危険な共振現象に関係するカルマン渦の存在を発見するに至った。歴史的に、橋梁に関する安全性は事故を契機に高められ、そのたびに先人は社会に新しい技術を提供してきたのである。

 しかし、これからの安全対策は事故を契機とする従来の踏襲で良いのだろうか。橋梁をはじめとするインフラは、一度事故が起こると社会に重大な影響をもたらす。社会への責任をもつインフラにおいて、事故が起きてからでは遅いと私は考える。まして、今の日本は高度経済成長期に建設された数多くのインフラによって支えられている。これらのインフラの寿命が迫る中、甚大な事故が起きてからの対策では社会への責任を果たせるとは思えない。

 先人の努力と知恵が重層的に蓄積し、現在の社会が作られている。そうであれば、現在を生きる我々も後世に何かを残すべきではないだろうか。その「何か」の一例として、私は事故が起きる前の対策、事前対策の考え方を普及させることを提唱したい。これは橋梁に限った話ではない。トンネル、ライフライン、ダム、道路といったインフラはすべて社会に重大な責任を持っている。このような責任を果たすために、事故が起きる前から対策を講じる必要があるのだ。事前対策も一種の技術開発だ。技術開発は社会に実装されて初めて効力を発揮することは、私がこれまでの論文で述べてきたとおりだ。事前対策という技術を社会に実装するためには、今あるインフラが抱えるリスクを適切に把握するところから始める必要がある。発見されたリスクが顕在したときに社会に与える影響の重大さを参考に優先順位をもって賢く迅速に対策を施していくことが、今を生きる我々に求められているのではないだろうか。

参考文献
東日本旅客鉄道株式会社, “JR東日本グループレポート2022”, p33-p47, https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2022/all.pdf, (2022年10月21日閲覧)


学生による論文(24) 「日本の技術力は低下しているのか」 久保 智裕(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:23:53 | 教育のこと

「日本の技術力は低下しているのか」 久保 智裕

 今回の講義のテーマは「橋梁」であったが、言うまでもなく橋梁は私たちにとってとても身近な存在であり生活を支える大きな役割を果たしているだろう。この講義をはじめとした都市基盤学科の講義で何度も話題になる「ストック効果」の主たる例だといえるだろう。日本には数多くの橋梁があるが、それらは目的などによってもさまざまな構造や役割に分けられる。道路、鉄道、水路など何を橋で渡すのか、そして河川や渓谷、他の道路や鉄道など何をを横断するために建設されるのか、など橋によって様々である。目的や構造など橋には一つとして同じものはないと私は思っているし、だからこそ橋を見るのはとても面白いと感じている。

 さて、日本には数えきれないほどの橋梁があるが、その発展を支えたものはなにか。それはまさに日本の土木技術である。日本の技術が高いからこそ、日本のインフラがここまで出来上がったといえる。前回の論文で書いたように今の日本人が豊かに暮らせる「ストック」を作ったのは、先人たちの努力=日本の技術力であるのは言うまでもない。今以上にさらに生活が豊かになるよう、高い技術を用いてさまざまなインフラの建設も進んでいる。ただ今回の講義では、先生より日本の技術力は低下しているということが紹介された。私はこれには一部同意できなかった。私自身日本の技術力は世界の中でも有数なものであり、まだまだ世界をリードしていると信じている。また他国の技術進化のスピードより日本の技術進化は遅いものの過去の技術力は維持しているため、私は技術が低下したとは思っていない。

 私が日本の技術力が低下していないとに感じる最大の理由は、技術力が具体的な量だけで測れるものではなく質も含めて評価すると今でも高い技術を持つといえるからだ。講義では明石海峡大橋が世界最長ではなくなったことに触れながら、日本が世界に抜かされているというお話があった。私は橋の支間長だけが技術力の象徴だとは思わない。もちろん長い支間長の橋を作るには高い技術力が必要であるのは間違いないが、支間長の大きな橋を造ることだけが技術力を判断する指標になるとはいえないだろう。現場やニーズに合わせた橋を設計したり安全性や美しさなどの質の高い橋を作ったりすること、これこそが高い技術力を持っていることを判断する指標に相応しいと思う。私自身で調べてみた結果分からなかったためあくまでも想像での話にはなるが、日本が明石海峡大橋を超えるようなスパンの大きな橋を作っていないのも技術力がないからではなく、そのような長スパンの橋が計画されていない、もしくは必要とされていないという面もあるのではないだろうか。様々な構造や工法の中から本当に優先すべきものを適切に選んで質がいいものを作ること、これこそが「真の技術力」であると私は強く信じている。

 私は入学以降、都市基盤学科が主催する現場見学会に幾度も参加している。先日開催された見学会ではとても心に残ったことがあったのでここで書かせていただく。その見学会では新名神高速道路の「淀川橋」の現場を見学したが、その近くでは雅楽で使用されるヨシが採取される「鵜殿ヨシ原」があった。その現場ではとても丁寧な調査や工事の検討がしっかりと行われるなど、ヨシの生育環境の保護を行いながら私たちの生活をより豊かにする高速道路建設の両立を図ろうとしていた。鵜殿ヨシ原を阻害しないよう支間長の長い「エクストラドーズド橋」を採用したり時期を工夫して工事を行ったりなど、地域に密接したヨシを守りつつも高速道路の建設を両立するために様々な工夫を行なっている姿に私は感銘を受けた。このような姿こそが日本の技術の高さを示していると思う。

