細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(140) 『読書論』 落合 佑飛(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 09:02:48 | 教育のこと

『読書論』 落合 佑飛

<目次>
はじめに
大学生が本を読むべきこれだけの理由
インターネットが読書にとって代われない理由
本を読めない理由は何か
マッチング・サプリ
焦燥
まとめ
追記
 

はじめに

 本を読むべきだ、ということはよく言われる。しかし、よく言われるということは多くの人が実現できていないからである、ということに他ならない。今回は、読書が必要だと考える理由と読書ができない理由の両面から読書論を書こうと思う。読書についての本は多くの文筆家が古今東西を問わずに書いている。私自身の読書論はこれらと比較すれば足元にも及ばないのだろう。しかし、私も一人の読書好きとして読書についての自分の考えをまとめてみたいのである。


大学生が本を読むべきこれだけの理由
・幅広い知識を身に着けることが必要である
・時間が余っているのだから
・考えの多様さに触れる
・巨人の肩に乗る

・幅広い知識を身に着けることが必要である
 大学生というのは幼稚園や小学校から続く教育機関の最高峰である。大学生は大学の期間を過ぎれば知識をどんどん活用していくことを要求される。我々が純粋に学ぶことだけを志向しできるのは大学生までである。では、どんなことを学べばよいのか。
 専門科目や自分の好きなことだけを学んでいても視野の狭い人間になるだけである。多彩なジャンルから本を読むことで、どんな問いを立てられてもそれに対する答えを考える際の出発点を持つことができるようになる。自分の専門に通じているだけではその知識の使い方を誤ってしまう。その最たる例が核兵器である。核兵器の開発はどんどん進められている。中には民間に払い下げられて我々の生活に資するものもある。それでも核兵器を作ってしまった科学者の罪は重い。彼らは自分の原子の研究の外側に何があるのかを理解しなかった。彼らは人の痛みを想像できなかった。ただ上から言われたから開発しました、では済まされないのである。今や核兵器は世界中の人を何度殺せるかしれないほどの質・量を誇るようになっている。我々の社会は科学者の人間の生への決定的な無知によってこれほどまでに脅かされているのである。
 我々大学生は、自分自身の幅広い考察を助ける手立てとして、研究や権力の暴走を止めるための手段として、普段から幅広い知識を身に着ける必要があると言える。

・時間が余っているのだから
 大学生はみな総じて暇である。忙しいというのはまやかしである。すべて自身で選んだ決断だからだ。例えば、バイトやサークルは自分の力でコントロールできるものである。あまりに家計が貧しく、自分で学資から食費まで賄わなくてはならない一部の学生を除いては、自分でシフトは調整できるし、サークルが忙しくて大変ならやめればよい。飲み会が嫌なら行かなければいい。これらで忙しいというのはバイトに行くという選択やサークルに行くという選択、仲間とお酒を楽しみたいという自らの決断から生じているものである。その意味で、忙しい大学生も大体は本質的には暇である。自ら用事を入れたから忙しいのであって、向こうからやることが押し寄せてくる社会人とは忙しさの質が違っている。だから真に忙しくなる社会人になる前に、本を読んでおこうとアドバイスするのである。自分たちが通ってきた道だからこそ見えるものもある。先達の話に耳を傾けるということは価値のあることだ。

・考えの多様さに触れる
 いろいろな本がある。ある本はAはBだと主張する、しかし一方の本はAはCであると主張する。人々は同じ事実から考察を出発しても、判断は分かれることがある。多くの判断項目の中から何を重視するかがその人の価値観であるが、これは本を読むうえでもあたっている。事実は一つでもそこから見えるものは一つではないから、当然結論は変わってくる。ああ、自分とは違った着眼点やアプローチで問題を解決する人がいるのだ、ということを肌感覚で体感できるのである。
 これ以外にも、私たちの間で考えが分かれることがある。同じ本を読んでいるのに感じ方が違うことがある。多様性とは生態系とか政治とか、そんな高次な話だけではなく、自分たちの身の回りにもあふれているものだと気づくことができるだろう。

