細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(53) 「ダブルスタンダードという印象への考察」 大木 陽介 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:51:11 | 教育のこと

「ダブルスタンダードという印象への考察」 大木 陽介

 今回の講義でも、先生のお話の中に幾つかの気になる点があった。その中でも大きな2つは、「自己中心的」への評価と、「環境破壊」の捉え方である。

 一つ目について、講義冒頭で(今までの講義でも度々言及されていたが)自己中心かつ短期的にしか考えられない人を「末人」として批判する文章を紹介し、その一方で中国やアメリカを日本と比較してその2国でインフラ整備がすさまじい速度で進んでいることを説明していた。しかし、その2カ国こそが目先の利益のために環境を破壊し、自国の利益のみを追求して他国を省みない国ではないのだろうか。

 現在の日本でインフラ整備が進んでいないことは確かである。それは都市集中が進む中で、「使われない」道路、路線の価値が十分に見出されていないためだろう。勿論、インフラ整備は必ず環境破壊をもたらす。車が通るようになればそれはそれで排煙等の問題も出てくるかもしれない。建設には大きな費用が掛かる。そうしたことを併せて評価した結果「合理的に」無くて良い、ということになっているのかもしれないが、利益の総和が最大になるように最適化された状態は時に脆く、歪である。故に日本がインフラにもっと力を入れるべきだということは、これまで講義を聞いていてよく分かった。だからと言って、中国、アメリカの2国のインフラ整備の状況に対し、それを止めるべき、というような批判的な言葉が出てこないのは何故なのだろうと思った。その後で、「中国がごみを大量に捨てているから、日本がいくら努力しても意味がない。それよりも中国にそれを止めさせるべき」と言っていたが、他国に注文を付けるには、まずは自国で十分な取り組みをしていなければまず相手を動かすことは出来ないはずである。他の環境保護への意識が高い国と日本が一緒になって世界に対し環境への配慮を求めるというのが望ましい図式だと思う。

 2つ目について、環境破壊については人間の損益が基準になっているように思われた。「環境破壊と言うが、水はきれいに、空気も汚れていない」と言うが、自然豊かなこの大学ではなく、大都会の真ん中ではどうだろうか。自動車交通の発達とともに発生した利益を土木に帰すならば、排ガス問題もまた土木に帰せられるはずである。加えて、野生動物と車の接触事故による被害もまた同様と言える。また、水そのものがきれいになっても、河川の工事によって失われた自然は無いのだろうか。「発展の段階において一度環境は破壊されるが、後に技術によって乗り越えられる」と言っていたが、やはり取り戻せないものはあるはずである。(「手つかずの自然」は言葉通りその最たる例と言える。)

 ただし、この2つ目については、自分が少し誤解をしていたことに気付いた。当初「空気や川の汚れはそんなにひどくない」という単純な断定から、「だから環境破壊は土木の責任ではない」と言っているような印象を受けた。誤解と気づくことが出来たのは、レポートのために反証を探し、破壊された環境の復興について調べるにつれて、かつての過ちへの十分な反省のもと研究が為されていること、そしてむしろ土木によって環境問題を改善できることが分かってきたためである。但し、反射的に先のような感想が浮かんでしまうということは、やはりまだまだかつての過ちの「呪い」は根深く、土木に携わる人間は発信に気を付けるべきなのではないかと思う。

参考
https://note.com/partonpantor/n/nf5ec1a8ec122
https://kyushu.env.go.jp/okinawa/press_00018.html
https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1925/45/3/45_3_231/_pdf/-char/en
https://core.ac.uk/download/pdf/39179891.pdf


学生による論文(52) 「中国の戸籍制度について」 陸 文 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:50:14 | 教育のこと

「中国の戸籍制度について」 陸 文 
 
 巨大都市といえば、授業のスライドで見た表では、中国の4都市もランクインしていたが、いずれも特に上位には入っていなかった。 そこで思い出したのが、いかにも中国らしい政策、「戸籍政策」である。 戸籍制度がある国は世界で3カ国しかない:中国、北朝鮮、アフリカのベナンである。

 日本では、戸籍は「戸籍」と「住民票」の2つに分かれている。「戸籍」は中国の戸籍に相当するが、日本の戸籍は中国と異なり、個人の必要に応じて自由に変更することができる。 日本国民は、どこで生まれたかにかかわらず、自由に移動する権利を持っている。市民が移住の際に必要なのは、自治体への登録だけである。「今月は大阪市民、来月は希望すれば東京都民になれる」と言えるのである。これも直接的または間接的に首都圏の一極集中を招いたが、戸籍制度の厳しい中国は、巨大な都市化問題を完全に解決できるのだろうか。

 世界の多くの国では、都市化の過程で悪質な都市スプロールを経験している。農民は仕事を求めて際限なく都市に押し寄せたが、都市は無制限に押し寄せる農村の人々を支えるだけの仕事と資源を提供することはできなかった。 都市部の失業者は、現代社会における都市の社会問題の最も重要な原因の一つである。 中国の農村人口の規模は非常に大きく、改革開放当初の中国の都市産業の規模では、農村から都市への無制限の流入による社会問題に対処するのがやっとであった。 その結果、戸籍制度は次第に悪政となり、強制されなければならなくなった。 このように、戸籍政策の本来の目的は、農民の都市への参入を制限することにあったといえる。 中国は古来より中央集権的で階層化が強い社会であり、戸籍制度が設けられ、城壁の設置など都市と農村の移動が制限され、その結果、階級格差が強化されたのである。 この階級格差は、現在の中国社会でも戸籍制度が残っていると言ってよい。 人々は戸籍によって様々な階級に分けられ、教育、医療、社会保険などの質の高い資源は、必然的に上海、北京、広州などの経済的に発展した大都市に偏ってしまうのである。外来人は、対応する都市資源を利用できず、都市で一時的に生活しなければならない。 EUのように加盟国間の自由移民が可能な国でも、法的な意味では完全に平等だ。ヨーロッパは宗教、民族、特に言語の問題から大量の人口移動はないものの、少なくともこの壁を突破しているのに対し、中国はなかなか希望が見えてこない。


学生による論文(51) 「東京都心部において公共交通中心へと舵を切る手段」 松田 大生 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:48:51 | 教育のこと

「東京都心部において公共交通中心へと舵を切る手段」 松田 大生 
 
 今回の講義では都市の肥大化に関する問題を扱った。その中で、先生が資料を紹介する際に、『都市周辺までに高速道路で車で行けるんだけれど、その後はあたかも玄関で靴を脱ぐように、車から降りてトラムをつかったりしながら街の中を歩くわけです。ヨーロッパはそうやって、近代的なクルマの弊害が都心部に及ばないように…』という記述があった。私はその記述がとても気になった。私は高校時代にベルギーのブリュッセル近郊に留学し、現地の家庭にホームステイさせていただいたが、ブリュッセル中心でも自動車が多く乗り入れており、またホームステイさせていただいた家庭も、トラム・バスの停留所が家の近くにあるにもかかわらず自動車が基本的な交通手段であった。フランスのストラスブールなどのように完全に市街地内移動が公共交通へと転換されている都市もある一方で、私の体験は前述のように、自動車中心のものであった。このように都市圏交通が綿密に整備されている都市において自動車利用が多くなってしまう理由を私の見てきたブリュッセルの風景を考察し、更に身近な都市である東京の中心においてストラスブールのような自動車利用を大幅に制限したうえで公共交通中心の空間に転換することができるのか、考察する。

 ブリュッセルにおいての公共共通は、首都圏を取り巻く・そして周辺都市へと放射状に伸びる国鉄、そして首都圏交通が運行する地下鉄・バス・トラムとベルギーのフランス語圏・オランダ語圏の会社が運行するバスが張り巡らされている。だが、中心地域間の移動はまだしも、ブリュッセルの外れの地域から中心の移動では自動車を使うことが多い。実際にブリュッセルの中心の観光地、グランプラスの広場やショッピング街のルイーズなどには駐車場がある。またベルギーは立体駐車場が少ない。そのため路肩が広がっている場所に停めることとなる。実際に休日など、観光地がにぎわう際には路上の駐車場は争奪戦となり、中心街近くでも渋滞が発生する。