 これから先もさまざまなものが建設され続けるであろうが、ぜひ他国に負けないよう技術を磨きつつ日本にしかできないような「質の高さ」も大切にしていくことを願っている。そして「真の技術力」で世界をリードできる、そんな国に日本がなってほしいと強く願う。私も将来関わることになるであろうが土木業界にそんな期待をしつつ、注視していきたいと思う。


学生による論文(23) 「橋のデザインが重視される理由について」 木崎 拓実(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:22:31 | 教育のこと

「橋のデザインが重視される理由について」 木崎 拓実

 インフラツーリズムという言葉がある。その意味はインフラ、つまりダムや橋などの生活基盤施設を観光することだ。その中でも、橋は他のインフラにはないデザイン性があり、その美しさから特に人気があるようである。この橋のデザイン性は、最近建設されたものだけでなく、歴史的な橋にもみられる。たとえば、日本の橋の高欄についている擬宝珠やイタリアのリアトル橋など挙げられる。しかし、本来川を通行するための橋であるのに、なぜデザイン性を重視してきたのだろうか。このことについて、私の考えた3つの理由を述べていこうと思う。

 まず、一つ目の理由として、橋は多くの人が集まる場所であり、目に触れやすいことがある。遮蔽物が少ない川や谷に建てられることが多い橋は、その巨大さも相まって注目を集めやすい。そのため、周囲の景観に調和したデザインが求められる。また、橋の両端は橋詰広場が作られることも多く、人が滞留する場所としても利用されることもある。このような理由から、橋は多くの人の目に留まりやすい構造物だといえ、設計者が橋のデザインに気を遣うようになった可能性がある。

 二つ目の理由は、橋が宗教施設の一部として考えられていたことである。上に挙げた擬宝珠も寺社仏閣にある橋でよく見られ、五重塔などにつけられる宝珠と形も似ている。また、中世ヨーロッパでは、建設に聖職者がたずさわった例も多く、十字架があしらわれた橋や教会と一体化した橋も存在した。このようなことから、キリスト教の教会や寺院などにみられる装飾が橋にも施されるようになり、そのことが、宗教関係者以外が建設した橋のデザインにも影響を及ぼしたと考えられる。

 三つ目は、為政者が自らの権威を示すために派手な橋を建設させたことである。橋は建設に多大な費用や時間がかかるうえ、建設に失敗することも多かった。そのため、橋の建設は一大事業といえ、為政者の関心は高かった。かの源頼朝も橋の竣工を視察しに行った際に亡くなったという説がある。このことから、将軍自ら視察しに行く重大な事業であったことがうかがえる。それほど重要な建造物なのであれば、将軍が橋の見た目に注意を向けるようになってもおかしくはない。また、為政者の居住地であり軍事施設でもある城郭には堀が付随することが多く、当然橋も必要とされる。城郭は権威を示すため豪華なものが多く、その豪華さと調和するように橋も装飾が施されるようになったと考えられる。

 以上のように、橋のデザイン性が他のインフラに比べ優れている理由として、衆目を集めること、宗教関係者が橋に関わっていたこと、為政者が権威を示すことの3つの可能性について述べてきた。ここまで記述してきて、考えたことがある。それは、一つ目の理由以外は、現代の橋の設計には関係があまりないことである。そうなると、求められる橋のデザインも変化してきたはずであるし、これからも変化し続けるものだと思われる。そのため、橋を見るときに、橋の建設当時に何を目的としてデザインしたのかを考えながら眺めるのも面白いだろう。


学生による論文(22) 「無知な国民にならないために」 粕谷 昌貴(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:20:43 | 教育のこと

「無知な国民にならないために」 粕谷 昌貴

 今日の講義は橋梁に関するものであったが、私はイギリスのアイアン・ブリッジの所で紹介されていた、通行料の話が印象に残った。

 アダム・スミスは『国富論』の中で、「たとえば、公道、橋、運河は、たいていの場合、それらを利用する車や船に課する少額の通行税で、それらを作ることも維持してゆくこともできよう。」と、通行税をとる理由として、新しいインフラの建設費用やメンテナンス費用への利用を挙げている。私も、これらの費用はどこからか出さなければならないものである以上、利用者から通行料として徴収できることは理想的だと思うので、この考えに賛成である。

 ここで、現在の日本における通行料について目を向けてみたいと思う。日本で通行料を取っているものとしてまず思いつく場所は、やはり高速道路であろう。日本の高速道路料金は1kmあたり約24.6円であり、これは世界水準に比べて非常に高額となっている。一方、世界の多くの地域は日本の半額以下であり、ところによっては無料で高速道路を利用できている地域も存在する。そのため、訪日した外国人がその高額さに戸惑うと聞いたことがある。また、日本人の中でもこの状況に対して「もっと安くしろ」「無料で利用できるようにしろ」という声も多い。このような意見を持つ人々は、そもそも事業者が高速道路の建設費用を借り入れていて、利用者から料金徴収することで借金を返済しつつ、日々維持・運営しているということを知らないのであろう。高速道路の建設やメンテナンスがなければ、私たちの暮らしはここまで豊かになっていないといえる。