・巨人の肩に乗る
 本を読むことが大切であると言える大きな理由の一つが巨人の肩に乗ることができるから、である。巨人の肩に乗るとはどういうことであろうか。
 我々が経験から学べることはそう多くない。私たちの短い人生で経験できる事象には限りがあるからである。そこで私たちは他者の経験からも学ぼう、と考えることになる。これが巨人の肩に乗る、ということである。愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ、という格言があるが、まさに賢者が歴史を学ぶ際には読書という形態を採って行われる。歴史とは人々の成功と失敗の積み重ねであり、ここから学ばないものと、ここから学ぶものとの間に大きな差が生まれることは致し方ないことである。歴史に学ぶこと、それすなわち他者の経験に学ぶこと、であるが、この手っ取り早い方法が本を読むということである。いろいろな人から学ぶことで他者の経験や考えすら自分のものに取り込むことができる。その結果、私たちの視点はうんと高いところに持ち上がり、まるで巨人の肩に乗ったかのように広い視野で物事にあたれるようになるのである。

 さて、ここまで四つの項目に絞ってなぜ読書をするべきなのか、を述べてきた。しかし、ここまで内容に対して、特に論説文などについては「読書という手段でなくてもいいのではないか」という反論が当然あるだろう。
 確かに、情報を得る、という目的だけであるならばインターネットや人づての情報でも構わないだろうと考えるのも無理はない。情報は一見等質だからである。
 しかし、考えてみてもらいたい。インターネットが爆発的に普及したのはここ10数年の話である。そしてこの歴史の浅さや歴史の近さこそがインターネットの信用の低さにつながるのである。


インターネットが読書にとって代われない理由

・歴史が浅いから
・歴史が近いから
・匿名性

・歴史が浅いから
 なぜ歴史が浅いと信用に値しないのだろうか。それは、歴史が浅いということは情報量に年代別の偏りが生じているからである。同じ情報でも、本の情報は消費財ではないことが多い。事実今でも源氏物語は現代語に訳され多くの人に読み継がれている。ところがインターネットの情報はすべてそうではない。なぜなら源氏物語が執筆された時代にはインターネットが無かったからである。インターネット上の情報はすべてインターネットができた後の人間による捜査があって存在するのである。だから同じ源氏物語でもインターネット上のものは翻訳の他にインターネットに乗る、という情報を付与されている。その意味でインターネット上のクラッシックはネオ・クラッシックとでも呼ぶべきで、原典とはすでにその性質を異なものにしているのである。
 しかし、ネオ・クラッシックとなったインターネット上の情報は粗悪なのであろうか。私はそんなことはないと考えている。しかし、読書の意義である、多様な価値観に触れる、であったり巨人の肩に乗るであったりといった読書によって得られる効果とは異なるものであることを指摘しているのである。現代の人が、一度手をまわし、二次創作のような形で分かりやすく紹介されているクラッシックは、クラッシックの意義がその分かりにくさにあることからもまったく異なる性格のものであることを指摘したい。すなわち、多様な価値観に触れる、ということを目標にしているのだから、作者の考えや息遣いにより近い形態で作品に触れるべきで、それには読書という形態が一番いいのである。
 以上、文学や歴史において、その時代の風俗等を学ぼうとする際には、その時代に存在しなかったインターネットというツールを利用してしまうと現代というフィルター越しにしか見られなくなってしまうのである。そして、その状況は望ましくなく、こうした状況を回避するためには読書の方が有用であるのである。

