「戦争を無価値にしてはいけない」 是村 涼太
私は教科書を読んでいて、道路の舗装や建設について戦争とともに進展がみられることが非常に気になった。旅客輸送用飛行機の陸地での発着が可能になった背景には爆撃機用滑走路のための舗装があったり、アメリカ政府は第一次世界大戦に参加した際の貨物トラックの働きから道路の重要性を認識したと書いてあるではないか。
今でこそ旅客輸送用の大型飛行機の滑走路や舗装された道路はそこら中にあって私たちの生活になじんだものとなっている。これらは現在の生活に欠かせないものになっているが、それでは、このような進展があったので戦争には価値があったといえるのだろうか。
日本では1943年に立案された全国の自動車国道網は戦時下の軍事・産業政策推進を目的としたものとなっている。これはドイツのアウトバーンを参考にした計画となっており、アウトバーンもまた軍事作戦用の道路として建設がすすめられたものである。
どうしてこれほどまでも戦争を意識した建設計画が立案されてきたのだろうか。
私が思うに、戦争によってこれらの計画を行う緊急性が発生したからである。戦争とは負けてしまえばすべてを失ってしまうものである。そのため、勝つためには優れた道路網が必要であるとわかったなら負けないためにはつくらないといけない。つまり、優れた道路計画というものはすでにつくれるだけの知識はあったものの後回しにされ、戦争によってこの課題が緊急性を伴うようになったために表立って考えられるようになったのである。
戦争がなくてもこのような計画はいつかつくられただろうと考える人もいるだろうが、それでは遅いのである。例えば、先に述べた戦争によって緊急性を持たされた日本の道路計画であっても、現在の自動車の普及による道路混雑は解決することができていない。
私は戦争に価値を見出すならこの部分にあると考える。つまり、戦争によってわれわれ人間はその緊急性からそれまでなかった課題からの発展を可能にするのだ。デジタルゲームではよくバグと呼ばれる不具合が発生することがある。これは開発段階では開発者も予期できなかったものであり、これが発見されると開発者側はいち早く解決のために力を尽くしてより良いゲームにしようとする。戦争はバグと同様にいち早く予期せぬ課題を認知させ発展につなげられるという点で価値があったといえる。
しかし、これもまたバグと同様に課題を放置してしまえばただの欠陥であるため、それこそ戦争は無価値なものになってしまう。大事なことは気づけた課題を後回しにせず発展させていくことだと考える。
「感度の鈍すぎる異様な国、日本」 久保 智裕
他の先進国や途上国も経済発展を続け豊かな社会を形成している中で、日本の経済は大きく低下しそして国力も低下し続けているのは明らかな事実である。この講義でも何度も紹介があったが、日本の名目GDPはこの20年以上一切伸びていないどころか成長率もマイナスである唯一の国であり、国の経済政策は「最悪」以外に論じようがない。さて、日本の国力低下の原因はデフレと政策の失敗であると私は考えるが、ではなぜそれが長期間改善されずに放置されてさらに低下の道を歩んでいるのか。その要因としては様々なことが考えられるが、一番大きなものとしてタイトルにあるように「感度の鈍すぎる事」だと私は考える。その感度の鈍さについては国民だけでなく政治家や官僚、学者も含めた日本人の多くに当てはまると言え、もはや日本全体の感度が鈍くなっているといえるだろう。
「失われた30年」と呼ばれる中で日本の政治が行ってきたことを簡単にまとめる。景気が低迷した際には財政出動を行ってある種に意図的に景気を引き上げるが、それによって膨らんだ赤字を埋めるために消費税率を引き上げ消費の低迷が起き、再び景気を悪化させる。この循環によって経済が悪化したといっても過言ではないだろう。ましてやバブルの崩壊原因やその責任を問われることのないまま、同じ政治が繰り返されてきたのは論外である。でもなぜこのようなことが起きてしまっているのだろうか。
まず1つは国民の感度が低く、国の政策が愚策であることや政策の失敗に気付いていないことである。普通であれば同じことが繰り返されている中でうまくいっていないことがあれば、政治に対して反発や意見が出るのは当たり前である。場合によっては政権交代が起きてもおかしくないのである。それにもかかわらず、国民が政治や国の現状に無関心すぎて何も現状に違和感に気付かない、感度が低いといえるだろう。それだけでなく、国民の意識も低いことがさらなる感度の低さをもたらすことに繋がる。例えば選挙を取り上げるが、近年日本では投票率が過去最低を更新することが増えている。若者を中心に政治参加率が低くなっているが、これでは政治に対して正しく世論を届けることができない。そうして感度の低い政治家や官僚に気付かせることができず、政府の愚策が続くことになり同じことが繰り返されるのである。
2つ目は、政治家や官僚など国の政策を動かす当事者の感覚が鈍くなっていることである。先にも述べたが、日本の不況の元凶はデフレである。ではなぜデフレ対策がきちんとなされなかったのか、それはやはり政府の感度の低さがあるだろう。日本のデフレの特徴として緩やかなものであったことがいわれている。それだからこそ深刻に受け止めず、対策が十分になされなかったといわれる面もある。このデフレへの感度の低さが日本の国力低下につながったといえるだろう。この感度低下を改善するには、国民がしっかりするということがまず重要になるだろう。そして政治家等に世論を気づかせることも重要になるだろう。
では感度をどのようにして高めていくべきなのか。1つは国民が世間の変化などについて様々な方向から情報を集めて勉強することである。国民が少しでも感度を高めて言うべきことを言えるようになれば、日本は少しずつ変わっていくだろう。そして2つ目は世界の変化にきちんと国全体で気づくことである。世界の動きへのアンテナをしっかりとはり、まずは情勢を正しく理解することが大切なのではないか。もっと世界と競争しているという自覚を持つことが大切だろう。
以上にように日本人はもっと当事者意識を高め、様々なアンテナを張って感度を高めることが重要だろう。そのためにも、幅広い知識を自ら身につけて考えるということが最も重要になるに違いない。
私も社会に染まり切る前のこの学生のうちに、様々な情報に触れ見識を高めていきたいと思う。
「地域高規格道路は「有力な選択肢」になれるのか」 粕谷 昌貴
今回の講義は自動車道路と空港についての話であった。私は、その中でも自動車道路について注目したいと思う。
自動車道路の中で、最も日本の自動車道路網を支えているものは、やはり全国に張り巡らされている高速道路といえるだろう。これらのおかげで、私たちは長距離の郵便や宅配便であっても、すぐに届けることが出来る。ただ、この高速道路が何らかの災害によって通行できなくなってしまった場合、私たちの生活はどうなってしまうのだろうか。
高速道路の一部分が通行できなくなるということは、これまで高速で通過していた、都市から都市へモノを輸送する大量のトラックや人々の移動に一気に影響が生じることを意味する。しかも、この影響はたとえ迂回する方法を選択したとしても、十分に緩和できないため、高速道路が完全に復旧するまで続くのではないかと私は考える。その理由を、迂回に注目しながら考えてみたいと思う。