 私が考えるブリュッセルの郊外から中心の移動において公共交通が不便になっている理由としては、国鉄の駅やトラムの大きな停留所付近への駐車場の整備が少ないこと、ブリュッセル郊外から中心街へと行くトラムやバスなどの所要時間がかかりすぎること、中心街へ向かうために速達性がある国鉄の本数が少ないこと、同じく速達性がある地下鉄も路線が少ないために使える人が少ないことがあげられる。国鉄に関しては国内の主要都市間を結ぶ交通機関という位置づけであることから、ブリュッセル近郊の駅の本数が少なくなってしまうのはしょうがないと考えられる。だが、本数が少ないうえに駅付近の駐車場が少ないと利用する人が少ないこともうなずける。トラム・バスに関しては本数は日常で使うことができる本数は確保されているといえる。だが、トラムもバスも道路交通に定時性が左右されてしまうことが挙げられる。

 次にブリュッセルの公共交通について、優れている点を挙げる。これらの点は先述の東京を公共交通中心の街に仕立て上げることができるのか、という点において取り入れることが出来たらよいシステムである。私がブリュッセルの公共交通を用いて一番驚いた点としては共通運賃制度である。ブリュッセルには先述の4つの交通機関を運行する会社があり、かつ複数の交通が運行されているが、これらの運賃はどの区間においても2.10€であった。また、乗り換えは60分以内であれば無料であった。ブリュッセル空港へ行く交通機関という例外はあるとはいえ、別の会社をまたぐという乗り換えを含み共通運賃システムが用いられていることの便利さ・わかりやすさには驚いた。他には、現地において免許を返納したら公共交通の無料パスが与えられるというシステムがあると聞いた。これは特に自動車を使っている高年齢の世代の公共交通機関への移行をスムースに、かつ積極的に行ってもらうようにしている政策である。この政策を可能にしているものはブリュッセル首都圏交通が民間企業ではなく、公営企業であることが大きいだろう。

 さて、私が最初に提示した東京都心部を公共交通中心へ転換する、という課題であるが、完全に不可能ではないように思われる。さすがにストラスブールなどのように完全に車の立ち入りを制限する、ということは不可能ではあるが区間・時間によってはバス優先道路を作る、完全な専用車線を作るということを行ってもよいだろう。また、ブリュッセルの政策・手段を参考にすると、運賃制度の統一といったものがあるだろうか。現在、東京の都心中心部を走る鉄道会社はJR、東京メトロ、都営地下鉄の3社があり、かつそれぞれが別の運賃制度が用いられている(メトロと都営は乗り継ぎ制度があるが)。そのため、運賃制度がとても複雑であり、わかりにくい。そのため、ブリュッセルのような全区間統一運賃とまではいかなくてもパリの首都圏交通のようなゾーン制を用いるという方法が考えられる。駅を範囲ごとにゾーンに分けて、ゾーンごとの移動料金を統一するという制度である。また、ゾーン制度を用いるならば山手線を基準とすればいいだろう。山手線より外に出ると鉄道会社の数が格段に増えるため運賃制度の統一が物理的に厳しくなるだろう。そのため、関わる会社ができるだけ少なく、かつ効果がある地下鉄が多い山手線内の地域で行うと効果があるだろうと思われる。そして郊外駅においての駐車場の設置による、パークアンドライドの促進もある。だがこれも無計画に行ってはいけないと考える。私が心配するのは、混雑が多い路線においての駐車場設置による混雑悪化である。具体例を挙げると、多摩地域の東急田園都市線や西東京地域からのJR中央快速線、千葉地域からの東京メトロ東西線あたりであろうか。このあたりの路線においてパークアンドライドの客が流入して混雑が悪化すると、あえて電車に乗り換えて都心に行こうという気持ちがなくなるのは想像に難くない。そのため並行路線で比較的混雑が緩い路線をメインターゲットに政策を行えばよいだろう。上記路線の並行路線だと東急目黒線、京王線、京成本線が候補にあがるだろうか。こういった周辺の路線と比較して混雑がマシな路線に導入することができれば、公共交通への転換も図れ、そしてその路線の収益も上がりよいだろう。

 これまで私の経験や知識などから対策や方法を考えてきたが、実際にこれらのシステムを実装するにあたって厳しい点や障害も多いであろう。だが、私はこれらの便利なシステムが日本に普及することを切に願っている。


学生による論文(50) 「変わらないことが魅力になる日」 松崎 蒼斗 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:47:48 | 教育のこと

「変わらないことが魅力になる日」 松崎 蒼斗 

 香川県豊島における産業廃棄物不法投棄事件についての話を聞いて、小さな頃にテレビで見た「Dr.コトー診療所」というドラマで似たような話があったことを思い出した。このドラマは、東京の大学病院で勤務医をしていた五島健助が、とある理由で沖縄の離島の志木那島という孤島の寂れた診療所に赴任するところから話が始まる。主には、孤島における医療の状況を風刺した作品であるが、外界から閉ざされた環境であるからこそ作りあげられるヒューマンドラマも売りにした作品である。ある日、志木那島に東京から代議士がやってきて、島にごみ処理場を建設する計画を持ってくる。代議士先生は饒舌に、漁業は先細りの産業であるから、ごみ処理場を誘致して安定した収入を得られるようにするべきだ。というのである。当たり前に、反対派の人間も出てくるが、甘い蜜を島の権力者に与えることで押し通そうとする。しかし、その時に良くか悪くか代議士が尿路結石で倒れてしまう。それをきっかけにして、五島や島民と関わり、島を取り巻く環境を知り、誘致計画を白紙に戻す判断を下す。そこで、代議士が五島にごみ処理施設の誘致に関して意見を問うシーンがある。そこでの五島のセリフが印象的でレポートのタイトルにも採用した。

「世の中には変わって良くなるものとそうでないものがあると思います。僕は、この島には変わらないでいてほしい。変わらないことが魅力になる日がいつかきっとくるような気がします。」五島健助(Dr.コトー)/第4話/病気を診るな、人を診ろ/Dr.コトー診療所より

 ここでの“変わらないこと”というのは、無理に変化する必要はないということである。決して、ここから変化をしないように現状を維持していくという意味ではない。今の日本は無理に変化しようとしすぎな気がしている。変化をすることは悪いことではないが、ジェンダー平等や洋食化、大量生産、プラスチック削減など、欧米の尻尾を追うように推し進めていることが問題であると思う。日本には日本の文化があり、価値観がある。海外の事例に倣って、採用することは悪いことではない。しかし、日本の風土に合わないようなものを取り入れたとて、拒絶反応が出るのは言うまでもないだろう。日本は性善説の国であり、諸外国には性悪説の国もある。「子供は天使である」の性善説と、「子供は悪魔である」の性悪説。考え方が真逆なのに、同じ方向に進もうとしても、うまくいかない。小麦食も同様のことだろう。

 無理に変化しようと、周りに合わせようとする流れは日本という国にも言えることだが、地元横須賀市にも言えるところがある。隣市が大都会横浜であるから、横浜大都市圏の一部に成り下がることが、利益を被りやすいのは理解できる。しかし、そのような理由をもって、タワーマンションの建設を行ったり、大企業の誘致を行ったりしても、ブランディングや人口増加にはつながっていない。決して、観光のためのブランディングではない。むしろ、観光のために行なってはならない。観光産業での収入はあくまでもボーナス収入であり、遺構の保全のための予算として用いるのが妥当だと考える。観光事業に偏りすぎてしまうと、京都市が新型コロナウイルスの影響でコロナ前からの赤字から、大赤字に転向してしまったのと同じ轍を踏むことになってしまう。新型コロナウイルス感染症の影響で、遠出せず近郊旅行する風潮が高まった時期には、横須賀市の観光客数、転入者数は増加傾向にあった。横須賀に自然豊かなちょうどいい田舎のイメージを持つ人も多いのではないだろうか。