・歴史が近いから
 そうは言っても、と思っている人もいるのではないだろうか。翻訳は現代の人がしているのだからインターネットに上げるのと同等だろう、という指摘である。これにはインターネットというツールの歴史の近さという観点から反論できる。
 一般に現代史では直近の出来事は扱わないそうである。それはなぜか。それは直近の出来事はどれが重要でどれが重要でない出来事かを判断することが難しいからである。例えば、アウトバーンは、ナチ党が率いていたころには100%正しいと信じ、評価されていたことだろう。ところがそのままドイツは戦争に突入した。造った道路が人を殺すための戦闘機の滑走路として代用されたり、強制収容所関連の物資や囚人を運んでいたりした可能性を考えると、100%正しいと考えていた当時の判断は100%間違っていたことになる。“現在”から近すぎる過去は何が本質化を見抜けなかったり、一時的な利害に惑わされていたり、その後の大きな問題を惹起していたりして評価ができないのである。映画館でスクリーンに近すぎる席に座った際に全体が見えずに難儀する、あの状況が歴史にも起こっているのである。
 さて、インターネットの評価についてだが、インターネットの歴史が近すぎる、という点からまだ評価をすることはできない、という結論に至る。インターネットは世界中の人を瞬時につないだ一方で、無差別テロのために悪用されたり、身近なところではいじめのツールとして強力に働いたりしている。これだけ多くの人を巻き込む巨大なパラダイムを今ここで評価することはできない。したがって、インターネットで得られる情報が本に比べて劣るか、という問いには直接は答えられないことになる。
 しかし、インターネットがまだないころ、我々の先祖は偉大な功績を残し続けてきた。当然学習方法はインターネットではなく読書である。インターネットが神の使いか悪魔のささやきかはっきりしない一方で、本は有用であることがはるか昔から明らかになっている。これこそが読書の強みである。インターネットに存在する近すぎて正しいか間違っているかすら判断できない情報群やインターネットそれ自体の功罪も判断が付かないなかで、本の実績は圧倒的なものである。100年後ならいざ知らず、現状では本はそのツールとしての強みも保持しているのである。

・匿名性
 最後に触れるのがインターネットの匿名性である。これは言い古されていることではあるしこれに対する対応策を練っている心ある発信者もいるだろう。しかし、全体として書籍よりもインターネット上の方が匿名での情報発信が多い。匿名性の問題点はすでに言い尽くされているので深くは触れないが、無責任な放言や誹謗中傷の温床となる。当然、インターネット全体の信用度は落ちるだろう。ツールや使い方を間違えなければ力を発揮するインターネットだが収集できる情報の質に細心の注意を払わなくてはならず、読書よりも情報を受け取る際に気を付けなくてはならないことが多い。

 情報は等質に見えるが、責任の有無によって重みづけがされているのである。
 さて、ここまで読書の有用性や優位性について見てきた。ここからは本を読めない理由について迫っていきたい。
 実は本を読めない人は二つのパターンに分けられる。一つ目のパターンが本を読む必要が無いと思っている人である。二つ目は本を読みたいけど読めない人である。本を読めている人、というのがそもそもレアなので、私含め多くの人がこのどちらかのケースに含まれるだろうと考える。


本を読めない理由は何か

・読書に価値を見出していない、必要ない
・日ごろからの習慣が無い
・新しい知識を受け入れる営みである
・能動的な行為
・前提条件を理解していない

・読書に価値を見出していない、必要ない
 読書は無駄である、と考える人も中にはいるだろう。あるいは、自分のライフサイクルを変えてまで本を読もうとは思わない人もいるだろう。自分の生活の中でさして読書の必要性を感じていない人は、読書を始める前にどうしてそう考えるに至ったのかを考える必要がある。人それぞれ理由はあるだろうが、これまでの生活の中に組み込むほどには本を読むことに価値を見出していないから、であろう。そして、今もそのように考えている人にこうした人に本を読んでください、ということは難しい。そもそも、本を読もう、とどれだけの人が本気で考えているのだろう。本を読むのが好きな人ならいざ知らず、本を読むことを手段ととらえる大多数の人にとっては必要に迫られなければ読書をすることはないだろう。だから、今本を読めない人は本を読む必要性を感じていないと言える。その人の日々の生活の中にはもっと優先順位の高い事物があるということだろう。日々の生活の中で読書が最も優れた方法だと感じられないからこそ本を読まないのだろう。
 ここまでをまとめると、読書に価値を見出していない人は、読書の必要性にも迫られていないため、読書をしなくても生活を組み立てていける、ということである。