迂回の方法としては主に2つが考えられる。1つ目が、素直に高速道路に平行して走る一般道路に迂回するという方法である。ほとんどの車両がこの選択をするが、高速道路より走りにくい場所に多くの車両が集まると、当然渋滞が発生し、物流に遅れが生じるうえ、その間の燃料も必要となる。私自身も、2012年に発生した中央自動車道の笹子トンネルの事故の影響で、乗っていたバスが並走する国道20号を迂回路として使用した経験があるが、かなりの渋滞に巻き込まれ、予定より大幅な遅延が生じていたことを覚えている。
2つ目に、遠回りしてでも高速道路を利用することにこだわって迂回するという方法もある。この方法も、本来以上の時間と通行料金がかかるため物流への影響があるといえる。
これらのように、迂回を選択することはできるものの、燃料代や通行料などが余計に必要となるので、輸送面でのコストが増加する。このことは高速道路の通行止めと周辺への迂回が続く限り、生じてしまう問題ではないだろうか。迂回によって商品が届くのが少し遅くなるのは仕方がないかもしれないが、もし仮に輸送コストの増加に合わせて様々な料金や商品が一時的に値上げされるようなことがあれば、高速道路の遮断によって私たちの家計にまで負担が及んでくることになる。
このような馬鹿馬鹿しい事態を根本的に防ぐためにどうすればいいのか。それはやはり、授業でも紹介されていた、「重要な道路はもう1本並行して造っておくべきである」というような「有力な別の選択肢を持たせる」という考えにつながると私は思う。新東名高速道路のように、地形的な影響や老朽化の影響によって東名高速道路が通行止めになるというリスクなども見越して建設することが出来れば理想的である。
ただ、コストや利用者数の面を考慮した結果、もう1本の高速道路建設は過剰な設備だと判断されることも十分考えられる。その際に私は、高速道路より1つ道路としてのランクは下がるのだが、有力な選択肢として「地域高規格道路」に注目したい。
地域高規格道路は、高速道路を補完する役割を持ち、地域の自立的発展や地域間の連携を支える道路として整備することが望ましい路線とされている。自動車専用道路もしくはこれと同等の規格を有していて、概ね時速60km以上の速度サービスを提供できる道路として整備が進められている。
この地域高規格道路は、高速道路同士や都市から少し離れた空港を連絡することや、高速道路から離れた地域でもアクセスをしやすくすることなど、明確な役割を持たせることで効果的に使うことが出来るだろう。また、地域高規格道路の整備が進んでいくと、もちろん高速道路が通行止めになった際の迂回ルートとしても利用できると思うが、高速道路のルートにもいろいろな選択肢が出てくることで渋滞の緩和などにもつながるかもしれない。
個人的には、埼玉県(関越自動車道花園IC)と山梨県(新山梨環状道路)を結ぶ西関東連絡道路に注目している。この道路は現在の国道140号を基本とするが、一部区間に自動車専用道のバイパス区間を造ることによって地域高規格道路を実現させている。県境には1998年に開通した、日本国内の一般国道山岳トンネル延長第1位である雁坂トンネル(6625m)があり、圏央道の開通までは中央自動車道と関越自動車道を結ぶという役割も担っていた。現在も部分的なバイパス工事が進められていて、このまま線形などが改良されていけば、秩父市周辺から山梨市周辺まではかなり楽に速く移動できるようになるだろう。
自動車道路において、たくさんの選択を持たせることは大事なことである。今後は、この地域高規格道路が高速道路の補完をしつつ、日本のそれぞれの地域を結んでいくことが期待される。地域高規格道路は、「有力な選択肢」となり、地域の人々に恩恵をもたらすことが出来るのか、また私たちの生活から災害の影響をできるだけ減らすことにつながるのか、将来の地域高規格道路システムに注目していきたい。
参考文献
・岡山市 地域高規格道路とは
https://www.city.okayama.jp/shisei/0000003566.html
・国土交通省 高規格幹線道路等の事業実施に向けた手続きのあり方
https://www.mlit.go.jp/road/ir/kihon/28/2.pdf
・埼玉県 西関東連絡道路について
https://www.pref.saitama.lg.jp/b1014/nishikantou-renrakudouro/index.html
・山梨市 雁坂トンネル
https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/docs/karisaka.html
「コスト項目の多様性とその可変性」 樫本 和奏
私は講義中での「空港を整備するときに予定より高級な材料を使用したところ、全体的なコストダウンに成功した」という話が大変興味深いと思った。局所的でなく全体的な視野で考えていかなければ真のコストダウンは図れないというのはもっともである。そしてさらにいえば、この「コスト」には労働力や使用機材、制作期間も含めることができるだろうと考えた。予算的な面だけではなく、制作に要するパワーや時間などの資源に関しても「局所的でなく全体的な視野で考えるべきだ」という鉄則はあてはまる。最近このことを身近なところで実感する機会があった。
私はこの学校の大学祭を運営する団体に所属しており、当日にキャンパス内に設置する複数の装飾を計画・制作する担当者の一人である。装飾の計画・制作・設置という一連の流れを見てきた中で、全体的に見て上手くいった装飾とあまり上手くいかなかった装飾の両方があった。まず良い例の一つとして、毎年恒例で設置する看板が挙げられる。今年はこの看板を例年より複雑な構造にしたため、制作期には時間や材料、労働力が多く費やされた。しかしこの構造変更のおかげで、大学祭2日目・3日目朝の確認作業や最後の撤収が例年より楽になり、この装飾のために当日費やす時間と労働力が大幅に削減された。結果的にいえば全体的な時間・労働力消費を抑えることができたのである。一方で悪い例だと考えられる装飾も存在する。その装飾は雨天時でも設置されるものであったため耐水性が必要だった。計画当時、耐水性が備わった少し高級な材料で制作するより、非耐水性の材料を委員自身が防水加工する方が安価であることが判明したため、予算削減のため後者の方法を選んだ。しかしこの防水加工にとても手間がかかり、時間と労働力が大幅にとられてしまった。全体から見れば少額の予算削減のために、とても見合わない量の時間・労働力を犠牲にする結果となり、「多少高級な材料を使った方が全体の装飾制作が遅れなかったのではないか」という感想が多かった。
このような経験から私は、時間や労働力、機材(道具)などの資源もコストの一種だと捉えられると考えるようになった。また、そのような資源に関しても全体的な削減を考えるべきだと気付いた。そしてもう一つ感じたのが、コストの種類は他種のコストにある程度変換可能であるということだ。たとえば悪い例として挙げた装飾において、財政的予算削減を時間・労働力で「買った」ように、それぞれのコストの項目は他の項目と補い合う関係にあるということだ。今回悪い例となった装飾も、高級材料の使用を選択していれば、金で時間と労働力を「買う」ことができていただろう。科学的にいえば熱エネルギーを電気エネルギーに変換することが可能なように、不足した時間を労働力増や材料費増(それによる手間のかからない材料への変更)によって補うことは可能である。都市の開発やインフラ整備に関して、またはそれに限らずあらゆる事業に関しても、このようなことは可能であろう。そして、その様々なコスト項目について現状それぞれどのくらい過不足があり、そのバランスをどう取っていくかを考えることこそ、事業のマネジメントの真髄なのかもしれないと感じた。どの種類のコストが不足していて、それをどのコスト種で補うべきか見極めることが、事業の成否に直結するのではないだろうか。