 横浜ブランドに勝らずとも、”変わらないこと”を売りにして“懐かしいかつての”といった横須賀ブランドを確立し、変わらないことが魅力になる日を待ちつつ、市内企業を中心に空き家活用に働いていってほしいと願う。


学生による論文(49) 「都市の生活の尻ぬぐいをする地方」 本田 玲美 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:46:39 | 教育のこと

「都市の生活の尻ぬぐいをする地方」 本田 玲美 

 私たちの暮らす日本は国民の約30%が東京圏に、三大都市圏には半分が集中しているという、世界でも類を見ない超過密国家だ。都市に人口が集中しているということは、同時に地方は超過疎状態にあることであり、非常にバランスが悪い。ニュースでは、コロナ禍でリモートワークが進んだことで最近は地方移住が流行り、昨年東京の人口が26年ぶりに減少に転じたと報じているが、今後また首都圏人口がどう推移するか分からない。

 都市圏への人口流入が始まったのは紛れもなく高度経済成長期で、都市では小学校の数が足りないなどの社会問題があった。その裏で、地方では人口減少の不都合というよりは都市圏の急激なエネルギー需要の高まりによる犠牲を払っていたようだ。

 地方の人々の苦労の一例として、鬼怒川のダム建設での話がある。高度成長期ではないが明治時代末、東京圏は電力需要が供給のキャパを超えており、至急発電施設を作らなければならなかった。当時は大規模発電の技術が日本にも入ってきており、長距離送電を試みている段階であった。発電所建設地に名が挙がったのが栃木県鬼怒川の中岩地域で、水力発電により得られる電力を地方から東京圏に送電しようとする計画が作られた。すぐに着工し、およそ5年の工期で竣工したが、その後すぐに問題が露呈した。もともと辺りは稲作地域であり、灌漑期間は常時田んぼを水で満たす必要がある。水を引き入れていた川にダムが建設されたことで、必要な水が得られない事態に陥ったのだった。

 水を使う権利、水利権は明治29年の旧河川法によって確立されている。この中岩ダムは大正13年と日本で最も初期のダム式発電を建設したのだが、電力会社と下流の農業組合との間で激しい水利権紛争が起きた。時間によって電力需要が変動することから、昼から夕方にかけてダム放流するピーク発電を採用していたため、早朝などは放流が完全に止められて農業用水が取れなくなっていたのだ。水利権のうち農業水利は生活に直結する重要な権利で、当然守られなければならない。この中岩ダムでは竣工されてから15年を経てやっと農業用水の既得権が尊重されることになり、中岩ダムはピーク発電を行わなくなった。一つ興味深いのは、中岩発電所ではピーク発電を行わずに中岩ダムを逆調整池として利用し、均等放流していたということだ。先に作動していた黒部ダムとの間にある下滝発電所でピーク発電をする代わりに、中岩ダムでは下流の水量を保つ役割を背負うことにしたのだ。こうした工夫と努力があったからこそ、都市部へ安定した電力供給が実現できたと言えるだろう。

 中岩ダム周辺の水利は解決したが、他にも各地で都市圏へ貢ぐために地方の資源を送っている。都市は地方の邪魔をしながらでも自分たちの生活を豊かにしようとしているのに、その恩恵や利益を果たして地方に共有、還元できているのか。おそらくほとんど地方にお返しできていないというのが現実で、無償で受け取ってしまっているというのが答えだろう。地方のことにもっと関心と感謝の念を持ち、積極的に地方の問題を解決する、地方の暮らしをより良くしようという気持ちが都市部の人間は持つべきだと考える。そしてゆくゆくは地方に面白さを感じる人が増え、日本の都市圏への異常な集中が緩和する未来が訪れるのが理想だと思う。

参考文献
1)堀川洋子、近代発電用ダムの成立条件としての「地域・都市」の利益調整に関する研究、日本学術振興会科学研究費用助成事業研究成果報告書データベース、2019
2)堀川洋子、近代の鬼怒川における発電と農業用水の水利調整、農業農村工学会農業農村整備政策研究会報、No.5、2019
3)日本経済新聞 「1都3県初の人口減、東京へ流入鈍る コロナで意識変化」(2022年8月9日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA089K00Y2A800C2000000/


学生による論文(48) 「モータリゼーションと高速バスは地方都市の敵である」 堀 雅也 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:44:59 | 教育のこと

「モータリゼーションと高速バスは地方都市の敵である」 堀 雅也

 講義内で紹介された藤井先生の言葉の中で、「モータリゼーションは都市の発展を妨げるものである」というものがあったが、私が春に経営学部の学友と議論した際に結論の1つとして出ていたので、これに関して論じる。

 まず前提として、私の考える(性質が特殊なので空路は除く)交通インフラの階層について述べる。

【第一階層】国の軸となる最速達交通
「はやぶさ」、「のぞみ」、「みずほ」
【第二階層】大都市間の速達交通
上記以外の新幹線、「ライラック」、「北斗」、「つがる」、「いなほ」、「ひたち」、「あずさ」、「しなの」、「しらさぎ」、「サンダーバード」、「こうのとり」、「やくも」、「しおかぜ・いしづち」、「ソニック」
【第三階層】ネットワークの構成に必要な交通
上記以外のほぼ全ての特急、私鉄の有料特急、「きたみ」、仙石東北ライン快速、「大和路快速」、「マリンライナー」、「とっとりライナー」、「シーサイドライナー」
【第四階層】小都市・町(郊外のベッドタウンを含む)への輸送を担う交通
博多南線や短距離支線を除くほとんどのJR線、概ね30km以上の私鉄各線、長距離路線バス
【第五階層】中心都市と近郊のベッドタウンを結ぶ交通・都市内の高速交通
地下鉄各線、経済圏の中心から伸びる上記以外の私鉄・路線バス
【第六階層】中心域以外の駅やバスターミナルを拠点とする地域交通
郊外の支線や経済圏の中心に乗り入れない路線バス

 そして、この第三階層まででせめて中国の高速鉄道くらいのネットワークが構成出来ているのが理想と考えている。この妨害をしているのが、他でもないモータリゼーションである。

 さて、路線バスやBRT以外の自動車交通は「点と点を結ぶ」特徴を持つ。自家用車も高速バスも、いずれも点と点を結んでいる。これが一つ目の問題点である。

 点と点を結ぶ交通は、文字通り二点間のスムーズな輸送には役立つが、地域の発展には役立たない。たとえば、最初の鉄道、いわゆる陸蒸気が新橋と横浜を無停車で結んでいたら京浜地帯の発展に寄与出来ず、京急線が品川と大師や羽田空港を無停車で結んでいたらインフラとしての能力が著しく低いと言える。しかし自家用車や高速バス、リムジンバスはこのような運用が為されており、インフラとしての役割を担えていない。なお、第一階層の高速鉄道や飛行機との違いは、速度が昔の特急列車ほども出ない点、つまり第三階層を担うべき速度にも関わらず点と点の輸送しか出来ない点にある。

 自家用車は更に顕著であり、バスターミナルすら経由しないため、何一つ地域の発展に貢献していない。全員が自家用車で移動するようになれば、百貨店などが揃っている必要が全く無くなってしまうので、「街」そのものが崩壊してしまうと考える。大きな駐車場と多種多様な店を揃えたイオンモールのような商業施設しか残らない未来も想像に難くない。

 二点目に、高速バスはインフラと競合し、需要を食い潰す点が挙げられる。

 高速バスは都市間輸送を担っているが、その間のインフラへの投資を行わずに運行できるため、極端に安く運用されている。そのため、階層を構成する交通の需要を食い潰しており、バスのせいで廃止に追い込まれ、あるいは赤字経営を余儀なくされるインフラも多く存在する。本来インフラは競合する必要は無い。NEXCOの他にいくつも高速道路会社が争っている必要が無いように、鉄道と高速バスが競合する必要は無いのである。鉄道の適正価格は電気やガスの様に国の審査を受ければ違法な値段にはならないだろうし、明治期には利益を上げられる都市部だけを運転する私鉄を規制してまで地方の鉄道・乗合自動車運用を進めていた歴史がある。これが無ければ、都市間輸送を行う鉄道が建設できず、鉄道が都市部のみにしか存在しない小規模な輸送手段になっていたかもしれない訳である。