 上記のように無知な人々による意見が通ってしまったことで、多くの国民が損害を被ることになってしまった例として、講義中にも紹介されていた道路特定財源が挙げられる。

 道路特定財源は、自動車重量税や揮発油税などの車に関する税金を暫定的に本来の2倍とし、道路関連の整備のみに充てるというものであったが、2009年に一般財源化された。ライフメディア社が運営するiMiリサーチバンクが全国の20歳以上の男女を対象に2007年1月中旬に実施した「特定道路財源に関する調査」では、道路特定財源の一般財源化に「賛成」が45.1%、「反対」が34.5%で賛成が上回る結果となった。世間では、一般財源化によって税収を道路という決められたものだけでなく、自由に使えるようになるという点が重要だったのだろう。

 その一方、通行税の一般財源化について、アダム・スミスは『国富論』の中でいくつかの持論を述べている。

 まず、「もし有料の道路で徴収される通行税が、国家緊急の用に充てる財源の一つだと、いったん見なされてしまうと、そういう国家緊急の事態が要求していると考えられるたびに値上げされるのは確かであろう。」というものである。実際に日本では、暫定的な税率が一般財源化と同時に撤廃され本来の税率に戻るはずであったが、国の財源が厳しい状況にあるという理由で、以前とほぼ同じ税率が維持されている。例えば、揮発油税+地方揮発油税からなる、いわゆるガソリン税は、本来は28.7円/Lであるにもかかわらず、現行の税率は53.8円/Lと私たちは約1.87倍もの税金を払い続けている。これはアダム・スミスが危惧していたことそのままであり、日本は権力者たちの思いのままにされているということを実感させられた。

 また、「その重さに比例して車にかける税というものは、道路の補修という単一の目的に振り向けられる時こそ、しごく公平な税であるが、なにかそれ以外の目的、すなわち国家の一般的な緊急の用に充てるために振り向けるとなると、これはしごく不公平な税になるのである。」とも言っている。日本での自動車重量税の現状を見ると、一定の燃費性能の基準によって変わるが、車種によっては最大で本来の2.5倍の税金を払い続けることになっている。これは自動車重量税だけではなく、自動車関連の税金すべてにいえることであろう。道路特定財源であれば自動車を保有している人だけが払うのはまだ納得がいくが、一般財源として全国民のために負担しなければならないというのは不公平でしかない。2021年度では、自動車ユーザーが負担している自動車関係諸税の税収が国の租税総収入の約8.7%にあたる約9兆円にものぼっている。自動車ユーザーの不公平をなくすため、また全国の道路網をより充実させるためにも、この貴重な資金を有効に活用できる、道路特定財源を復活させるべきだと私は思う。

 国民が無知であったために簡単に騙され続けた結果、現在も多くの人々が損害を被ることになっている。そんな私も、アダム・スミスが250年前に唱えた論がどのようなものか、ということを気になって調べるまでは自動車の税の仕組みについて完全に騙されていた。先生がいつも授業でおっしゃっているように、得をしたい人たちがこれを信じさせてられているのであろう。無知な国民にならないためには、自分から進んで興味を持って調べていくことが大事である。そのように豊富な知識を持つ国民が増えれば、この国も少しはいい方向に向かっていくのかもしれない。

参考文献
・北海道大学 経済学研究院 橋本努教授 スミス『国富論』5-1 (2022.10.21閲覧)
https://drive.google.com/file/d/1-DnDiRR5dJXRWjfP3sZ_eEEog6dyFRjf/view
・MOBY 世界一高速道路料金が高額な日本、理由はなに?海外の高速道路はいくらなの? (2022.10.21閲覧)
https://car-moby.jp/article/news/overseas-highway-rates/
・TabisLand 道路特定財源の一般財源化、賛成(45%)が反対(35%)を上回る (2022.10.21閲覧)
https://www.tabisland.ne.jp/news/news1.nsf/2a03c8904e6f853f492564990021bb43/61107ff8f67d1baa4925728700033f81?OpenDocument
・JAF 自動車税制改正に関する要望活動 (2022.10.21閲覧)
https://jaf.or.jp/about-us/csr/jaf-demand


学生による論文(21) 「想像以上のストック効果を発揮する住民の夢と希望を乗せた角島大橋」 安宅 建人(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:17:01 | 教育のこと

「想像以上のストック効果を発揮する住民の夢と希望を乗せた角島大橋」 安宅 建人

 今回の講義では様々な種類の橋やその技術について学んだ。その中でも自分が心に残ったのは戦後にGHQによる戦略もあり、物資がない中でも完成させた西海橋である。これと同じように困難を乗り越え完成し、人々の生活に欠かせないようになった橋は多くある。ここでは角島大橋について書く。

 角島大橋は2000年に開通した山口県下関市にある人口が約1000人ほどの角島と本州を結ぶ橋である。その開通前の島民の生活はとても暮らしやすいとは言えなかった。島には中学校までしかなく、多くの学生は本州の高校に通っていた。本州とは1日7本、片道約30分の船で結ばれているが、荒れることで有名な日本海、欠航することも多かった。欠航が予想されると授業を早退し船着き場に急ぐのであった。船に間に合わなかった島民は本州の町役場で夜を明かすこともよくあった。産業にも多くの影響を与えていた。島周辺は豊かな漁場が広がっているため、海産物の水揚げが盛んである一方、本州まで運搬するのに時間がかかるため、安価でしか取引がなされなかった。そして島の中には十分な医療施設がなく、救急搬送の際も船を使うしかないということもあって、架橋は島民の命にもかかわっていたため架橋は全島民の夢であった。そこで住民が一致団結して建設運動を始めた。地元の政治家に懇願をすることはもちろん、島民で県議や知事、県選出の国会議員に架橋を願う年賀状を毎年のように送った。その中には安倍晋太郎議員も含まれていた。大規模な公共事業は住民の力や熱意だけでは始まらず、権力者による後押しが必要であることは誰もが分かっていた。しかし建設省の役人に陳情書を渡しても軽くあしらわれる日々が続いていた。そんな中である日、当時の自民党幹事長である安倍さんは年賀状に心を動かされ、上京した陳情団と関係省庁の対談の場を用意してくれたのだ。すると、その日を境に架橋にかかる調査費の計上が決まり、1989年から山口県も水深などの予備調査を始めることになったのだ。こうして架橋に向けたまず一つ目のステップはクリアされた。