「異常時への備え」伊東 秀真
今回の講義では、「くしの歯作戦」が紹介された。この作戦は、東北地方太平洋沖地震に伴う津波によって壊滅的な被害を受けた三陸の主要道路・国道45号を早期に復旧することを狙いにしていた。解決策として、内陸と沿岸を東西に結ぶ国道を輸送路として確保するもので、そのスピード感と適切な判断には目を見張るものがある。そのスピード感を証明する逸話を一つ紹介しよう。地震発生直後、被災状況を確認するため、ヘリコプターの離陸が求められた。当時の局長は、マニュアルを無視する形で離陸許可を与えることとなった。しかし、このヘリコプターの飛行は、結果としてその後の被災状況の把握、復旧計画の検討において大きな役割を果たした。くしの歯作戦を主導した国土交通省東北地方整備局は、なぜ未曾有の事態に対し、これほど対応することができたのか。近年激甚化する災害に対して、入念な備えが声高に叫ばれている。他の事例を踏まえて、異常時への備えというテーマを考える。
異常時対応というテーマで、去年発生した車内刺傷事件を取り上げよう。2021年10月31日、京王線の特急新宿行きの車内で仮装をした男が、放火したのち刃物で乗客を次々に刺傷するという大変痛ましい事件が起きた。京王は私にとっても思い入れのある鉄道会社なので、強い衝撃を受けたことを記憶している。報道によれば、男が切りつけた後、乗客らは車内に設置されている非常通報ボタンから乗務員に助けを求めたという。ボタン操作後乗務員からは、車内との通話を試みたが、応答がなかったために車内の状況を確認できなかったという。その後、乗客が無断でドアコックを操作したため、非常ブレーキがかかり本来の停止位置よりも手前に停止した。運転士がこのズレを修正している間にも、乗客は窓から一目散に逃げ出した。もちろん、彼らは列車の安全を確保し、運輸司令に連絡を取り、マニュアル通りの対応を行った。しかし、対応として適切であったか疑問が残る。乗客の安全確保をするのであれば、多少のホームドア位置のズレに関わらず停車するべきであった。
同社は事件から4ヶ月目の2022年2月に、「京王線車内傷害事件を受けた今後の対策について」という文書を公開した。その中で、非常通報ボタン押下時の取扱が変更された他、想定外の事象への対応力強化が挙げられた。自らの判断で行動できるよう訓練を重ねるという。平常時の鉄道の運行業務は、運輸司令の指示のもと成立している。その視点から考えると、乗務員は乗務しているだけである。また、過去に類似の事例も無いので、研修も受けていなかっただろう。
ここで本題に戻るが、異常時において差を生むのは何か。京王電鉄の答えは、対応力なるものだそうだ。この考えは、複合的な要素なので因数分解して考えると、状況把握・振り返り・判断・行動の4ステップに分けられる。目の前で何が起こっているか適切に理解し、類似の事例を経験していないか思い出す。そこで、どのような行動が必要かを取捨選択し、瞬時に実行に移す。一番必要で、日頃から鍛えられるのは判断である。優先順位をつけて何が大切かを考えることだ。
首長として集団を率いる上で、優先順位を則って、置かれた状況で何が必要か都度都度で判断する。地道で短絡のない手法である。
参考文献
京王線車内傷害事件を受けた今後の対策について 京王電鉄株式会社
https://www.keio.co.jp/news/update/announce/announce2021/20220201.pdf
東日本大震災における 「くしの歯作戦」についての物語描写研究 夏山 英樹・藤井 聡
https://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/images/stories/PDF/institute_paper/2012_06_haru/natsuyama.pdf
「地方で自動車が必要不可欠であることは問題なのか」 油谷 壮太郎
私は今回の講義で一つ気になったことがある。それは地方での車が必要不可欠な暮らしにおいて、自動車がないと移動できないところに大型の店舗を置くことで、人々に車を買わせているというような趣旨の内容を話していたことである。私の祖父母は福井県に住んでおり、そこは実際に自動車がなければ生活していくことが困難な場所であることは事実である。そして買い物に行くにしても、仕事をするにしても自動車を走らせる必要があり、生活に車が必要不可欠であることは紛れもない事実である。しかしそれを人々に車を買わせていると直接的に考えるのは陰謀論に近いものであり、少し早計なのではないかと私は考える。確かに自動車を販売している企業はそのような都市が形成されれば自動車の売り上げが上がるので利益が生まれるという大きなメリットがあると思う。しかし、実際にその店舗を設置している各企業側から考えてみると、大きな店舗を設置する理由は土地の価格が低く、大きな店舗を設置することができるので、より広範囲の需要を満たすことができるからであり、そしてその移動に自動車が利用されやすいというだけの事であり、自動車を販売するということは各企業には基本的に関係のないことのように思う。たとえばその店舗が駅の近くや、充実したバスなどの公共交通機関の近くにあったとすると、大規模な店舗を利用することができ、自動車での利用は減るであろうと考えられる。しかしそうならないのは便利になればなるほど土地の価格は上がり、その分同じ予算でも得られる店舗の面積が変わってしまうという理由からであると思う。店舗側からするとより広い売り場や店舗を確保することで、品切れのリスクを減らし、客の求めるサービスを十分に安定して提供することができるということは、リピーター確保のための信用を得ることができるという点では数字上での利益として表すことができない今後の利益に繋がるとても大きなメリットである。そして、その企業がより広範囲を対象にすることで多くの利益を得るために広い駐車場を設置することで自動車という交通手段を企業側が利用しているという考え方もできるのではないかと思う。また都心部とは違い人口密度も低くなっている地域ではより広範囲をターゲットにしなければ十分な利益を生むことができなくなってしまう。しかし地方が都心部のように人口密度が増加したと仮定すると、土地の価格が上昇することが考えられるので店舗が大きな売り場を確保している今の地方とは変わり、今の都心部のような形式の都市に作り替えられていくのではないかと推測できる。つまりは、この状況は自然発生的に生まれてしまうものであり、その状況に対して多くの企業の利益と、住民の方の利便性を考えたうえで作り上げられたものであると考える。自動車がなければ生活することができないということは確かに地方の問題点の一つであると考えることはできると思うが、それについては根本が人口の減少であり、誰かが意図してこの状況を作り出したというわけではないので、地方では人々に自動車を買わせているという考えは少し自動車を販売している大企業に対するマイナスの感情が働いているように私は講義を聞いて感じた。私は最初に祖父母がそのような状況で生活していると書いたが、自動車で座ったままどこにでも行けて、広い駐車場があり、重い荷物を持ったままの移動を減らすことができる地方の自動車が必要な生活は、高齢化の進む日本の地方ではとても理にかなった生活ト言うことも言えるのではないかと私は感じた。