 第一・第二階層レベルに対抗している高速バスに対しては、鉄道が速達性で優位に立てているため需要の激減にまでは至っていないものの、第四階層レベルに対抗している高速バスは、山田線に対する106急行バスなど、速達性でも本数でも価格でも鉄道を制しており、ネットワークを崩壊寸前まで追い込んでいる。このような例で大きな問題となるのは、利用者にとっては鉄道が廃止されてもさしたる問題にならない点である。災害時やバイパス手段としての有用性に気付いた阿佐海岸鉄道沿線のような例は非常に稀であり、不便な鉄道は廃止しても問題無いという風潮が未だに拭えていない例が多い。非常に自己中心的な考えによって既に多くのインフラネットワークが破壊されており、災害時の迂回輸送が出来ない危機的な状況を迎えようとしているのだが、どうも災害対策という考え方が交通インフラには及ばない様である。

 このように、「安いから」と利用者は飛びつき、「儲かるから」と事業者は高速バスを乱発し、「不便だから」と中心地の商業やインフラネットワークが崩壊し、結果的にその街まで不便になって人口減少が加速する悪循環が地方の至る所で展開されている。我々が安い物に飛びつくことは、環境以外にも様々な恐ろしい未来を作る一助となっていることは間違いない。

 最後に対策を考える。まず、速度は第三階層程度しかないのに第一・第二階層の需要を食い潰す高速バスや、第三階層以下の需要を食い潰す自家用車の入るべき所は無く、折角形成されたネットワークを破壊するこれらの自己中心的な輸送手段は可能な限り淘汰すべきである。例として、第四階層以下へアクセス出来ない場所との移動に限定して自家用車を許容する、自家用車は荷物運搬用としてのみ許可する、高速バスはそもそも廃止し、鉄道によるアクセスが不能な地域には路線バスを導入することなどを私は提唱したい。高速バスの廃止で需要が過剰になった暁には、増発コストの非常に低い鉄道を増発すれば良いだけである。そうすれば更に便利な街となり、活性化のスタートが切られるだろう。

 藤井先生のおっしゃる通り、これが明日の都市、そして国のための方策である。


学生による論文(47) 「私たちの唯一の故郷・日本を守るために」舟本 耀 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:43:57 | 教育のこと

「私たちの唯一の故郷・日本を守るために」 舟本 耀

 かつて「世界の工場」と呼ばれていた中国。今でもそのイメージを持っている日本人は一定数いて、日本>中国であるという考えを抱く人もいるだろう。しかしながら、実際に見てみるとそんなことは無いのだ。一般的に国力と言われる経済力や科学技術力、その国が国際社会に与える影響力等の分野それぞれについて見てみても、日本は中国に対して全分野で大きく遅れを取っているように思える。「東洋の奇跡」と呼ばれ後にも先にも類を見ないスピードで経済成長を遂げた日本がなぜそこまで落ちぶれたのか。そして、日本は中国の植民地と化す日が来るのか否かを私なりの視点で考えていきたい。

 日本が他の先進国にさまざまな分野において大きな遅れを取った理由として、日本人のグローバルな変化に対する感度の鈍さが挙げられる。はっきり言って、現在の日本は国際的な変化に乗り遅れたからといって短期的に目先のことで困ることはまず無いだろう。なぜなら、それは日本がこれまでに培ってきた経済力や技術力があるからだ。そのため、日本人がグローバル化などの世界の変化に対する遅れに危機感を抱く人が少なく、気づかないのである。そして、政治家は票を取るために高齢者向けの政策ばかりを行う。だからこそ、この国は退化の一途を辿る一方なのである。皮肉なことに、日本は自分自身の技術のために遅れに気づかず、気づいた時には世界から大きく取り残されてしまっていたのだ。

 そして、その間にも、世界は刻一刻と進化し続けている。例えば橋梁技術について見てみると、先生が前回の講義で例に挙げられていたように、かつて明石海峡大橋は世界1位の長さの吊り橋であったが、2022年3月に完成したトルコのチャナッカレ大橋に世界1位の座を明け渡してしまった。チャナッカレ大橋の竣工には韓国の企業が携わっており、少し昔であれば日本と韓国の技術力の差は歴然であったが、日本はいつの間にか韓国に追いつかれ、そして追い抜かれているのである。以上が、日本が国際社会に大きく遅れをとった理由であると考える。

 次に、日本がこのまま中国の植民地となってしまう日が来るのかについて考えていきたい。先生は今日の講義で「日本は中国にどんどん植民地化されている。」と何度も仰っていた。確かに近年の日本を見ていると、かつて「世界に誇る」と言われた日本の名だたる企業がいくつも中華系企業の傘下に入っている。NECや富士通のパソコン事業、TOSHIBAなどの大企業がどんM&Aされており、中国の対日M&Aは今後もますます加速していくと予想できる。簡単に、中国資本になるデメリットを挙げると、中国人の資本家が日本人労働者の給与の決定権を握り、日本人は奴隷のように安い賃金で働かされ搾取され続けるのだ。それに加えて、日本の企業が何十年とかけて培ってきた技術までもが中国資本に全て持っていかれる。それだけなら良いものの、国防に関連する軍事技術さえも中国資本に流出する危機がある。中国資本である限り、日本人は道具の1つに過ぎず、日本の機密事項が中国に流れ続けてしまうのだ。政府が歯止めをかけずに、このまま日本企業が中国資本にM&Aされ続けると、日本は中国の経済的植民地となり、国防にも大きな穴が空くことになるだろう。加えて、近年では水源等がある山林も中国人に買収されている。水源を外国に握られしまっては、その下流で暮らす人々の生活に影響を与えることは目に見て分かる。経済だけでなく実質的な植民地化も秘密裏に進められているのだ。

 日本は気づかずうちに中国に植民地化され続けている。これを止めるためには、今すぐに手を打っていくことが必要である。手遅れになる前に一刻も早く行動しなければならない。故郷・日本を守っていくことが出来るのは、私たちが最後の世代なのかもしれない。


学生による論文(46) 「環境への影響を正しく理解し、正しく評価することの重要性」 藤田 光 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:42:42 | 教育のこと

「環境への影響を正しく理解し、正しく評価することの重要性」 藤田 光

 今回の授業では環境について深く考えさせられた。環境においても色々とマスコミによって情報が操作されているため、様々な情報源に当たり、自分で考えていく必要があると改めて感じた。

 まず、太陽光発電についてであるが、小規模でも大規模でも比較的導入しやすい再生可能エネルギーと世間では言われ、近年急速に普及が進んでいる。しかし、太陽光発電は以下のように環境に悪影響を与えている。太陽光パネルの設置から解体までの過程で正しい対処ができない場合、環境破壊につながるケースもある。具体的には、メガソーラーを建設する際に、広い敷地スペースが必要であることから、森林伐採や周囲の生活環境を乱してから太陽光パネルの設置を行っているため、そうでもして太陽光パネルを付けるのなら、逆に環境を破壊していると言える。また、太陽光パネルを地下の安い安全でない所に設置をし、地滑りや土砂災害の問題になることや太陽光パネルの廃棄について放置・不法投棄問題も生じており、環境に悪影響を与えながら発電を行っている。加えて、太陽光パネルを設置すると自然の動植物が利用している反射光がなくなり、本来自然が利用しているエネルギーを搾取して太陽光発電に利用した分だけ悪影響が出る。具体的には、太陽光の2%を使うと希少生物か死に、太陽光の8%を使うと人間が栽培している生物を除いて自然の動物は全て死んでしまうそうだ*2。世間で良いと言われているものであっても環境に負荷を与えているものはあるということを再認識した。