 しかし、一筋縄ではいかなかった。次に立ちはだかった壁はいかにして美しい日本海の景観を壊さずに橋を作るのかという課題であった。決して自己主張せず、周囲の景色に融合させるということを目標に設計が始まった。まず本州からの最短経路での建設を目指したが、そのルート上にはマグマが固まってできた柱状節理がある特別地域として保護されている鳩島があったため、ルートを変更、途中で曲線を入れる形にした。橋の高さについても景観に配慮し、波が被らないギリギリの高さを目指した一方、航路となる部分においては18メートルの高さが要求されたため、その部分だけ盛り上がる形とした。そして景観だけでなく、島民の欠かせない生活道路ということで利便性も考え、勾配や曲線の半径をできるだけ緩やかにした。照明の配置についても目立たないということと、夜間でも安全に見渡せるということを両立するために照明の間隔を試行錯誤して適当な間隔を決めた。橋の色についても、県の検討委員会では鋼鉄部分をカラフルに塗装する案も検討されたが、自然の海の美しさを最大限引き出すため、コンクリートと同じ白系の塗装を使用することにした。このような紆余曲折を経て決まった計画をもとに1995年から橋の建設が始まり、2000年に完成した。周辺環境との調和と融合というテーマに基づいて設計された主桁、橋脚の基本形状やPC桁と鋼桁との接続、また上部構造と下部構造との不連続性を解消する構造形状などが評価され、土木学会デザイン賞2003の優秀賞を受賞した。

 そして島民の生活はこの橋の開業を機にがらりと変わった。船の時間を気にすることなく生活できるようになり、本州とのアクセスも容易になった。そして以前は観光とは無縁といっていいような状況だったこの島も橋の開通でその様子は様変わりした。リゾートのような白い砂浜とコバルトブルーの海が広がる絶景はCMやドラマ、映画のロケ地で多く使われ、SNSでも話題となったため、瞬く間に絶景ポイントとして様々な雑誌やサイトで紹介されるようになり、今では年間約90万人の観光客が訪れる大観光地となった。実際自分も夏に訪問したのだが、平日にも関わらず全国のナンバーの車が止まっており、島内のお土産屋や飲食店、灯台も観光客でいっぱいであった。これは橋が発揮するストック効果の一種であると考える。前回の論文でも記したが、ストック効果の発揮は当初想定していなかったことにも及ぶのである。

 橋の架橋という困難を乗り越えたその先にあった生活は島民が想像した以上に豊かなものであったことだろう。やはり当たり前のことだが、このように土木構造物は人の役に立つことができるということをこの橋について調べていて再認識できた。これからは我々の生活はさまざまな困難を乗り越えて作られた数々の土木構造物に支えられているのだということをより意識して、そして先人たちのたゆまぬ努力に感謝して日々を過ごしていこうと思うのである。


学生による論文(20) 「橋の美しさに関する一考察」 伊藤 紀奈(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:15:15 | 教育のこと

「橋の美しさに関する一考察」 都市科学部都市社会共生学科2年 伊藤 紀奈

 今日の講義では、様々な橋の写真を見た。私は、家の近所の小さな川に架かる橋を思い浮かべて、橋なんてどれも似たようなものじゃないかと考えていた。しかし、教室のプロジェクターに映し出された橋たちは、まさに十人十色であった。

 そして、橋って美しいんだなあ、と思った。

 もちろん、今までにも、橋を綺麗だと感じたことはある。修学旅行で見た嵐山の渡月橋や、横浜ベイブリッジの夜景。でもそれは、「美しいことで有名な橋だから」とか、「観光スポットだから」とか、「テレビやSNSで見た画像と同じものを肉眼で見ることができて嬉しい」というような感情を孕んだ感想であったと思う。いわば、表面的・形式的に「美しい」と感じたに過ぎなかった。

 しかし、今日の「橋って美しい」という感覚は、今までのそれとは異なっているように感じた。そこで今回は、橋に美しさを感じた要素や理由について整理してみたい。

 まず、橋そのもの形や構造が挙げられる。冒頭にも述べた通り、橋の形はひとつひとつ異なり、個性があった。共通しているのは、最も丈夫かつその場所に適した形状を模索した結果、無駄を削ぎ落したデザインに辿り着いたという部分ではないだろうか。頑丈な橋になるように考え抜かれた末のデザインは、シンプルで洗練された印象を与える。実際に、円弧を描くアーチ橋や三角形が連結しているトラス構造などは、幾何学的で美しい。加えて、ほとんどの橋は対称的な作りになっている。無駄を省いたデザインは、橋の美しさの一要因であると思う。また、巨大な橋はその大きさだけで人々を圧倒する力を持つ。