・日ごろからの習慣が無い
 しかし、そんなことはない、本を読むことが有意義であることは理解している、とこういう人の中にも本を読むことができていない人はいるだろう。
 ところで、私たちは毎日歯を磨いたり授業に出たりバイトに行ったりしている。これはだんだん習慣になってくるものである。歯磨きくらいはどんなに忙しくてもやる、という人がほとんどだと思う。歯磨きをしないと気持ち悪くて眠れない人は、それが習慣になっている。読書だって歯磨きくらい分の時間から始めてみればいいのである。俗に言われることだが、ゼロをイチに変えるのが難しいのであって、その行為自体が難しいのではない。すなわち、普段本を読んでいない人が急に読み出すから難しいのであって、慣れるまでは大変だと観念してゆっくり読み進めればだんだんと読めるようになるのである。いきなりは本を早くは読めない。これは仕方ないことだろう。毎日少しずつ楽しめればいいのではないだろうか。

・新しい知識を受け入れる営みである
 我々はハチに刺されるとアナフィラキシーショックになることがある。また、ある食品を食べると蕁麻疹が出たり呼吸困難になったりすることある。我々の体は異質なものを迎え入れることが苦手である。異質なものが自らを攻撃してくるかもしれないからである。
 読書という営みは新しい知識を受け入れるという営みに他ならない。そして、このことは自分の中に異質な価値観を取り入れるということである。本を読むという営みは自分の中にすでにあった知識や経験からなる価値観と、筆者の価値観とのすり合わせの作業にほかならず、これが読書を大変にする要因である。自分の中に未知の考え方や概念がポンポンと放り込まれてくるとびっくりしてしまって受け入れられないことがある。我々が著者や他者の意見に対して否定する気持ちから入ってしまうことがあるのは、自分自身が異質な考え方を受け入れる体制が整えられていないからであろう。読書も他者の意見に晒されるという点で大変体力のいる作業であるから、ここがネックになって読書に二の足を踏んでいるのかもしれない。特に新書などの論評文を読むときには自分の考えをどこまで変えていいものか分からないこともあって、難しいと感じるのではないか。

・能動的な行為
 テレビやスマホからの情報にも有意義なものはあるだろう。しかし、これらは自分から求めているものでは無く、相手から与えられるものである。自分にできるのは与えられた情報を受け入れるか否かだけである。一方読書は自分から絶えずページを繰っていかなくてはならない。これは自分の意志からなる行為であり、自発的かつ能動的なものである。ゆえに情報を得る手段であるという点ではテレビやスマホと同じでも、自分の意志で能動的にその情報を獲得しなくてはならないというのが読書が困難になる理由である。仮に読書に価値を認めても、自分から読まないといけないとなると挫折してしまうことがあるだろう。

・前提条件を理解していない
 論説系の本はある事象についての批評をしているだろうし、小説ならば風刺をしていることもある。意見や意図が無ければ文章を書くことはない。筆者がある考えに至ったり、文章を書いたりするにあたっては必ず下敷きとなる思想がある。基本的に、筆者はある考え方Aに対して賛成反対の表明や、AでなくBであるというような反論・批評などをするべく文章を書いているのである。そして、我々にはそもそも考え方Aを詳しく知らないがために、筆者の主張が根本から理解できないこともある。こういう時には本の中で言われている前提条件を理解していないので本の内容も必要以上に難解なものになってしまう。よって私たちは文章を難しく感じるのである。

 さて、ここまで5つの項目を見てきた。ここまでの内容は、私自身の読書経験から来る体感と、読んだ本の内容から敷衍して構成されている。


マッチング・サプリ
 では、次に私がどうやって本と出会っているかを紹介しようと思う。これは私のやり方が素晴らしいから紹介するというよりも、他の方法があれば教えて欲しいと思うから書くのである。とはいえ本の選び方がいまひとつ決められないという人にとっては、この項目が本とのマッチングの処方箋(サプリ)となるかもしれない。
・ぶらり
・おすすめ
・古典
・著者