 次に、今回の授業では、豊島の産業廃棄物不法投棄事件という日本史上最悪の不法投棄事件についても詳しく学んだ。まず、シュレッダーダスト、ラガーロープ、廃油、汚泥、廃酸、廃プラスチック、燃えがら、鉱さい、ドラム缶、タンクローリーで運ばれる得体のしれない液体物などの産業廃棄物が許可範囲外の土地にまで大量に持ち込まれ、野焼きが連日されていたというかなり悲惨な状況があったことを知った。しかも、専門家の調査で廃棄物の体積の各所にパイプが入れられ、パイプの一部が今も残り、開口部に鼻を当てたとたん強烈な悪臭が遅い、吐き気ももよおすことや不法投棄が終了してから10年以上経つのにもかかわらず化学反応により地中温度が40度から50度であるという恐ろしい状況であることを知った。今、横浜でこのようなことが起きたら横浜市の人は生活できなくなるし、東京湾の汚染が酷い状況になり、首都圏で生活することが大変な事態が起こりかねないと感じた。それと同時に環境問題が起きているときは、そのことをなるべく早く正しく把握することの重要性を実感した。

 また、今回の話を聞いて土木構造物を設計する際には、副作用を把握することの重要性を細田先生から学んだ。授業中に先生も取り上げて下さったが、まさに人工的に建設するダムがそうであると考える。

 人工的に建設するダムとよく比較して緑のダムがある。雨が降ると、木のないところでは、雨水は土と一緒に地面をそのまま流れてしまう。しかし、森林が生えているところでは、まず木の葉などでいったん雨水を遮断し、森林内に落ちた雨水は、地面を流れるものは少なく、森林の土壌に一度蓄えられる。森林の土壌は、落ち葉や落ち枝などが腐って積み重なることや、土壌中の飛び虫やミミズなどの小動物が土を耕したり掘ったりすることで、スポンジ状の土壌になっている。このスポンジ状の土壌が、雨水をゆっくり地中に浸透させるため、雨水が土や岩のすき間を通っていくうちに、ゴミが取り除かれている。そして、岩の成分が雨水に溶け込むことできれいでおいしい水が作り出されるという水源涵養機能があるという利点もある。その後、森林の土壌を通った後に、地下水となってゆっくりと河川にしみだしていくため、渇水や、河川の水量が急激に増えるのを防ぐことができる。また、森林は、光合成を行うことで、二酸化炭素を吸収・固定・貯蔵するという役割を担っている。さらに、森林の根が地面を固定することで、土砂災害を防止しているという利点もある。このように、森林は川をせき止めて水を貯めるダムと同じように、降った雨の水を貯える働きがあり、ダムと同じように、降った雨を貯めることで洪水を防ぐため、川の上流部の豊かな森林は「緑のダム」と言われており、さらには治水機能以外にも、前述したような様々な利点がある。しかし、緑のダムの治水機能は大きくなく、極端に大雨が降った時には、緑のダムだけでは、治水機能が不十分であり河川が氾濫してしまう恐れもある。

 一方で、人工的なダムには、大雨がふったときなどに、川の水があふれたりしないように、川を流れる水の量を調整する治水機能があり、緑のダムと比べて治水機能がかなり大きいという巨大なメリットがある。また、ダムがあることにより流れてきた土石流や流木を止める役割もある。加えて、ダムに貯め込んだ水を用いてかんがい用水、水道 用水、発電等に利用する利水機能がある。今回の授業では上記のメリットと関連してアスワン・ハイダムの事例をお聞きすることができた。アスワン・ハイダムは貯水量約1600億m3と世界第3位を誇っているダムである。アスワン・ハイダムによってハイダム湖による灌漑面積の拡大や二毛作の普及が起き、エジプトの人口増加をまかなうだけの食糧増産がなされた。また、これはダムではなく砂防堰堤の事例であるが、以前、細田先生から神戸の六甲山系において砂防堰堤を設置されたことにより、砂防堰堤設置前と比べ土砂災害から人々の生活が守られたということも学んだ。また、2013年の8月9日の豪雨では北上川の上流域において大規模な出水が発生し、特に御所ダムにはこれまでの最大流入量の1.7倍となる3733㎥/sが流入したが、御所ダムおよび四十四田ダムの洪水調節等によって下流河川の水位低減をしたという事例があり、仮にダムの建設をしていなかった場合、約11700戸の浸水、約5500億円の被害が発生していたと推定される*5。しかし、人工的なダムには次のようなデメリットがあり、ダムによる効果を考える場合、それらのデメリットをダムによる効果から減ずる必要がある。ダムの建設は自然生態系を破壊してしまっている側面もある。例えば、アユは川で産卵し、孵化した稚魚は川をくだって河口近くの海で成長する。成長したアユは春に川にのぼり、川石の表面についている藻類を食べながら成長する。この川を溯上しまた海へ下るというアユのライフサイクルは、ダムが存在すると遮断されてしまうということが挙げられる。さらに、ダムの建設には巨額なお金がかかる。加えて、ダムは土砂の供給にも影響を与えている。ダムに土砂が溜まってしまうため、河口付近では土砂供給がなく海岸線が後退してしまうという問題も起こる。

 以上のことから、土木構造物を含めたあらゆる構造物について、建設することによるメリット、デメリットが存在し、デメリットが小さくないことも多いことから、設置を検討する際にはメリット・デメリットをしっかりと評価した上で建設をするかどうかを決める必要があるということを再認識した。それと同時に環境問題について正しく知ることの重要性を再認識した。

【参考文献】
*1. 太陽光発電は環境にいい?悪い?環境に悪影響を及ぼす状況とその対策 SORAICHI MAGAZINE(2022年11月5日閲覧)
https://www.media.soraichi-fund.jp/sdgs/post-42.html
*2. 自然を破壊したい人は太陽光発電【武田邦彦の科学教室22】(2022年11月5日閲覧)
https://smilefriends.net/podcast/post-2501/
*3. 緑のダム機能(2022年11月5日 閲覧)
https://www.silva.or.jp/%E6%A3%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98-%E6%B4%BB%E5%8B%95%E4%BA%8B%E4%BE%8B/%E6%A3%AE%E3%81%AE%E5%8A%B9%E6%9E%9C/%E7%B7%91%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%A0%E6%A9%9F%E8%83%BD/
*4. ダムの目的・働き 北上川ダム統合管理事務所(2022年11月5日閲覧)
https://www.thr.mlit.go.jp/kitakato/01dam/mokuteki.html
*5. ダムの洪水調節により、水害を防止・軽減(2022年11月5日閲覧)
https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/dam/pdf/h2601kouka.pdf


学生による論文(45) 「人口減少が我々に与える影響 」 早川  智貴 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:41:07 | 教育のこと

人口減少が我々に与える影響  早川  智貴

 今回の講義を聞いて、一つ疑問に思ったことがある。それは、人口減少は我々にとって本当に良くないことなのかということである。ニュースなどで人口減少が取り上げられる場合、「克服しなければならない課題」など、基本的に否定的な意見しか言われていないため、私も人口減少はよくないことでしかないと思っていた。しかし、世界的に急激な人口の増加が大きな問題となっている中で、日本の人口減少も大きな問題となっていることに矛盾を感じ、人口減少によって生じる良い影響もあるのではないかと思った。そのため、以下では人口減少が我々に与える影響について考察していく。

 人口が減少することのメリットにはどのようなものがあるか。一つ明らかであるのは、環境が改善するということである。人口が多いとその分消費されるエネルギーも食糧も多くなるが、エネルギーや食糧をより多く生産するために環境を犠牲にしてしまっているというのが現状である。そのため、人口が減少すれば消費エネルギー、食糧が減って環境はどんどんとよくなっていくはずである。また、排出されるごみが減って、処理にかかるお金や処理時に発生する有害物質を減らすことができるというのも大きなメリットである。次に考えられるメリットとしては、個々人の幸福度が上がっていくということがある。人が減ると食糧に余裕ができるため、より安価でおいしいものが満足できるほど食べられるようになる。また、道路やお店で混雑することが少なくなり、普段の生活で感じるストレスが減っていく。このように、物質的にも空間的にも余裕ができ、一人一人に与えられる量が増えることで幸福度は上がっていくのではないだろうかと私は考える。さらに、国民一人一人の質が向上していくということもメリットの一つとして考えられる。人が減ると、いろいろな場面でそれぞれの人にかかる責任が大きくなるため、自分が所属している団体をよりよくしていくためにはどうしようと考える人が結果として増えていく。そうして質の高い国民が増えて、国が発展していくことも考えられるのではないかと思う。