「我が国の今後を占う「国土強靭化5カ年計画」」 安宅 建人
今回の講義の中で日本の単年ベースの予算配分は土木事業を推し進めるにあたって好ましくないというような話があった。確かにインフラ施設の建設や更新は長期的に行われてしかるべきものであり、それを一年一年で区切って予算建てをして行うのはおかしな話である。一方私はドライブが趣味で、よく地方のダムなどを訪れるのだが、その道中やダムでよく見かけるのが国土強靭化5カ年計画に基づく工事という文字である。調べてみると国が主体となって行っている将来を見据えた公共事業のようである。そこでここではダムと道路という2つの重要な土木施設において国土強靭化計画に基づきどのような事業がなされているか見てゆく。
まず、国土強靭化5カ年計画とは、近年増加する気象災害やこれから起こりうる大地震に対し、高度経済成長期以降に集中的に整備されてインフラが一斉に老朽化を迎えるため、早急に対策を講じるべくして行われている防災、減災を主軸とし、新技術等も活用して人命や財産の被害を最小化するべくして2021年度から2025年度にかけて集中的に行われている事業である。
まず、ダムにおいて行われている事業の一つが従来よりも低い位置に放流施設を新設する事業である。近年では大雨、洪水が予想される際に事前放流を行い、ダムに貯水できる水量を増やす洪水調整が積極的に行われているが、その事前放流を行う際に活用する放流施設の増設が様々なところで行われている。主に重力式ダムにおいて行われているのが、既存のダム堤体に穴をあけ、放流設備を増設するとともに、減勢工も新設するといった事業や比較的古いダムであまり放水量の多くないゲート調整式の放流設備のダムでは放水量を増加させるためにゲートレス化することで放水量を増やすとともに維持管理費の低減にもつなげているという例もある。堤体の構造上新たに放流施設を設けることのできない場合はダムの堤体周辺の地山内にトンネルを掘り、洪水吐きを新設するといったことも行われてる。このような事業を行うことで、洪水時におけるダムの運用をより円滑化できるとともに、下流域における浸水や越流の被害を最小限にとどめることができるのだ。
次に道路施設においてどのような事業が行われているかについてみてゆく。道路施設において行われている事業は主に二つある。一つが災害時を考慮したネットワーク強化で、もう一つが老朽化対策である。
本日の講義内で東日本大震災の際の道路被害とその復旧事業が紹介されていたが、災害から速やかに復旧、復興するためには道路ネットワークの機能向上が必要不可欠となっている。そこで災害が発生して1日以内に緊急車両の通行を確保し、1週間以内には一般車両の通行を確保することを目標とした災害に強い国土幹線道路ネットワークの機能確保を目的に事業が進められている。具体的にはミッシングリンクといわれる途中に未整備区間を含む高規格道路の整備や暫定2車線区間の4車線化、災害時のダブルネットワーク化を目的とした高規格道路の代替となる国道の整備等、ボトルネックとなっている交差点の立体交差化等が行われている。先日訪れた群馬県の上武道でもまさに暫定2車線を4車線に広げる工事が行われているところであった。
次に老朽化対策についてだが、今後急速に発展する道路施設の老朽化に対してメンテナンスコストの低下や持続可能な維持管理を実現するため現状、中心となっている事後保全ではなく予防保全による道路メンテナンスへの移行を目的として修繕が必要とされる道路施設の対策を推進するというものである。特にこのまま事後保全を中心とするメンテナンスを行っていると30年後には維持管理費が現状の2,4倍である12.3兆円かかると推定されており、少しでもインフラメンテナンスコストを減らすためにも予防保全への速やかな移行がなされるべきである。事業が行われる以前の現状はひどいもので、国交省が管理する道路において、舗装の修繕が必要と判断された区間のうち実際に修繕等が行われた区間はアスファルト舗装においては12%、コンクリート舗装に至っては5%というありさまである。橋梁においても地方自治体が管理する橋梁のうちコンクリートの鉄筋が露出しているなどの問題で早急に対策が講じられるべきと診断された橋梁で、令和元年度までに修繕に着手できた橋梁の割合はたった34%である。こうした現状を早急に打破するためにも令和5年度までに橋梁においては73%の補修への着手、舗装においては防災上重要な道路においては100%舗装の修繕を完了させることを目的として事業が行われている。
ここまでダムと道路において行われている国土強靭化5カ年計画について紹介してきたが、どうもこれまで臭いところに蓋をしてきたツケが回ってきているように自分は感じる。しかし、過去の過ちを今更どうこう言っても現状が良くなるわけではない。自分はこの計画の遂行こそ数十年後の我が国のインフラの状況を占うように感じている。勿論、インフラ施設の維持、改善はこの5カ年計画以外においても様々な形で行われている。重要なのは、どんなインフラ施設の新設、改善においても今だけを見据えるのではなく、中長期的な将来を見据えること。我が国を支え続けてくれるまさにこの事業の名前通り「強靭」なインフラを整備することこそが今の日本に求められていることのように感じた。
「土木を通して長期的・全体的思考を学ぶ」
都市科学部都市社会共生学科2年 伊藤 紀奈
東日本大震災では、津波警報の影響で海沿いの東名高速道路が通行止めになったが、少し内陸に位置する新東名高速道路を利用することによって、西側から東北へ緊急車両を派遣することができた。ほぼ並行するような形の両高速道路だが、どちらかが機能不全に陥った場合でももう片方を利用することで、人の流れや物資の輸送を止めずに済む。このことは、道路を網の目のように張り巡らすことの重要性を物語っている。また、羽田空港のD滑走路の建設においては、高額の材料を局所的に使用することで、別の部分に使用する材料の量を減らすことに成功するなど、全体としてのコストカットを実現していた。
これらの事例から導き出せるのは、「その時・その箇所にかかるコスト」だけを見るのではなく、「将来的・全体的にどのような利益と不利益を生み出すのか」を考える必要があるということである。言い換えれば、短期的・局所的に考えるのではなく、長期的・全体的に捉えることが重要であるということだ。これは、フロー効果とストック効果の議論にも共通するものである。
目先の利益だけを見ることは簡単だが、長期的な視点を持つことはなかなか難しい。長期的・全体的思考には、熟考と想像力が必要とされる。深く考えることを放棄して、つい簡単なほうに流されてしまうことは、誰にでもあるだろう。私自身、コツコツ学んでいたら将来役に立つとわかっていても、「今は遊んでいていいや」と逃げてしまうことがよくある。また、大学で書いたレポートに対して先生から「現在起きていることだけでなく、歴史的な経緯も含めて考えてみたらどうか」と指摘されたことがある。これは、長期的な視点を持って研究することができておらず、他人に言われるまで長期的な視点の必要性に気付けていなかったことを意味している。
このように、普段から長期的・全体的思考を自然に取り入れて生活することは、かなり難しいのではないだろうか。しかし、このような思考は重要である。だが、長期的・全体的思考の癖がついていないと、つい短絡的に考えてしまうと思う。癖をつけるという段階まではいかなくても、せめて長期的・全体的思考の事例や方法を一度でも知ることで、その後の人生は多少なりとも変わるのではないだろうか。