 次に、橋そのものの美だけではなく、風景の中に橋があることによってもたらされる美もあると考える。橋を見る時には、おのずとその周囲の景観を含めた画面として見る。その場所が川であれ、海であれ、山脈であれ、街並みであれ、橋がある風景とは少し特別であるように感じるのだ。自然の中に橋がある様子には、自然と人工物の対比という面白さがある。たとえ建築物が立ち並ぶ町中であっても、橋のような「空中通路」的な建築物は少ない。このように、橋は風景にアクセントを添える存在であると言えるだろう。

 そして、「橋を架ける」という行為にも美しさがあると感じた。ここで「美しい」という形容詞を使うのが正しいかはわからないが、とにかく、尊く気高い行為であると思ったのである。日本語の「ハシ」に関する話で、「端」と「端」を結ぶものも「橋」と呼ぶと知り、橋とは間をつなぐ存在なのだということを再認識した。例えば、川に橋を架ける時、対岸に住む人々が互いに「向こう岸とつながりたい」と思わなければ、工事は実現されないはずである(少なくとも、遥か昔はそうだったのではないだろうか)。これは何も、川に限った話ではなく、歩道橋や水道橋なども含めた全ての橋に当てはまると思う。橋とは、分断を乗り越えるための道具であると言えるのではないか。「橋を架ける」ことは、地形的あるいは人工的な分断を越えてつながろうとした人々の営みによる行為で、橋は平和のための道具であると感じた。

 最後に、「橋を渡る」という行為についても触れたい。分断を乗り越えるために「橋を架ける」のなら、「橋を渡る」のはまさに、分断を乗り越えていく過程である。「橋を渡って」移動することも、「橋を架ける」ことと同じく、両岸の合意がなければ成り立たない。ごく当たり前のことだが、橋は架けるだけでは意味をなさず、渡って初めてその役割を果たす。橋を平和のための道具とするなら、「渡る」という行為は平和を実践していくプロセスであり、「架ける」という行為と等しく重要であると感じた。余談になるが、私は橋を渡るのが好きである。普通の道よりもテンションが上がる。川や海峡に架けられた橋では、「水上の空中を移動している」と捉えると、一気に非日常感が出て楽しくなる。空中通路である橋は、風景の中でアクセントとなるだけでなく、日常生活に僅かな娯楽性を加えるという点においても、人々を楽しませるインフラであるのかもしれないと考えた。

 ここまで、橋の美しさに関して、複数の視点から整理してきた。橋の見た目だけではなく、橋にまつわる行為まで包括して考えたことで、考察を一歩前に進めることができた気がする。橋そのものの形や構造が美しいことや、景観とのマリアージュが美しいことはもちろん、「橋を架ける」ことや「橋を渡る」ことという行為も含めて、橋は美しいのである。


学生による論文(19) 「知識」 小野寺 一馬(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:13:58 | 教育のこと

「知識」 小野寺 一馬

 真実とは何で決まるのだろう。似た言葉で、事実がある。事実は、起こった事象そのものを指すと思う。しかし、真実はその事実を受け取った人間の心象でありそれは人の数だけ存在すると思う。では、その受け止め方による真実は何で決まるのだろうか。それは知識に他ならないと思う。人間生活で、私たちは常に知識を吸収し、それはその人の思考に直結している。つまり、ヒトという生物の組織を作っているのはタンパク質などだが、人間を作り出しているのは知識である。では、なぜ社会の中にはマジョリティが存在するのだろうか。それはやはり、TVのニュースや新聞などといったマスメディアの力だろう。なぜなら、知識を得る場所がそこしか無いからだ。多くの人が、自分から情報を得ようとせず、日常の中から無意識的に与えられる情報を持ち、それが知識となり真実になっている。最近私が、大学内で受講している授業の中で、少子高齢化の話題が登場した。多くは省くが、その授業内のVTRでキャスターのような人が少子高齢化の問題点を語り、その後、自分の意見として「消費税増税も止むを得ないと思います。」と言った。私は、それに対し激しい憤りを覚えた。見ていれば、現行でさえも噛んでばかりのキャスターが、多くの人に見られるマスメディアの中で、さもこれが常識的な意見であるかのように伝えるのだ。しかし、少し前の自分ならばこのことに対し、憤りを覚えることもなく反論の意も感じなかっただろう。きっかけはこの土木史と文明の授業だ。私はこの授業で先生のお話を聞き、情報を深く考えることで自分の価値観が大きく変化した。教育は、机上で教科書を覚えることではないと思う。また、教育者と呼ばれる小学校や中学校の先生も本当に教育者と呼んでいいものかと疑問も生まれる。教科書を覚える作業をさせるなら誰でもできる。私が見てきた学校の大人達は、ただ大学まで勉強をし続けて、お金を稼ぐための仕事として教育者を名乗っている人が多くいると思う。今の日本にそんな教育は必要ない。先生も授業の中でおしゃっていたが、日本の成長が止まった要因は教育にこそあると思う。いくら教科書を覚えたところで、本当に成長に必要な知識はそこには書いていない。事実としてある情報を、自分で取り込み、自分だけの真実を持つために、その幅を広げさせるのが教育だ。これからの世代に必要なものだ。どの時代も人々を統制しその先を示すのは情報だった。日本は戦時中、不都合な情報を一切、排除したことで国民の意見を戦争に異を唱えさせないように統制した。捉え方によっては今の日本は、戦時中に寄っている。マスメディアという大きな力を使い、世間の大多数を政策に異を唱えさせない思考にしている。私は、初めて自分の考えを周囲に知ってほしいと思った。自分の今まで関わってきた友人たちにはせめて、自分の真実を持ってほしいと思った。これから、自分で知識を身につけ、自分の真実の幅を大きく広げたい。