 ここまでメリットについて述べてきたが、デメリットももちろん多く存在する。例えば、労働力が減少していくことは大きな問題の一つである。しかし、このことに関しては、様々なものが自動化してきている現代において、AIの技術が発達すれば労働力として使うことも可能になると考えられるため、どうにかできる部分もあるのではないかと思う。経済規模の縮小や国際競争力の低下など、国が大きく衰退してしまうようなデメリットも存在する。これらは、国内需要が減少することにって発生してしまうもので、どうしても避けることはできない問題である。

 正直、メリットとデメリットのどちらの及ぼす影響が大きいのか、私には詳しくわからないため、人口減少が良いことなのか悪いことなのかを断言することはできない。しかし、人口減少というものが避けられないものであるならば、デメリットばかりに目を向けるのではなく、状況をしっかりと受け入れ、メリットにも目を向けて、どうすればよりよい社会を作っていくことができるのかを考えていくことが大切なのではないかと私は考える。 


学生による論文(44) 「インバウンドに頼ることの危険性」 中村 亮介 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:39:13 | 教育のこと

「インバウンドに頼ることの危険性」  中村 亮介
 
 2022年10月11日、日本政府はそれまで続けていた外国人観光客への入国規制を大幅に緩和した。それ以降、日本のメディアでは外国人観光客が日本の街中や観光地に来ている様子を度々取り上げるようになった。政府がこのタイミングで入国規制を緩和したのは、これからの冬が日本の観光シーズンであることや、コロナ禍で打撃を受けた観光業を支援する目的があると考えられる。また、岸田総理大臣は外国人観光客による消費額の目標を年5兆円に掲げ、観光業だけでなく、日本経済にメリットがあることを訴えている。確かにコロナ禍前の2019年には外国人観光客による消費が4.8兆円であったことを考えると、この歴史的な円安も後押しすることで5兆円を実現することは可能であるのかもしれない。しかしながら、私はこのインバウンドが活性化することにはデメリットも当然あると考えている。何故なら、今日の講義で紹介のあったように良いことには必ず副作用があるからである。今から、それについて述べていきたいと思う。

 インバウンドが活性化するデメリットとして一番問題であるのは、それに頼りきってしまうということである。先に述べたようにインバウンド消費は日本の経済に大きく影響している。実際2019年はインバウンド消費によって4.8兆円、留学生などの長期滞在者によって2.7兆円、合わせて7.5兆円の経済効果が生じていたと試算され、これは年間の名目GDPを1.3%押し上げたことになり、かなり大きな経済効果であったと言える。しかしながら、コロナ禍により外国人観光客の入国がほぼゼロになったことで2021年の外国人による経済効果は3600億円にまで落ち込んでしまい、2019年と比べると約7.1兆円の経済損失が生じたことになる。政府はこの試算から外国人観光客に対して門戸を閉めることはデメリットが大きいと考え、入国を緩和したが、私は逆にインバウンド消費に頼らずに日本経済を立て直していく必要があるのではないかと考えた。勿論インバウンドによって観光業が潤うことは悪いことではないが、インバウンドに依存し過ぎてしまうと、コロナ禍のような有事が発生した際に大きなダメージを被ることになってしまう。いわば、インバウンドは一種の麻薬であり、このコロナ禍はインバウンド依存症から脱却するチャンスであったが、残念ながら今の政府はそのチャンスを活かせなかったと言える。

 今述べた私が考えるインバウンドのデメリットに対して反対意見は当然ある。その中で最近のインバウンドでは東京などの都会だけでなく、日本の伝統文化を体験しに地方にやって来る人もたくさんおり、地方の観光業で新たな雇用が創出されるなどインバウンドによって地方の活性化が期待されるという意見がある。確かに地方で新たな雇用が生まれることは東京一極集中への是正に繋がる可能性もあり、地方がインバウンドに期待することも頷ける。しかしながら、このような意見は先に述べたようにインバウンドが無くなった際には本末転倒であり、さらには地方の雇用そのものが外国資本に買収されてしまうといったリスクを持っている。講義で紹介のあったように北海道の水源や土地が中国資本に買われていることは有名であるが、既存のリゾートホテルなども中国資本に買われているのはあまり知られていないのではないか。実際、コロナ禍前では北海道に大量の中国人の団体観光客が訪れており、彼らの多くは中国資本のホテルに宿泊していた。しかしながら、コロナ禍で中国人観光客が訪れることがなくなり、経営危機に陥って破産してしまった所もある。代表的な例では、マウントレースイスキー場などを保有する夕張リゾートであり、中国資本に買収されたこのリゾートホテルはコロナ禍で経営難に陥り破産してしまった。夕張リゾートがある夕張市は炭鉱で栄えた都市であったが、炭鉱が閉鎖された後は、急速に人口減少が進み、唯一の頼みが観光になっていた。その観光の要であったリゾートホテルが破産してしまったことは、地元経済に大きな影響を与えることは間違いないだろう。このことは、夕張市がいわば中国資本の植民地になり、コロナ禍でインバウンドが見込めなくなると、経営から離れ、結果そこには何も残らない中抜きの状態にされてしまったとして世間でも話題になった。

 このように、インバウンドは地方格差是正に繋がるチャンスがある一方、ホテルなどの観光業が外国資本に買収されてしまう危険性を含んでいることが分かる。講義で紹介のあった、観光立国は没落の光景という考えに私は非常に納得した。これから、しばらくの間は円安と日本の魅力を理由に多くのインバウンドが訪れて来るに違いないが、これを上手く利用して地方格差を是正するのか、あるいは外国資本に植民地化されてしまうのかは今後日本政府や地方自治体が行う政策によって決まるだろう。インバウンドという日本経済への薬は適度に使わないといけない。


学生による論文(43) 『なぜ非本来的人間になってしまうのか』 中嶋 駿介 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:37:56 | 教育のこと

『なぜ非本来的人間になってしまうのか』 中嶋 駿介 

 講義で「非本来的人間」という考え方が紹介された。これは本来的人間の対となる概念であり、『存在と時間』でハイデガーが提唱した概念である。傲慢で自己閉鎖的な精神性(大衆性)を持つ存在であり、当事者意識をもつことが肝要な社会形成において好ましくない存在である。自己との対話を試みたときに自分は非本来的人間ではないと言い切ることはできないと反省した。自分が世界屈指の大都市を構成する一員であるという自覚に欠けていた(当事者意識が欠如していた)からである。

 東京圏は人口約3600万人を誇る世界最大級の都市であることが講義で紹介された。頭では理解していたものの、自分が世界最大級の都市に生きる人間だということを実感できていなかった。なぜ自分が大都市に生きる人間だということを実感できていなかったのかと自問自答したとき、あまりにも生きることが便利になってしまったからだという結論に至った。社会基盤の整備に伴い、ガス、電気、水道、食料などの生きていくために必要なものが簡単に手に入り、生きているという実感がなくなってしまったのだ。自分で植物を収穫し、獲物を狩猟していたかつての時代と比較すれば、生きることの便利さは一目瞭然である。

 このような「便利さ」を実現するに至った社会基盤の整備は、一般的には推し進めるべき対象であり、社会にもたらす好ましい影響がクローズアップされる。しかし、物事は表裏一体であり好ましくない面が当然存在しているのだ。社会基盤の整備により便利に生きることができるようになってしまうので、大衆性を持つ非本来的人間が誕生してしまうのだ。便利に生きることができ、かつそれが永遠に続くものと思い込んでしまうため、社会に無関心で社会で起きていることを他人事としか考えられない非本来的人間が誕生してしまうのである。