そこで、土木が登場する。土木の世界には、長期的・全体的思考で成功した例が多くあるだろう。もちろん、そのように考えたはずなのに失敗してしまったという例も。土木を学ぶことは、長期的・全体的思考の方法を学ぶことにつながると考える。土木のように巨大で寿命の長いものを建造することについて考えることで、長期的な思考や大きい捉え方が身につくのではないだろうか。
また、実際に造るための専門知識まで学ばずに、事例を知ったり、想像したりするだけでも、長期的・全体的思考の根幹を学ぶことができると考える。実際に、私は都市社会共生学科の学生であり、土木に関する知識は皆無の状態でこの講義を受講しているが、そのような人間でも土木を考える際に重要な長期的・全体的思考のヒントを学ぶことができていると感じる。土木を学ぶ意味とは、専門知識を身につけることだけではなく、土木ならではの思考方法について知ることができるという点にもあるのではないだろうか。土木を専攻しない人間が土木を学ぶ価値は、そこにあると思う。
長期的・全体的思考は、日常生活では意識しづらいが、生きていく上で重要な考え方であると思う。その習得方法として、土木は格好の題材なのではないだろうか。土木を専門にする人もそうでない人も、土木を通して長期的・全体的思考を学ぶことができると考える。
「身を持って知った公共事業の重要性」 小野寺 一馬
これまでの授業でインフラ設備、ストック効果の重要性は何度も説かれてきた。その都度、刺激を受け私の考えに大きく影響を受けた。その中でも、過去の日本と現在の日本との違いについては非常に敏感になったと思う。日本は、戦後大きな経済成長の末に先進国に名を連ねるようになった。しかし、そのような高度経済成長さらにその中のバブル景気は1990年初頭に崩壊を迎える。その原因は、それまで引き下げていた金融の引き締め政策によって地価や株価が大暴落したことに起因するという。このバブル崩壊の時期と、日本の名目GDPの成長が停滞した時期は同じ時期である。まず、バブル崩壊に関しては政府や日本銀行の政策の失敗だと言えるが、ある種仕方のないことだと言えるだろう。問題はそこから政策が低迷し、現在もデフレから脱し切れていないことだ。もう一度、バブルのような急なインフレを起こさないように慎重になっているということを昔聞いたことがあるが、なぜ過去に起こった問題が改善されずに、また繰り返される前提なのだろうかと疑問に思う。また、そのような問題が挙げられると、必ずと言っていいほど論じられるのは少子高齢化や、人口減少による生産年齢人口の問題が挙げられるが、授業内で示されたラトビア、リトアニア、ジョージアも同程度なのを考えると、それも言い訳に過ぎないと思う。日本は、世界的に見ても公務員に対する賄賂が非常に少ないという数値が出ているが、ニュースなど、マスメディアによる情報操作に関しては蔓延している。国を統制することによって、一番有効になることは、武力ではなく情報統制である。人々の考えの根底から、政治の進めやすいように変えることで人々の反感を抑える。この方法は、基本どの国でも行われていることではあるし、中国、北朝鮮、ロシアなど現在問題に上がっている国では顕著だろう。日本人は、この他国における政治の在り方を非常に批判しているが、日本はどうだろうか。私自身もそうであったように、大半がマスメディアの情報に踊らされて、都合の良い善良な納税者となっていないだろうか。今回の講義で提示されたような資料が、ニュースで同じように提示された時はないだろう。道路建設などの公共事業が重要だと、どこの報道局で報じられているのだろうか。私は、青森県十和田市出身で、昨年まで八戸の学校に通っていた。今回の講義で三陸復興道路のことが紹介されていたが、それによりストック効果というものを身を持って再確認できた。復興道路は現在、無料で開放されており、供用中も含め何度も利用してきた。現に、この道路ができたことによって経済活動は身近なところでもこの復興道路を通して消費が増えていることもあり、この道路が完成したことによる沿道の地域の経済活動は活発になっていると感じる。日本全体のGDPを上げるためには、一都市に経済を集中させ、そこを伸ばすよりも地方の生産性を上げることが必須だ。これは紛れもない事実である。それには、道路をさらに張り巡らせることや、地方の設備を整備することなど、公共投資が基本となる。これには、情報操作に惑わされない国民の声が必要である。国の根幹を担っているのが何であるかを国民全体がしっかりと理解するような社会構造が作られていくことを望む。
「インフラをどのように捉えるか」大倉 風芽
土木の分野では国交省が定義するようにインフラとは道路や鉄道,上下水道,公園,堤防など物理的な社会資本そのものや公共交通サービスのことで、物理的な「モノ」という文脈で使用されることが多い。私は以前までインフラはこのようなモノであるということしか考えられなかった。しかし文系の授業で「インフラとはまずもってそれ自体に価値があるのではなく、可視的な上部で行われる活動を不可視の下部から支えるモノである」というインフラを「モノ」ではなく「コト」ととする定義を知り、もっと広い視野でインフラをとらえる必要があると感じた。また、途上国を中心に「可視的な上部で行われる活動を不可視の下部」から支えるという機能をほとんど持たない、つまり経済活動や生活に直接役立たないようなインフラが存在するということを学んだ。そして、そのようなインフラ構造物はもっぱら外国人や自国民に国の近代化をアピールするために作られるということから、「インフラに本来備わっているとされる機能が近代化への道筋になるという価値が誤認され,今ここにない近代をインフラが代用し呪物的な崇拝の対象となっている」ということでフェティシズムの定義になぞらえインフラストラクチャー・フェティシズムと呼ばれているということを学んだ。
私は日本の高速道路網や新幹線について必要性や意義があることは講義での知識や実体験として理解しているが一方で、日本でもこのようなインフラストラクチャー・フェティシズムに基づく実際の人々の活動に寄与しないようなインフラを求め、作る動きがあるように思える。
戦後の高度成長期に新幹線や高速道路が果たした役割は大きく戦後復興を果たす屋台骨として活躍したことから、新幹線や高速道路があれば地方の衰退に歯止めがかかると考えている地方の政治家は多いが実際に期待するほどの効果はあるのだろうか。
昭和の時代に新幹線や高速道路網の計画は国土の均衡ある発展という目標のもと作られたが、現在に至るまで新幹線や高速道路が未整備の地方では人口の流出、減少とともに高齢化が急速に進むなど状況は悪い方向に刻一刻と変化しており、新幹線や高速道路の建設は焼け石に水である恐れもある。
鉄道や空港、高速道路は人々の生活を一変させるような魅力的で感動的なインフラであるからこそ、アピールのためにそれを作ること自体が目的化するインフラストラクチャー・フェティシズムが起きやすい。後世にわたって活躍するインフラとなるためには目的を明確にし、手段として正しいインフラ投資の計画なのか今一度検討していく必要があると考える。
参考文献
難波美芸(2018). ラオス首都ヴィエンチャンの可視的なインフラと「擬似−近代」的なるもの.文化人類学.2018,vol.83,no3,pp404-422.