 


学生による論文(18) 「四国を変えた本四高速」 大倉 風芽(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:12:15 | 教育のこと

「四国を変えた本四高速」 大倉 風芽

 本四高速は神戸淡路鳴門自動車道、瀬戸中央自動車道、西瀬戸自動車道の3つの路線から構成されており、それぞれ平成10年4月、昭和63年4月、平成11年5月に全線開通し供用が開始された。この供用開始までには約100年にわたる歴史的な背景がある。当初本州と四国に橋を建設するという構想が生まれたのは1889年のことで、香川県議会議員大久保甚之丞が現在のJR四国土讃線にあたる讃岐鉄道丸亀-琴平間開業の式典で瀬戸大橋について語ったのが始まりとされている。そしてその後1914年には徳島県選出の国会議員中川虎之介が「鳴門架橋に関する建議書」が帝国議会に提出されるなど明治、大正の時代から計画や構想が存在していた。しかし、本格的な議論が巻き起こったのは戦後の1955年の宇高連絡船「紫雲丸」の事故からである。この事故は濃霧の中出航した国鉄宇高連絡船紫雲丸と第三宇高丸が海上で衝突したというもので、168人の人命が犠牲となった。この紫雲丸は当時としては最新のレーダーを装備した船であったことや、犠牲者の多くが修学旅行生や婦女子であったことから社会に大きな衝撃を与え、本州と四国を陸路で連絡することの必要性を決定づけたターニングポイントとなった。その後1959年からは建設省や国鉄が本四連絡のルートの本格的な調査を開始し、1969年の新全総に現在の3つのルートが盛り込まれることとなった。そして1970年に本四公団が設立され四国島民400万人の願いであった計画がついに動き出した。そして1973年11月25日を起工式の日と定め3ルート同時の着工が予定された。しかしオイルショックの影響で5日前に突如計画の延期が発表され2年後の1975年になって再開されることとなり、また3ルート同時着工ではなく児島坂出ルートからの順次着工となった。そして平成11年5月の西瀬戸自動車道の開通をもってついに3ルート全ての建設が終了し、四国の100年来の念願が果たされた。しかし、3ルートの建設費は2兆8700億円に及び、その大部分が有利子での借入れによって占められていた。

 この巨額の債務を当時の一般的な償還期間である30年で償還するため、債務額と償還期間から逆算し、当初は6000円から7000円という高額な料金設定がなされ、その条件のもとで瀬戸大橋であれば1日あたり2万5000台の交通量を見込むなど現実に即さない計画が立てられていた。しかし、高額な料金設定や交通量の甘い見積が原因で収支は常に赤字となり、利払いすら出来ない状態が続き負債が膨らんだ。そして最終的には4兆円近くまで負債は膨れ上がり自力での再建は不可能ということで、国が1.3兆円の有利子負債を肩代わりし本四公団は民営化された。そしてその後は国や地方からの援助や全国共通料金制の導入によって料金の引き下げが行われ、現在の計画では2065年に償還の目途が立っている。

 このような流れの中でこの計画を含めた公共事業計画は無駄なインフラなどと批判を受け、利権や汚職、天下りの巣窟と糾弾された。しかし、事業の採算性に問題があったことは事実であるがその一方で本四高速の開通による経済効果は昭和63年から平成30年までの間で40兆円といわれるなど莫大なストック効果を生み出しているというデータもあり、陸路で本州と四国がつながったことによって観光の活性化や新産業の創出、流通の改善など計り知れない効果を生んでいる。このような事業単独の採算性の外にある外部経済についても考慮すべきであり、このような計算が難しい効果も議論を通して勘案し最終的な決断ができる政治家が必要だと考えられる。

参考文献
国土交通省.”本四高速の概要”.
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/hw_arikata/pdf11/6.pdf ,(参照:2022-10-22)

清水草一.”あの大騒動から16年…道路公団を民営化した功と罪”. ベストカーWeb.2021-05-01. https://bestcarweb.jp/feature/column/276640 , (参照:2022-10-22)

環瀬戸内海地域交流促進協議会.” 本四架橋開通による経済効果をとりまとめました”.
国土交通省 四国地方整備局.2019-04-15.
https://www.skr.mlit.go.jp/pres/h31backnum/i1695/190415-4.pdf , (参照:2022-10-22)

本四高速.”沿革”. https://www.jb-honshi.co.jp/corp_index/company/enkaku/ , (参照:2022-10-22)

本四高速.” 本四架橋の整備効果”.
https://www.jb-honshi.co.jp/corp_index/company/seibi/pdf/seibi.pdf , (参照:2022-10-22)

日本共産党.” どうなってるの?――…道路4公団民営化”.2002-04-21.
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-04-21/DB_0501.html , (参照:2022-10-22)

櫻井よしこ.” 「 累積債務4兆5000億円『本州四国連絡橋公団』は日本のお荷物 」”.
櫻井よしこオフィシャルサイト.2001-06-14. https://yoshiko-sakurai.jp/2001/06/14/3762
 (参照:2022-10-22)