 では、能動的な意思をもって活力あふれる生き様を全うすることができるような、本来的人間になるためにはどうすればよいのだろうか。私は、「地縁」が重要だと考える。都市、特に東京圏のような大都市においては職場・自宅を往復するだけの単調な人生を送ってしまう傾向にある。便利に生きられる環境で単調に生きているようでは人生が退屈になり、非本来性が増してしまう。そこで、定性的な考察ではあるが、地縁を生かした人と人との直接的な交流を推進することが有効だと考える。「直接的な」というのが肝であり、コロナ禍で盛り上がりを見せたオンラインでの交流では不十分だと考える。

 私の家族は転勤族であった。7歳まで住んでいた東京から引っ越し、札幌で1年半を過ごした後に名古屋で6年を過ごした。そして現在は再び東京で暮らしている。引っ越しが多かった関係で、地縁が希薄な人生を送ってきた。特に、わずか1年半を過ごしただけの札幌における近所との交流は浅く、当時の記憶もほぼ残っていない。今になって思い返してみれば、北海道最大の都市である札幌もまた、東京圏ほどではないにしろ非本来的人間が多く誕生してしまうような環境になっているように感じる。引っ越しに伴って新しい土地で一から交流関係を築くには大変な苦労を要する。名古屋から東京に引っ越した際、友達がなかなかできず苦労した。そんな私が完全に非本来的人間にならずに済んだのは、地域のお祭りの存在であった。私が住む地域では毎年お神輿を担ぐ祭りがあり、そこでの地域の大人との交流が地縁を着実に構築していく契機となった。もしもこのお祭りがオンラインで行われていても、それは私にとってあまりプラスにはならなかっただろう。なぜならば、直接会って交わす会話や仕草はオンラインの電気的な信号では決して代替することができないものだからだ。このような実体験を踏まえて、大都市において本来的な人間性を獲得するために必要なものは地縁であり、その地縁は直接的な体験によって構築されるものだと考える。

 社会基盤の整備は「豊かな」社会を構築するために必要不可欠なものである。特に、大都市においては公衆衛生の観点からも重要になってくる。ただし、それは生きることをあまりにも便利にしてしまうという負の副作用も持っている。この副作用は、やがて非本来的な人間を誕生させてしまう。ここに、当事者意識が肝要な社会基盤の整備がかえって社会への無関心を生み出してしまうという矛盾を生じることになるため、副作用を可能な限り抑制することが求められる。その対策の一つとして、私は地縁を確立することの重要性を述べた。本来性と非本来性は分割して考えることができるようなものではなく、グラデーションのように連続的な変化を伴うものだと考える。その意味で、完全に本来性を持つ人間も完全に非本来性を持つ人間も存在しない。私自身、自分のことを本来性が十分に備わった人間だとは考えていない。少しでも本来性を備えた人間になるべく、日々研鑽を重ねて生きていく。


学生による論文(42) 「消滅か再興か」 竹内 基 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:37:03 | 教育のこと

「消滅か再興か」 竹内 基

 宮台先生と藤井先生の、社会に対する献身性や貢献性を欠いた人間が増え社会自体が消滅しかけている、という見解は私にとって非常に共感できるものだった。しかし、このような状況が加速するのは恐ろしいと思う一方で同時に、回避することの必然的な流れなのではないかという考えも私の中には存在している。特に日本においてはマスメディアやインターネットの影響もあり、日本がもうかつてほど経済的に力を持った国ではなく徐々に落ちぶれていくそのさなかにある、ということをなんとなく民衆が理解しており、社会全体がそういった暗い雰囲気に包まれているため、自分自身の将来に対する不安や焦燥から、自分だけはなんとか抜け駆けしなければという気持ちが起こるのも理解できるし、目先の欲求に身を任せて逃避に浸りたい気持ちも分かる。人間は高い社会性を持った生き物だが、自分自身を犠牲するかもしれない行動を迷いなくとれる者は、やはり少ないのだ。

 とはいえ、この社会の現状を放っておけば、日本という国は加速度的に没落していくことになるだろう。沈みかけている日本という船に乗り合わせている乗客の多くが、自分だけは沈むまいともがいている者たちと、もうどうにでもなれと考えを放棄した者たちなのだから無理もない。これ以上外敵が手を加えなくとも勝手に沈んでいくことは明らかである。

 もしこの状況を打破したいのなら、方法はただ一つしか残っていないと私は考えている。彼ら混沌とした民衆を束ね、社会に対する貢献性を回復させるほどのより大きな流れを作ること。そのために、教育の現場で社会に対する貢献を当たり前と考えられる子供たちを育てていくことだ。もう小手先の細かな手入れで誤魔化すことなど許されない段階まで事態は進行している。また、教育の改革が効果を発揮し始めるまでの期間を考えるともう私たち日本人には本当に猶予が残されていない。社会を消滅させるのか、あるいはより高い貢献性を持った人間による力強い社会に作り替えるのか。日本再興の最後の機会を掴むべく、自分自身も積極的に発言し、行動を起こしていきたいと感じた。


学生による論文(41) 「国境を超える環境問題 ー 大エチオピア・ルネサンスダムを例に」 庄司 尊 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:35:39 | 教育のこと

「国境を超える環境問題 ー 大エチオピア・ルネサンスダムを例に」 庄司 尊
 
 世界史において「アフリカの角」と呼ばれる地域がある。その名の通り、アフリカ大陸の東に突き出た半島であり、紅海とインド洋に面する海上交通の要衝である。現代の「アフリカの角」は、20世紀までの欧州諸国による植民地政策を経て、地域や民族間に複雑な利害関係が生じており、深刻な開発の遅れを抱えている。

 中でも私が注目しているのが、エチオピアである。エチオピアの国土は非常に急峻な地形で、南東部の平地から北部の高原地帯まで4000m以上の標高差がある。高地であるが故の植生の少なさから浸食が激しく、それが経済発展を阻害する要因となっていた。人口に対して得られる水・エネルギー資源が不十分で、少数の供給源に依存している、また地形のためにその保管が難しいという特徴は、わが国とも関係づけられる部分ではないかと思う。

 そのエチオピアで、2020年に貯水が開始されたのが、大エチオピア・ルネサンスダム(Great Ethiopia Renaissance Dam, 以下ルネサンスダム)である。ルネサンスダムはナイル川(青ナイル)の上流にあり、高さ145m、総貯水量740億㎥を誇る。同じナイルのアスワンハイダム(1620億㎥)には及ばないが、発電用としてはアフリカ最大のダムとなる。1995年のエリトリア独立以降、内陸国となったエチオピアでは、ナイルがほぼ唯一の利用可能な河川である。ダムによる年間の予想発電量は、現在の国内電力需要の1.5倍にあたる。エチオピアは、今後30年で2億に倍増する人口を支えるためにダムが必須の事業であるとし、それは「大エチオピア再生」というダムの名前にも表れている。

 この建設に反発したのが、同じくナイルに水資源をほぼ全て依存するエジプトである。干ばつがたびたび発生するナイル流域では、水の利用に関する枠組みがあるものの、エジプトとスーダンの2国間協定と、それ以外の協定に分かれており、結果多国間の合意が得られないまま、事業のみが進んでしまっている現状がある。水資源の安定的な配分ができなければ、増え続ける流域人口に対し、その需要を満たせないおそれがあり、人道危機が喫緊の課題として迫っている。

 同じナイルのアスワンハイダム、長江の三峡ダムなどの例を見ても、ダムがもたらす利益は莫大だが、代償も大きい。自然に手を加え、その恵みを享受すること自体は、有史以前からおこなわれてきたことである。しかし、経済活動はますますグローバルに展開し、その利害が国家間でからむ事例は数多い。

 環境とインフラの問題は、もはや一国家の対処できる問題ではない。利益も、またリスクも、影響を受ける者すべてに共有されるべきものである。リスクの当事者たるということは、自らだけでなく、他者の百年先、千年先を考えることのできる者でなくてはならない。こうした姿勢で、土木工学という非常に長いスパンの学問に向き合ってゆきたい。