「アメリカ合衆国の道路網についての考察」 渡 由貴
私は、アメリカに留学していた際、日本と比べ、いかに人々の生活が車に頼っている社会であるかということを体感した。今回は、その背景を道路網の観点から考えてみたい。
私が生活していたカリフォルニア州では、人口5万人以上の都市が171あり、人々が普段の通勤通学からそれらの都市間を車で20分から30分くらいかけて移動するのが印象的であった。都市では、建物が建ち並び人々の生活が活発に営まれているが、そこから離れ隣の都市へと向かう道中には、山や畑、農場等があるだけで、次の都市に着くまでに人々が暮らしている状況は見受けられなかった。夜に乗った飛行機から見ても、光が無数に灯っており極めて明るいところが都市だと分かり、その周りは真っ暗で、数本の道路だけが暗闇の中に長く続いているのが分かった。そしてそれがまた隣の都市へと繋がっていた。また、私の生活していた人口50万人ほどの規模の都市であるサクラメントでは、現地に住んでいるほとんどの学生が車を所有しており、普段から週に数回もガソリンを入れている様子で、日本、とりわけ大都市である横浜に住んでいる私には考えられない光景であった。公共交通に関してはバスや電車が通っているが、本数が少なく運行頻度は20分置きくらいで、街中の治安が日本と比べ悪く徒歩での移動がしにくいこともあり、目的の場所へ公共交通と徒歩で移動する、という考えが一般的にはされない印象であった。関東でサクラメントと同じくらいの人口規模で見ると栃木県宇都宮市が挙げられるが、鉄道が14路線、バスネットワークが約450系統もあるなど、公共交通はサクラメントよりはるかに栄えている。人口密度や他の都市との位置関係、経済状況、治安の問題などを考慮していないため一概に同じ状況での比較とは言えないが、いかにアメリカ人の日々の生活が車での移動で成り立っているかが分かる。
ここで、アメリカの道路網についての歴史を見てみよう。アメリカにおいて、全国的な道路網という観点が出てきたのは自動車が普及し始めた20世紀初頭で、東西を結ぶ道路網が整備され始めた。その後、自動車の普及と性能向上により長距離の移動が増えると、道路の改良とより全国的な道路網の整備を求める声が高まった。そして、「各州がそれぞれ道路整備を行っていけば、やがて州境から州境まで達する道路ができ、結果として全国的な道路網ができる」という発想のもと、1916年に連邦補助法が成立した。しかし、この法律では州を越えて連邦補助道路同士を接続することを義務づけていなかったため、連邦の補助金で整備された道路が州境で連続しない状態となってしまった。後に連邦ハイウェイ法が成立して、今に続くインターステイト・ハイウェイ網ができることになった。この法律では、全国的な道路交通、道路輸送を確立するための道路という明確な目的を持っていた。インターステイト・ハイウェイは、①主要な都市圏、都市、産業拠点を直接連絡する道路、②国防に供する道路、③カナダとメキシコの重要道路と連絡する道路、と定義されている。日本の高速道路ネットワークと比較すると、地方中心都市を効率的に連絡するという目標は同じだが、日本の大都市圏においては近郊地域を環状に連絡しているという点が異なる。
料金の観点では、アメリカの高速道路の総延長に占める有料道路の割合はわずか6.4%に過ぎない。これは、アメリカの高速道路政策が無料を前提にしているためだ。また、有料道路を400キロほど走っても、5、6ドル請求されるくらいで通行料金が安い。そして、車線数の構成は、日本では3車線以下が33.1%、4~5車線が60.5%、6~7車線が6.4%である一方で、アメリカでは、3車線以下が2.3%、4~5車線76.0%、6~7車線が21.7%、残りが8車線以上であり、圧倒的に車線数が多い道路が日本に比べ多い。交通の自由度が高くなり、混雑状況も改善できるので、移動時間の短縮に繋がり、車での移動が主流になるのも納得できる。
以上の、都市間を直接連絡し、交通料金が安く、車線数も多く利用しやすいという点が、日本と比べアメリカが車社会になる要因となっていることが考えられる。車社会に関しては、環境問題という観点から現在は世界で良くないこととして認識され始めているが、人々の生活を成り立たせ経済を成長させる上で、道路は非常に重要なネットワークである。しかし、問題なのは、今後迎えるであろう人口減少社会による影響であると考える。アメリカのような都市が点在しているような状況で、さらにそれぞれの都市内の人口が減ってしまうと、行政サービスの提供が非効率なものとなり、成り立たなくなってしまう。そうすると、公共交通が衰退し、車社会への進展がさらに加速するだろう。また、それが車を所有する人とそうでない貧しい人との差を広げる原因ともなり、より治安が悪くなり、さらに人々が公共交通を利用しにくい状況になる、という悪循環を生むことになるだろう。だから、現段階で公共交通の整備も増やしつつ、都市内の住居や都市機能を集積させ都市活動の密度を高めることが今後必要になってくると考えられる。
11月も中旬に差し掛かりました。相変わらず様々な業務の濁流?に飲み込まれないよう、何とか乗り切っている状況です。
12月29日に、2年連続で昭和記念公園でのハーフマラソンに出場するための登録をしました。良い目標になるので、週に2回くらいのランニングも楽しんでやっています。11月7日には初めて、大学のキャンパス内でランニングしました。私はキャンパス内を3周、5km強で気持ちの良い汗を流しましたが、学生たちも付いてきて、一人だけ2周、あとは皆さん1周のみ。おじさん教員が一番元気です。。。
4月に断酒をして、体は基本的にはすこぶる健康ですが、運動の量も適度なものを保っています。普段は忙しいので、日常生活で歩くこと、を運動の基本にしています。
ランニングするときもiPhoneを携帯して歩数を計測しているので、日常生活+ランニングもすべて含んだ歩数が毎日自動計測されています。各月の平均歩数は以下。
4月:10,035歩
5月:13,101歩
6月:9,923歩
7月:9,230歩
8月:9.615歩
9月:7,950歩
10月:10,249歩
ときて、11月はここまで12日間での平均は、12,400歩程度。今月はかなり歩数が多めです。
今年は6月辺りからやたら暑かったので、夏の暑い時期はランニングは控え、9月はやたら出張が多かったこともあり、歩数がかなり減っていましたが、10月に秋学期が始まって定常的な生活に戻ったので、また歩数が増えてきました。
10月21日から、10,000歩を下回る日が無く、昨日までで23日間連続で10,000歩以上歩いています。10,000歩以上の連続記録としては、私のスマホに記録が残っている範囲では最長記録のようです。