・ぶらり
 私は本屋であれ古本屋であれぶらぶらとその店内を散策するのが好きである。この項では私がどのように本屋をぶらぶらして本を選んでいるのかを書いてみたい。
 まずお店に入るが、この時荷物は軽く、バックのキャパシティーと時間に余裕がある状態が望ましい。読みたい本に出会うには時間が掛かることもあるからである。また、肉体的に疲れてくると早く帰りたくなるので、コンディションには多少注意を払うほうが望ましい。
 本屋に入ったらどこか気になった通路を歩く。私は、古本屋などであれば安いコーナーから順にみていく。目当ての本があるわけではないから、安い本で満足できるならそれが素敵だろうと思ってしまうからである。
 ある本に目が留まったら、とりあえず手に取ってみるか決める。うーん、いいかな、と思えばそのまま素通りすればいいし、ちょっと気になる、と思うならとりあえず手に取ってみればよい。
 もしその本を手に取ったのならば、次は開いてみるかを決める。表紙をちらっと見て、やっぱりいいかな、と思えば元に戻すし、ぱらぱらっとページを開いてみることにすることもある。
 次にパラパラめくって考えるのはこの本を読みたいかである。特に古本屋では本によって値段が違うから、値段との兼ね合いもある。100円だからお買い得だし買おう、と思うときもあれば、面白そうだけどその値段なら新品で欲しいからいらない、と判断することもある。
 むろん値段だけで判断するわけではない。この本はとっても面白そうだ、と思ったらその場で読んでみてもいいし、すぐに購入することに決めてしまってもいいだろう。古本屋などは特に争奪戦だから、次回来た時に買おう、という考えは甘い。私自身、この前の本あるかな、と古本屋を訪れると、陳列がまるっきり変わっていて落胆したことがある。本との出会いは一期一会だと痛感した。
 さて、このように歩き回っていると手元には数冊の本が残る。手元に残った本は現在自分が抱える問題意識の塊である。自分が何に悩んでいるのかを知りたいときにはこの過程を踏んでみると面白いのではないかと思う。私自身も、毎回少しずつ購入するジャンルの本が異なっていることに気づき興味深く思っている。店頭の本との出会いだけでなく、自分の感情もその時限りのものなのである。
 また自分のお金で買った本だから、もったいないので読もうと思うことになるだろう。読む動機が無い、という人にもおすすめの方法である。
 一つデメリットがあるとすれば、自分の読む本のレベルが分からないことである。例えば私は源氏物語に詳しくなりたい!と思ったことがあり、ちょうどよさそうな本だと思って購入したが、原文の中の“ぬ”などの文法的な用法などを紹介する本で早々にあきらめたことがある。上記の通りすべての本は他の本や著者、社会など様々な物事との関係の間にあるので、前提条件を理解していない本を購入してしまうと大変である。

・おすすめ
 他の人がおすすめした本を読むのは有意義である。他の人におすすめしたくなるくらい面白い、と思っている本だからである。実は、他の人に本をおすすめするのは緊張する瞬間である。それは自分の価値観や読書歴がばれてしまうからだ。だから、本を紹介してくれた、ということはその本が自分の中で自信をもって素敵な本だ、とかこの本の考え方には賛成できる、と思っている本を紹介していると思ってまず間違いない。だから他の人が紹介してくれた本を読むことは、おすすめしてくれた人は少なくともいい本だと思っているという点で自分ひとりで選ぶよりも一人よがりになりにくいのである。
 デメリットを上げるとすれば、全くかかわりのない本を紹介されることが多いため、読み始めるまでの気力がわかないこともあることである。あるいは、紹介する人が気を利かせて、あなたはこういう本が好きそう、という先入観で紹介してくれることもあるので、そうすると自分の読む本に偏りが出ることもある。

・古典
 基本的にハズレの無いチョイス。有名な本を読むのはいいことだろうと思う。古典は長い年月をくぐる抜けてきただけのパワーがあると思うからだ。しかし、古典は読むのがとても大変なので時間と気力が必要なことも多い。ただ、古典的小説の中には『走れメロス』や『羅生門』など短くて楽しいお話もある。はじめから難しいお話にアタックしなくても、短くて素敵なお話はあるだろう。

・著者
 何冊か本を読んでいくと、この人の本は面白い、と感じることがある。そう思ったらその人の本を探してみるのもよいだろう。同じ人が書いているから、同じような面白さが期待できるためである。私自身、この人有名だし読んでみようか、という気持ちで購入を決めることもある。この決め方は比較的小説を読む際に多いように思うが、論説文を読むうえでも有効な決め方で、メリットとしては筆者の考えの変遷が垣間見えること、筆者の文章のクセを予め分かっているので読み進めやすいこと、著者の考えの基盤となるものが見えてくることによって一冊目より二冊目の方が理解がしやすい可能性があることが挙げられる。
 デメリットとしては初めからはこの方法を使えないことである。数冊読んだくらいではどの本が面白いのかを掴むことは困難である。だからこの人の他の本も読みたい、と思えるだけの著者にすぐに出会えるとは限らない。
 以上私が普段している本の決め方を紹介した。それぞれメリット、デメリットがあるが。この決め方は本が手に取れるところならどこでも使えるので、図書館でも使える。たくさんの本の中から面白そうな本を探す作業は私には宝探しのようにも思えて面白い。


