「わからない」 大河原 知也
日本語はとても異質な言語である。4世紀後半に中国から朝鮮半島を経て伝わった漢語、9世紀初めに漢文を和読するために訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まったカタカナ、和語といった3つの異なる言語の組み合わせの言語である。日本における漢語とカタカナは「いつ」・「どのように」成立したのか、ほとんど明らかになっているが、和語(やまと言葉・日本祖語)に関してはその成り立ちはまだ明らかにできないでいる。アルタイ語族(トルコ語やモンゴル語が含まれる)説を主張する学者は他の語族説を主張する学者より多く、類似性の高い分野もあるが、基礎語彙については同系統とするに足るだけの類似性は見出されていない。オーストロネシア語族が日本祖語を形成するうえで重要な役割を果たしたことについて、多くの論者が同意しているが、それを単なる借用とみなすのか、系統関係の証拠と見るかについては合意に至っていない。
つまり、こうやって今使っている日本語はわかってないことだらけである。そもそも言語学上の未解決問題に「語の普遍的定義はあるか?」「文の普遍的定義はあるか?」「ヒトはいつ、なぜ、どのように言語を使用し始めたのか?」などと言ったものが存在しているように言葉についてもなんにもわかっていないのである。ここでいう「わからない」は解像度の高い「わからない」である。プロの学者が何年かかけて膨大な量を検証した上で「わからない」ことがわかったということであり、我々素人が「日本語の起源の本読んだけどわかってないことがわかったわ」と言うのとは圧倒的にわけが違う。
高校までの学問では、「学問は正解に向かっている」ものだと思い込んでいた。大学に入ってから専門性が高くなるほど「経験式なので正確なものではないがかなりの精度で一致します。」「つい最近までこの方法を取っていたが間違えていたことに気付きました。」といったものをちらほら見かけるようになった。初めは「なんだよ、なんもわかってねーじゃん!」と思っていた。違った。とても高い解像度での「まだわかりません」は十分評価に値する。
人間の都合お構いなしに火山が噴火したが、その時の気象庁の対応。「津波かどうかわからない」「メカニズムも不明」。この会見は深夜だったが私は眼を輝かせて見ていた。太平洋の津波災害を何度も受けてきたこの国の気象庁が「わかりません」といったのだ。またその中でできることを最大限してくれた。解像度の高い「わからない」であった。私の見える範囲ではこの気象庁の対応にポジティブな反応を示す人が多かった。
では一般市民の土木への解像度はどうであろうか。言語のように当たり前に存在し、当たり前に使っている。ただしインフラと言語と違うのは必ずしも自然発生したものではないということ。自然言語とは違い、誰かが目的をもってその事業を行なったはずだ。一般市民はどれだけそのインフラの意義を、誰が、どのようにして行なったのかを理解しているのか。何もわからない人が多数いるであろう。このことは改善されるべきだ。最低限「ここまで調べたんだけど文献も見つからなかったし、こっちの本は読んだんだけどよくわからなかった。」といったレベルの解像度まで市民の意識を向上させていく必要がある。
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