資料:
AFP、【解説】ナイル川流域国で対立激化、エチオピアの巨大ダム
https://www.afpbb.com/articles/-/3291127?pid=22478153
日本貿易振興機構(ジェトロ)、ナイル川ダムめぐる周辺国の対立、背景には人口増加(エチオピア、エジプト、スーダン) - 地域・分析レポート
https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2021/e974d373b242acfd.html
Al Jazeera, Egypt angry as it says Ethiopia has resumed filling GERD
https://www.aljazeera.com/news/2021/7/6/egypt-angry-ethiopia-resumes-filling-gerd
Al Jazeera, Ethiopia’s Blue Nile mega-dam explained
https://www.aljazeera.com/news/2021/7/8/explainer-ethiopias-massive-nile-dam
いずれも2022/11/04-05閲覧

 


学生による論文(40) 『変化を嫌うな』 久保 智裕(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:34:15 | 教育のこと

『変化を嫌うな』 久保 智裕

 今回の講義のタイトルは「都市の巨大化と環境問題」であった。私は都市の巨大化とまず聞いて、真っ先に「変化」という言葉が浮かんだ。少し講義のテーマからは外れてしまうかもしれないが、今回はこの「変化」について述べようと思う。

 私たちは普段「都市」という空間で日々を過ごすだけでなく、「都市」という空間を形成する要素であるといえるだろう。ではその都市は常に同じ姿を見せているだろうか。いや、違う。「都市」は常に変化し続けているものである。これにはだれも否定はできないであろう。私たちの身近なところで日々変化は起きているし、わたしたちも変化しているのかもしれない。変化にまみれて暮らしていると言っても過言ではないだろう。

 そんな変化が身近な現代社会において、私は社会全体が変化を嫌っているような気がしてならない。特に社会基盤施設の建設などの公共事業や国の政策の転換などに関してはなおさらでそうである。新たにダムやトンネル、橋を建設しようとなると必ずやその「変化」に注文が入る。その理由として私が考えるのは、未来という不確定要素への不安が大きいということである。この先の将来・未来がどのように変化していくのかは誰にもわからない、神のみぞ知るものである。また1つの決断や政策は確実に未来を変えていくであろうが、それがどう影響を与えるかもわからない。そもそも不確実である未来を私たちの手で変えていく、これこそが不安なのであろう。しかも自分たちの税金が使われるものなら、失敗したり生活に悪影響を与えるのを避けたいと考えるのも理解はできる。すなわち安定した生活に対して不可逆的な変化を怖がっていると言えるだろう。

 では変化する・しないを決めるにあたり、私は様々な点から評価することが大切だと信じている。例えばダムの建設に関して考えてみる。ダムは1度建設すると灌漑・発電・洪水防止といったとても大きなストック効果を生むことは明らかである。1度建設して生まれた変化が、時間的に積分されてストック効果を生み出し続ける。一方で環境に与える変化も大きく、生態系に大きな悪影響を与えることは否めない。このように変化には短時間の「微分的」な効果も持っているのである。

 私は社会が変化することを躊躇う要因として、この「微分的」な効果ばかりに偏って着目し「積分的」な効果を軽視するなど、変化に対して誤った評価をしているからだと考える。正しい評価をすることで日本の将来をより良くする「変化」を選べるのではないか。もちろん、世の中全てにおいて変化することが良いとは思わない。講義でも紹介があったが社会は多面的であり、1つの面からは判断できないのである。それだからこそ様々な方向や時間軸からの視点を大切にした多角的な分析が必要になってくる。もし選んだ変化が社会に悪影響を与える、いわば副作用があればそれに対する配慮をしなければならないし、そこを含めた様々な議論が必要になってくるだろう。

 変化には可逆的なものはほとんどない。世の中の変化なんて不可逆的なものばかりだ。だからこそ私たちは日々変化を怖がって守りに入り、一歩踏み出すことを躊躇うのだろう。でも果たしてそれでいいのだろうか。ずっと今の状況が続いていく、これが果たして正解なのだろうか。現状に甘えてばかりではその先には闇が待っているかもしれない。勇気を持って一歩踏み出した方が明るい未来が待っているかもしれない。失敗なんて恐れず、変化した後うまくいかなかったらまた変化してより良い方向を目指せばいいのではないか。変化を極端に嫌う必要はない。議論をしてよく考えて決断した上での変化なら、きっとそれはうまくいく。私はそう強く思っている。


学生による論文(39) 「効率化と人間らしさ」 木崎 拓実(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:33:19 | 教育のこと

「効率化と人間らしさ」 木崎 拓実

 人間は、特に産業革命以降、都市に大人数が密集して住むことで、生産や輸送にかかる費用、エネルギーを効率化させてきた。その中で、上下水道の整備や交通渋滞などの問題が発生し、それらへの対処を試み、さらに効率化することで現在の都市の形ができた。では、もし都市における問題がすべて解消され、完全に効率化された都市というものができた場合、それは人間にとって住みやすい環境だといえるのだろうか。私には、そうは思えない。ここでは、住みやすく落ち着くと感じるような環境を人間らしい環境と呼ぶことにして、人間らしい環境について考えていく。

 まず、人間らしい環境整備の例として、東京都の清流復活事業について述べていく。東京都では、下水道が普及する以前から多くの人が生活していたため、ごみやし尿などが目黒川や玉川上水などの河川、用水に流されていた。また、戦後になると道路の舗装などにより流量が減少したこともあり、水質が悪化し、ひどい臭いを発するようになった。そこで、東京都はこれらの河川などをコンクリートの蓋などで暗渠化することで臭いを抑え、下水道として利用することにした。このような方針に対し、市民から親水空間の整備や自然保護を求める運動が高まった。そして、管路による下水道も十分に整備が進んだこともあり、1980年代から、河川や用水の蓋を外し、下水を高度処理することで流量を確保する、清流復活事業が行われている。さらに、東京都の事例が皮切りとなり、同様の事業は全国で行われている。

 この清流復活事業では、ごみやし尿を川に流して処理したという点と、臭気対策として河川などを暗渠化するという点で、東京都は効率性を重視した方針をとったといえる。しかし、この方針に対し市民が親水空間の整備などを求める活動を起こし、河川や用水の復活につながった。ここで、市民が運動を起こしたのは、河川などが見えなくなった状況に対して、言葉で表現しづらい違和感を覚えたからだと思われる。親水空間の整備などの要望は、違和感を覚えた人が集まって、その感覚を共有していく中で生まれるものである。この違和感こそが、人間らしくない環境に対する反応なのだと考える。

 他にも、人間らしくない環境には、徒歩での移動が激減した自動車社会や、自然の少ない都市、家族や友人との関わりが少ない環境などが挙げられる。そして、原因が解決されない場合、環境への違和感を抱え続けることになる。よく都会の人は冷たいとか言うが、この違和感が解消されないことが原因の一つなのではないかと考える。

 このような違和感は取り除くべきである。そのためには、まず、人間らしい環境の要因について調べる必要がある。例えば、清流復活事業では、山から湧き出た水がそのまま流れているのではなく、高度処理を施した下水が流れている。ここから、人間らしい環境には、たとえ人工の水だとしても、流水が目に見えることが重要なのだと予想できる。
また、ここまで述べてきた、違和感や人間らしさなどの概念は、数値化しづらく、客観視しづらい。そのため、他の人と共有したり、説得したりするためには、別にデータが必要になる。例えば、ここで人間らしくない環境とした場所付近の居住者の行動を調査し、他の地域の人のそれと比較したデータなどである。

 日本は、高度成長期を経て様々な面で効率化されてきた。居住空間では、ニュータウンや団地が建設され、商店街からショッピングモールへ商業の中心も変化した。また、情報化が進み、新型コロナの影響もあって、在宅勤務も進んだ。このような効率化を、人間らしさの欠如とみて、社会問題の一因としてみる意識も重要なのではないだろうか。