焦燥
 私自身の読書量は多くないだろう。それでも、私は自分が読書好きだろうと思っている。読書をしているうちは楽しいし、ついつい本屋に立ち寄ってしまう。そしてぶらぶらしてしまう。ただ、私が一生のうちに読める本は全体の0,000001%にも満たない。古典、名著、必読書、多くの人がおすすめするあの本から、図書館の閉架で眠るその本まで、私たちはどれだけの本を読んだとしても本を読み切ることはできない。中には本をよく読む人と、本をまったく読まない人との間には0,000001%分の違いしかないのだから、本を読もうと読まなかろうと変わらないことだ、と思う人がいるかもしれない。自分の限りある人生の時間でこの0,000001%を積み上げることの意味はどこにあるのか、読書の理由を見失うこともあるだろう。それでも、私は読書は人の人生を豊かにする効果があると信じている。多くの本の中から今私の手元にある本との出会いは運命だろう。この本は私がまだ持っていないものをもたらすものであり、私のために選ばれてやってきたのだろう。この本の中には自分の糧になるものが埋もれているのだろうと私は信じる。


まとめ
 今回のレポートでは、なぜ読書が必要なのか、から考察を始めた。読書が必要な理由は自らの知見を広げ、物事を多角的にとらえることができるようにするためであった。また、先人たちの成功や失敗から多くのことを学ぶことで我々の生活に還元することを目標とするものだった。
 しかし、こうした内容の営みは読書という行為以外からでも達成できるのではないか、という反論を生むだろう。そこで、インターネットが読書に変わることのできない理由を歴史の浅さと近さ、匿名性に焦点を置いて紹介した。インターネットの歴史が短いために、インターネット上には近年の情報ばかりが集まっていること。そしてこうした近年の情報は歴史の審査を潜り抜けていないため何が本質か見抜くことが難しいことが挙げられた。この他、匿名性の問題も見逃せない。
 こうして考えると、読書には歴史と実績があり、インターネットにはない信用と有用性があることが分かってくる。そこで読書をどのようにしたら円滑に進めることができるのか、読書をするにあたっての阻害要因を考えた。
 阻害要因は5つの項目に大きく分けられるが、私が今一番痛感しているのは前提条件を理解していないため、という項目である。多くの本に触れてみようと心がける中で、その本の言っている当たり前のレベルに自分自身が達していないことがある。こうした文章を読むときには何が何を指しているのかを一つ一つ拾い上げなくてはならず、難しい本だと感じる。
 この自分と本との間にあるレベル感の差を生み出しているのが私の本の選び方であった。4つ程紹介したが、これらは独立というわけではなく、ただぶらぶらしていたり、ぶらぶらしながらある作家さんの本を探していたりといろいろである。本を探すことも本を読むこともどちらも楽しいことである。読書は私たちの知見を広げてくれる。
 言ってみれば、読書家は鉱夫である。まだ見ぬ世界を一頁ずつ掘り進めて行くのだ。


追記
 前回のレポートでは啓蒙に対する批判的な考え方を述べた。啓蒙には「啓蒙するだけの力があること、その力に対して自己批判があること、啓蒙の内容を絶えず磨き上げること。」の三つの力が備わっていることが大切だと述べた。
 今回の私のレポートには啓蒙臭さがある。本を読む私と読まないあなた、の構図である。むろん、私にはそのような意図はない。どうして本を読めないことがあるのかを考えてみたかっただけである。ただ今回のレポートによって、啓蒙という営みにはブーメランのような効果があって、自分の心にも刺さるものであることが分かった。それから、自分の読書好きが分かったような気がした。

 


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