国土交通省海難審判所.” 汽船紫雲丸機船第三宇高丸衝突事件”.国土交通省.
https://www.mlit.go.jp/jmat/monoshiri/judai/30s/30s_siun_3ukoui.htm , (参照:2022-10-22)

本四高速.” ルートの選定”.
https://www.jb-honshi.co.jp/seto-ohashi/shoukai/rekishi2.html , (参照:2022-10-22)


学生による論文(17) 「ゴールデンゲートブリッジに対する考察」 渡 由貴(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-03 19:10:06 | 教育のこと

「ゴールデンゲートブリッジに対する考察」 渡 由貴

 私は、アメリカのカリフォルニア州にあるゴールデンゲートブリッジが大好きだ。今回の授業のテーマは「橋」であったので、この機会にゴールデンゲートブリッジの建設の背景と、建設してから今に至るまでの状況をもとに、その存在意義について考察してみようと思う。

 ゴールデンゲートブリッジは、1937 年に開通した、サンフランシスコ湾と太平洋を繋ぐ全長 2737mのつり橋である。ゴールドラッシュ後の 20 世紀初頭、サンフランシスコの人口は 100 万人を突破し、大都市へと急成長を遂げた。しかし、サンフランシスコから対岸にあるカリフォルニア州北部へ行くには、フェリーを利用するか陸路を遠回りしなければならなかった。そこで、最短で北部へと繋ぐことのできる橋の構想が生まれ、1933年に建設が始まった。橋の構造としては、まず二つの主塔がこの単径間つり橋を支えている。この塔の頂部から二本のメインケーブルを掛け渡し、岸のアンカーブロックに固定して、ハンガーロープで吊られた道路を支えている。各ケーブルの長さは約 2130m であり、各ケーブル内には全長 128750km ものワイヤーが使用されている。橋の色は、たまたま下塗剤として鋼材に塗られていた赤い色をコンサルタント技術者が気に入ったため、この「インターナショナルオレンジ」という色が採用された。完成までは、総額 3500 万ドル以上が費やされた。また、建設時、足場の上では強風が容赦なく吹き付け、対策として安全ベルトの着用やネットの設置を行うも、多くの命が犠牲となった。

 ゴールデンゲートブリッジの建設のおかげで、人々はカリフォルニア州北部へ遠回りせず短時間で行き来することが可能になり、都市の交通網が発達し、地域住民の交通状況改善へ大きく貢献した。またそれだけでなく、ゴールデンゲートブリッジそのものが観光の対象として有名な存在になり、サンフランシスコの経済に良い影響を与えている。完成当時、ゴールデンゲートブリッジはつり橋として世界最長を誇り、アメリカ建築の象徴的存在となった。今では世界中の人々から「サンフランシスコといったらゴールデンゲートブリッジ」というイメージが持たれるほど、アイコニックな存在となっており、その周辺地区は世界で主要な観光名所となっている。

 私は去年、サンフランシスコから車で一時間半くらいのサクラメントという都市へ留学していたので、ゴールデンゲートブリッジを何度も訪れた。行く前からこの橋を知っており、写真で見ただけでも美しいと感じていたが、生で見ると圧倒されるほどたたずまいがずっしりしていて、だけれど鮮やかな「インターナショナルオレンジ」のカラーにより生き生きとした感じもして、見るだけで何か大きなパワーをもらえるような存在だった。ただ、そんな迫力があるのだけれども、悪目立ちしている訳では無く、周辺の景観とも上手く溶け込んでいるのだ。真っ青な海と対比して映えるオレンジ色、けれども真っ赤ではなく少し温かみのある色であることや、奇抜さが無くシンプルな形であることが、その理由ではないかと思う。こういった、新たな構造物が既存の構造物や自然とどう調和し、美しい景観を新たにどう作り出していくか、という面での検討も非常に大事なことだと感じた。

 しかし、良い面だけではない。ゴールデンゲートブリッジは、その高さのおかげで自殺の名所となっており、世界一飛び降り自殺の多い建造物である。よって現在は、自殺中止を呼び掛けるポスターの掲示や、スタッフによるパトロール、夜間の歩行者の通行禁止など、自殺対策に莫大な費用が掛けられている。仕方ないと言えばそれまでだが、みんなに注目されるような大規模な構造物を作る際は、それだけ人を惹きつけインパクトを与えるものになり得る、ということも意識する必要があると思う。

 以上をまとめると、ゴールデンゲートブリッジは新たな交通手段と観光資源として、サンフランシスコの経済成長に大きく貢献した。そしてその存在は、人々の心に残る美しい景観を生み出している。建設するのに高額のコストや労力、多数の犠牲者も伴ったが、結果としてそれだけ甚大な影響を与えるものができたことから、作った意義は大いにあったと言えるのではないだろうか。ただ、設計する前にそれが人々の心理にどう働きかけるのかということまでを考えて、飛び降り自殺が発生しにくいような構造にすることができていたらさらに良かったと思う。今後は、必要な対策は行っていきながら、この橋が長い間人々に愛されながら利用されることを願っている。


10月の振り返り

2022-11-03 14:43:11 | 人生論

10月は我が大学では秋学期の始まる時期で、私個人にとっては毎年の繁忙期が始まる、身の引き締まる時期でもあります。

今年、2022年は、10月の始まる前からやたら忙しく、9月も飛ぶように過ぎ、トップスピードのまま10月に突入しました。そして、またもあっという間に10月は終わってしまいました。