すごく小さな目標ですが、10,000歩以上の連続記録を伸ばす、という遊びがあるだけで、意外に日常は面白くなります。続けよう、という気持ちになります。
ほぼ毎日測っている体重も、5月下旬にストンと63kgくらいに落ちた後、ほぼ一定ですが、わずかに増えて63.5kg辺りが中央値です。11月後半くらいから年末、年度末へかけて、相当に業務の負荷がかかるので、おそらく62kg台に落ちていくものと思います。
本日は日曜日ですが、早朝に起床後、ポスドクの英語の投稿論文の添削。10時からはIMPコースの留学生のオンライン面談。その後、18日に締切りを設定された学内に新たに設置される組織のための申請書の作成(結構ヘビー)。ここまでは最低ノルマで、10,000歩を達成するためのウォーキングかランニングも差し込みつつ、適宜、気分転換も。読書欲も比較的旺盛で、いろいろ読んでます。
「ダブルスタンダードという印象への考察」 大木 陽介
今回の講義でも、先生のお話の中に幾つかの気になる点があった。その中でも大きな2つは、「自己中心的」への評価と、「環境破壊」の捉え方である。
一つ目について、講義冒頭で(今までの講義でも度々言及されていたが)自己中心かつ短期的にしか考えられない人を「末人」として批判する文章を紹介し、その一方で中国やアメリカを日本と比較してその2国でインフラ整備がすさまじい速度で進んでいることを説明していた。しかし、その2カ国こそが目先の利益のために環境を破壊し、自国の利益のみを追求して他国を省みない国ではないのだろうか。
現在の日本でインフラ整備が進んでいないことは確かである。それは都市集中が進む中で、「使われない」道路、路線の価値が十分に見出されていないためだろう。勿論、インフラ整備は必ず環境破壊をもたらす。車が通るようになればそれはそれで排煙等の問題も出てくるかもしれない。建設には大きな費用が掛かる。そうしたことを併せて評価した結果「合理的に」無くて良い、ということになっているのかもしれないが、利益の総和が最大になるように最適化された状態は時に脆く、歪である。故に日本がインフラにもっと力を入れるべきだということは、これまで講義を聞いていてよく分かった。だからと言って、中国、アメリカの2国のインフラ整備の状況に対し、それを止めるべき、というような批判的な言葉が出てこないのは何故なのだろうと思った。その後で、「中国がごみを大量に捨てているから、日本がいくら努力しても意味がない。それよりも中国にそれを止めさせるべき」と言っていたが、他国に注文を付けるには、まずは自国で十分な取り組みをしていなければまず相手を動かすことは出来ないはずである。他の環境保護への意識が高い国と日本が一緒になって世界に対し環境への配慮を求めるというのが望ましい図式だと思う。
2つ目について、環境破壊については人間の損益が基準になっているように思われた。「環境破壊と言うが、水はきれいに、空気も汚れていない」と言うが、自然豊かなこの大学ではなく、大都会の真ん中ではどうだろうか。自動車交通の発達とともに発生した利益を土木に帰すならば、排ガス問題もまた土木に帰せられるはずである。加えて、野生動物と車の接触事故による被害もまた同様と言える。また、水そのものがきれいになっても、河川の工事によって失われた自然は無いのだろうか。「発展の段階において一度環境は破壊されるが、後に技術によって乗り越えられる」と言っていたが、やはり取り戻せないものはあるはずである。(「手つかずの自然」は言葉通りその最たる例と言える。)
ただし、この2つ目については、自分が少し誤解をしていたことに気付いた。当初「空気や川の汚れはそんなにひどくない」という単純な断定から、「だから環境破壊は土木の責任ではない」と言っているような印象を受けた。誤解と気づくことが出来たのは、レポートのために反証を探し、破壊された環境の復興について調べるにつれて、かつての過ちへの十分な反省のもと研究が為されていること、そしてむしろ土木によって環境問題を改善できることが分かってきたためである。但し、反射的に先のような感想が浮かんでしまうということは、やはりまだまだかつての過ちの「呪い」は根深く、土木に携わる人間は発信に気を付けるべきなのではないかと思う。
参考
https://note.com/partonpantor/n/nf5ec1a8ec122
https://kyushu.env.go.jp/okinawa/press_00018.html
https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1925/45/3/45_3_231/_pdf/-char/en
https://core.ac.uk/download/pdf/39179891.pdf
「中国の戸籍制度について」 陸 文
巨大都市といえば、授業のスライドで見た表では、中国の4都市もランクインしていたが、いずれも特に上位には入っていなかった。 そこで思い出したのが、いかにも中国らしい政策、「戸籍政策」である。 戸籍制度がある国は世界で3カ国しかない:中国、北朝鮮、アフリカのベナンである。
日本では、戸籍は「戸籍」と「住民票」の2つに分かれている。「戸籍」は中国の戸籍に相当するが、日本の戸籍は中国と異なり、個人の必要に応じて自由に変更することができる。 日本国民は、どこで生まれたかにかかわらず、自由に移動する権利を持っている。市民が移住の際に必要なのは、自治体への登録だけである。「今月は大阪市民、来月は希望すれば東京都民になれる」と言えるのである。これも直接的または間接的に首都圏の一極集中を招いたが、戸籍制度の厳しい中国は、巨大な都市化問題を完全に解決できるのだろうか。
世界の多くの国では、都市化の過程で悪質な都市スプロールを経験している。農民は仕事を求めて際限なく都市に押し寄せたが、都市は無制限に押し寄せる農村の人々を支えるだけの仕事と資源を提供することはできなかった。 都市部の失業者は、現代社会における都市の社会問題の最も重要な原因の一つである。 中国の農村人口の規模は非常に大きく、改革開放当初の中国の都市産業の規模では、農村から都市への無制限の流入による社会問題に対処するのがやっとであった。 その結果、戸籍制度は次第に悪政となり、強制されなければならなくなった。 このように、戸籍政策の本来の目的は、農民の都市への参入を制限することにあったといえる。 中国は古来より中央集権的で階層化が強い社会であり、戸籍制度が設けられ、城壁の設置など都市と農村の移動が制限され、その結果、階級格差が強化されたのである。 この階級格差は、現在の中国社会でも戸籍制度が残っていると言ってよい。 人々は戸籍によって様々な階級に分けられ、教育、医療、社会保険などの質の高い資源は、必然的に上海、北京、広州などの経済的に発展した大都市に偏ってしまうのである。外来人は、対応する都市資源を利用できず、都市で一時的に生活しなければならない。 EUのように加盟国間の自由移民が可能な国でも、法的な意味では完全に平等だ。ヨーロッパは宗教、民族、特に言語の問題から大量の人口移動はないものの、少なくともこの壁を突破しているのに対し、中国はなかなか希望が見えてこない。
