細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(147) 「なにかを信じるということ」 白岩 元彦(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-01-28 09:12:07 | 教育のこと

「なにかを信じるということ」 白岩 元彦

 信じるという行為は自分自身が思考を停止させてしまうことに等しい。人は、自分ではどうしようもできないこと、一つひとつのことにしっかりと向き合っていたら自分の感情の器からあふれ出してしまう感情を抱え込みすぎないように、なにかを信じることであふれる余計な感情に蓋をして、自分の心の安定を図ろうとする。信じる対象は人であったり、考え方であったり、その対象は様々である。そして、信じることはときに人の役に立つことも、ときに人を傷つけることにもなりうる。

 人が解決策を求めるとき、信じるのは宗教である。自然科学が十分に発展していなかった時代おいて、人々は自らに降りかかる災害や困難を悪霊や怨霊のせいにすることがあった。奈良の大仏や京都の北野天満宮はその最たる例である。奈良の大仏は当時に発生していた天然痘の流行、次々と謎の死、長屋王の怨霊を恐れ、聖武天皇が仏教によってあらゆる災いから逃れようと大仏を建立した。また、優秀な政治家であった菅原道真が失意の死を遂げたあと、京都に無数の雷が落ちたり、失脚させた関係者が次々と亡くなるなど不審な出来事が起こった。人々はこの原因は菅原道真の怨霊であると考え、怒りを鎮めようと北野天満宮を建立した。このように原因のわからないことに対して何か意味を持たせるべく、人は宗教や怨念を信じることで、分からない恐怖を抑えようとした。

 また、人は周囲の人間の信じることで、その人の影響を強く受ける。信じる人の言うことは絶対だと思い込み、受け入れることによって自らの考え方を規定させる。

 人が生まれて初めて他人を信じる対象は自分の家族であるだろう。あれをしてはいけない、これをしなさいと強く言い聞かせられることで、その価値判断の基準が自然と自分の当たり前になる。幼少期は思考力も充分に発達していないので、そうなんだ、と何も考えず受け入れる。これは能動的ではないが、自然と家族を信じて受け入れる行為である。

 次に人が強く影響を受ける存在は子供の頃の教師であると思う。人は学校に行って社会のこと、人間関係について学ぶ。それはほとんどの場合、教師から授業を通じて発信される。だからこそ、人は教師が絶対的な存在であると思い込む。誰もが小学校低学年の頃に「先生に言いつけてやる。」といった発言を耳にしたことがあったかと思うが、それは自身にとって教師が絶対的な存在であったことを示す証拠であるだろう。または、自分ではよく分からないことを教師に相談することもあったはずだ。きっと自分がどのような進路に進むべきか悩んだ時に教師に意見を求めることもあっただろう。そこには、自分では充分に考えられないからこそ、詳しく知っていそうな教師を信じ、意見を求めているのだと考える。

 しかし、成長するにつれて彼らの言っていることが絶対ではなく、時に間違っているのではないかと気づく瞬間が訪れる。彼らだけでなくいろいろな考え方を持った人と関わり、自分なりの意見を持てるようになることで、親や教師の考えに違和感を抱える。だからこそ、彼らに反抗的な態度をとってしまう。そして、彼らから与えられた価値判断の基準を恨み、無条件に受け入れてきた自分を憎む。何かを信じられなくなれば心の拠り所を失い、自分自身の自信を失う。そのような精神状態は豊かとは言えず、その人を不幸にするだけだろう。

 最近、公共の場において無差別に人に危害を加えようとする事件が発生している。人間の思い込みは恐ろしく、時に人をひどく痛めつけしまうこともある。なにかを信じることは自らの心を保つために必要不可欠な要素であるが、一方で自分自身をひどく痛めつけてしまう危険を持つような心を支配する行為である。そのような感情が渦巻く社会の中で私たちは何ができるのだろうか。

参考
1.tabiyori 誰がなぜ建てた?世界最大級のブロンズ像「東大寺大仏」の歴史を紐解こう
(https://wondertrip.jp/90899/)
2.京都観光 北野天満宮菅原道真は怨霊だった?
(https://blog.kanko.jp/kyoto-sightseeing/kyoto-shrine/kitanotenmangu)


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