10月3~4日に、横浜国大の土木工学教室の見学会が大阪、兵庫で開催されました。学生たちが企画を創り上げる、YNU土木の誇る秀逸なイベントです。コロナ禍のため、しばらく実施できていませんでしたが、ついに、1泊ではありましたが宿泊を伴う見学会が開催できました。誠実に、そして熱血に、企画を創り上げてくれた学生幹事たちに敬意を表します。私も多くを学ばせてもらいました。幹事学生たちが取りまとめた見学会のレポートも近く公開されます。

土木史の講義もスタートしました。例年、この講義の進行とともに私のギアも徐々にアップしていく、というイメージですが、今年はトップスピードで10月に入ったので、少しいつもと違う感覚を感じています。学生たちの論文も、初回から秀逸なものが少なくなく、私のブログで紹介しているのはご存じの通りです。学生たちとの真剣なやり取りは、私にとっても大きな刺激で、この「解釈学的循環」から多くの新しいことが創造されていくことを願っています。

土木史の講義でも伝えた、「人が情報である」という考えについても、10月に私自身も肌で感じました。

「オンラインで十分」とか、「働き方改革」とか、よく分からない考えが流布しておりますが、対面で人が交流することによる効果の大きさは、簡単にはかり知れるようなものではありません。

言葉は悪いですが、レベルの低い方々の交流はオンラインでも十分、なのかもしれませんが、すさまじいレベルの情報が宿る人同士の対面での交流は、オンラインでのそれとは次元が異なります。

10月11日に久しぶりに長崎に出張しました。松永昭吾さん(マツさん)もこの出張に参加され、西海橋を案内いただきました。西海橋についての詳細はここでは述べませんが、吉田巌が設計し、GHQの占領期に設計されたこの橋の凄まじさ(極限まで使用材料の量を減らした超合理的な設計)を肌で感じ、震えるような感銘を覚えました。







長崎市内から西海橋への往復の車内(運転はマツさん)での会話もすさまじかったですが、吉川土木コンサルタントに到着後の、本命の用務である、地方自治体の管理する橋梁群の維持管理システムの改善、についての議論はスパークしました。

まさに「解釈学的循環」であり、このレベルの対話では、適切と思われるボールを投げ、それに対する相手の反応を見て、次の手もベストと思われる手を打ちます。お互いの表情や声色などもすべて感じ取りながら対話を重ね、あっという間に高みに到達します。

これが、「人が情報である」という考えの極意であり、西海橋からの感銘やマツさんとの対話から得られる興奮や今後のワクワクするような展開は、オンラインではなかなか得られないものなのです。もちろん、我々はオンラインでもそれなりの成果を上げますが、それは対面ではるかに高いレベルのコミュニケーションをできる能力に支えられてのものなのです。

この長崎出張以外にも、長崎から戻った日の東京駅付近での「トンネル工学研究会」での招待講演(山口システム+東北システムの成功の秘訣)、10月17日の山口県の品質確保講習会、18日の広島のトップレベルの生コン工場での対話+福山のある企業訪問、19日の鞆の浦学園での授業+鞆に集う親友たちとのコミュニケション、29日の舟遊びみづはの「コンクリートを巡る旅」のガイド、などなど、各地域で非常に心地よい対話を重ねることができました。

10月は秋。体を動かしたくなる時期です。10月に入ってからジョギングの回数も一気に増えました。12月29日の昭和記念公園でのハーフマラソンに登録した(2年連続)ので、昨年よりも良いタイムで走れるように、トレーニングを積みたいと思います。(昨年は2時間ちょうどで、15kmくらいを過ぎた辺りからスタミナが切れ、ペースがガクッと落ちました。。。)

断酒ももちろん継続中。7ヵ月が経過しました。

読書の秋でもあり、読書量も増えています。
・「神なき時代の日本蘇生プラン
・「人を動かす「正論」の伝え方
・「古事記完全講義
など、大変お薦めです。

お酒をたくさん飲んでいた時期と異なり、休日もスポーツ、家事、仕事などであっという間に過ぎ去り、ゆっくり休むという日がほとんど無かったためか、10月終盤に疲労が顕在化しました。左足の膝から下にいろいろと変状が生じ、かなり回復はしてきたものの、疲労により抵抗力が落ちているからかな、と推察しています。

昨日、11月2日もかなり疲れており、オフィスで昼食後に眠くてどうしようもなくなり、机に突っ伏して少し昼寝してしまいました。早めの夕方に帰路につき、スーパー銭湯でサウナに入って、帰宅後に次女とおしゃべりしながら楽しく夕食を食べ、大量の洗濯をした後、ベッドの中でゆったり本を読みました。大好きな「100分de災害を考える」のセネカの章を読み返し、大変な感激を受けて、就寝しました。以前もこの章は読んだのですが、「過去とつながる」「過去への扉を開く」という考え方が、今の私には強く染み入りました。

ぐっすり寝た後、本日、11月3日は朝から極めて活動的で、元気が戻ってきました。体操、学生の研究指導(オンライン)、寝具の洗濯、皿洗い、髪のカラーリングなどをした後、長女と図書館へ。楽しいランチも一緒にして、図書館で仕事、勉強、ブログの更新。

まだ体調は完全ではありませんが、いずれ完調に戻ると思うので、11月が充実した時間になるよう、大切に過ごしたいと思います。