「東京都心部において公共交通中心へと舵を切る手段」 松田 大生
今回の講義では都市の肥大化に関する問題を扱った。その中で、先生が資料を紹介する際に、『都市周辺までに高速道路で車で行けるんだけれど、その後はあたかも玄関で靴を脱ぐように、車から降りてトラムをつかったりしながら街の中を歩くわけです。ヨーロッパはそうやって、近代的なクルマの弊害が都心部に及ばないように…』という記述があった。私はその記述がとても気になった。私は高校時代にベルギーのブリュッセル近郊に留学し、現地の家庭にホームステイさせていただいたが、ブリュッセル中心でも自動車が多く乗り入れており、またホームステイさせていただいた家庭も、トラム・バスの停留所が家の近くにあるにもかかわらず自動車が基本的な交通手段であった。フランスのストラスブールなどのように完全に市街地内移動が公共交通へと転換されている都市もある一方で、私の体験は前述のように、自動車中心のものであった。このように都市圏交通が綿密に整備されている都市において自動車利用が多くなってしまう理由を私の見てきたブリュッセルの風景を考察し、更に身近な都市である東京の中心においてストラスブールのような自動車利用を大幅に制限したうえで公共交通中心の空間に転換することができるのか、考察する。
ブリュッセルにおいての公共共通は、首都圏を取り巻く・そして周辺都市へと放射状に伸びる国鉄、そして首都圏交通が運行する地下鉄・バス・トラムとベルギーのフランス語圏・オランダ語圏の会社が運行するバスが張り巡らされている。だが、中心地域間の移動はまだしも、ブリュッセルの外れの地域から中心の移動では自動車を使うことが多い。実際にブリュッセルの中心の観光地、グランプラスの広場やショッピング街のルイーズなどには駐車場がある。またベルギーは立体駐車場が少ない。そのため路肩が広がっている場所に停めることとなる。実際に休日など、観光地がにぎわう際には路上の駐車場は争奪戦となり、中心街近くでも渋滞が発生する。
私が考えるブリュッセルの郊外から中心の移動において公共交通が不便になっている理由としては、国鉄の駅やトラムの大きな停留所付近への駐車場の整備が少ないこと、ブリュッセル郊外から中心街へと行くトラムやバスなどの所要時間がかかりすぎること、中心街へ向かうために速達性がある国鉄の本数が少ないこと、同じく速達性がある地下鉄も路線が少ないために使える人が少ないことがあげられる。国鉄に関しては国内の主要都市間を結ぶ交通機関という位置づけであることから、ブリュッセル近郊の駅の本数が少なくなってしまうのはしょうがないと考えられる。だが、本数が少ないうえに駅付近の駐車場が少ないと利用する人が少ないこともうなずける。トラム・バスに関しては本数は日常で使うことができる本数は確保されているといえる。だが、トラムもバスも道路交通に定時性が左右されてしまうことが挙げられる。
次にブリュッセルの公共交通について、優れている点を挙げる。これらの点は先述の東京を公共交通中心の街に仕立て上げることができるのか、という点において取り入れることが出来たらよいシステムである。私がブリュッセルの公共交通を用いて一番驚いた点としては共通運賃制度である。ブリュッセルには先述の4つの交通機関を運行する会社があり、かつ複数の交通が運行されているが、これらの運賃はどの区間においても2.10€であった。また、乗り換えは60分以内であれば無料であった。ブリュッセル空港へ行く交通機関という例外はあるとはいえ、別の会社をまたぐという乗り換えを含み共通運賃システムが用いられていることの便利さ・わかりやすさには驚いた。他には、現地において免許を返納したら公共交通の無料パスが与えられるというシステムがあると聞いた。これは特に自動車を使っている高年齢の世代の公共交通機関への移行をスムースに、かつ積極的に行ってもらうようにしている政策である。この政策を可能にしているものはブリュッセル首都圏交通が民間企業ではなく、公営企業であることが大きいだろう。
さて、私が最初に提示した東京都心部を公共交通中心へ転換する、という課題であるが、完全に不可能ではないように思われる。さすがにストラスブールなどのように完全に車の立ち入りを制限する、ということは不可能ではあるが区間・時間によってはバス優先道路を作る、完全な専用車線を作るということを行ってもよいだろう。また、ブリュッセルの政策・手段を参考にすると、運賃制度の統一といったものがあるだろうか。現在、東京の都心中心部を走る鉄道会社はJR、東京メトロ、都営地下鉄の3社があり、かつそれぞれが別の運賃制度が用いられている(メトロと都営は乗り継ぎ制度があるが)。そのため、運賃制度がとても複雑であり、わかりにくい。そのため、ブリュッセルのような全区間統一運賃とまではいかなくてもパリの首都圏交通のようなゾーン制を用いるという方法が考えられる。駅を範囲ごとにゾーンに分けて、ゾーンごとの移動料金を統一するという制度である。また、ゾーン制度を用いるならば山手線を基準とすればいいだろう。山手線より外に出ると鉄道会社の数が格段に増えるため運賃制度の統一が物理的に厳しくなるだろう。そのため、関わる会社ができるだけ少なく、かつ効果がある地下鉄が多い山手線内の地域で行うと効果があるだろうと思われる。そして郊外駅においての駐車場の設置による、パークアンドライドの促進もある。だがこれも無計画に行ってはいけないと考える。私が心配するのは、混雑が多い路線においての駐車場設置による混雑悪化である。具体例を挙げると、多摩地域の東急田園都市線や西東京地域からのJR中央快速線、千葉地域からの東京メトロ東西線あたりであろうか。このあたりの路線においてパークアンドライドの客が流入して混雑が悪化すると、あえて電車に乗り換えて都心に行こうという気持ちがなくなるのは想像に難くない。そのため並行路線で比較的混雑が緩い路線をメインターゲットに政策を行えばよいだろう。上記路線の並行路線だと東急目黒線、京王線、京成本線が候補にあがるだろうか。こういった周辺の路線と比較して混雑がマシな路線に導入することができれば、公共交通への転換も図れ、そしてその路線の収益も上がりよいだろう。
これまで私の経験や知識などから対策や方法を考えてきたが、実際にこれらのシステムを実装するにあたって厳しい点や障害も多いであろう。だが、私はこれらの便利なシステムが日本に普及することを切に願っている。