「浮野古戦場浮剕首塚 浮野川激戦地跡」
土砂降りの雨の中
「浮野古戦場跡」に行く…
永禄元年(1558年)清洲城主織田信長は岩倉攻略をはかる…これに対して岩倉城主織田伊勢守信安が応戦、ここに信長勢に加担する犬山城主織田十郎左エ門信清が加わり三軍が浮野において衝突した
1558年、信長に敵対して尾張上四郡を支配していた岩倉城主の織田信安が、子の信賢によって追放される事件が勃発、しかしこの信賢も信長に敵対し、美濃の斎藤義龍と手を組むことに…
この岩倉の混乱に乗じ、清洲城主織田信長は岩倉攻略をはかる…
1558年5月28日に2000余騎を率いて織田信長軍は岩倉城主の織田信安を攻撃するため、この一宮市の浮野の地へ進軍し、小競り合いとなる…この時は一旦兵を引いて、7月12日にあらためて出陣…その際、信長のいとこにあたる犬山城主織田信清が1000余騎の兵を出し、織田信長軍の味方に付き総勢3000余騎が浮野を中心に岩倉城主の織田信安と争い
信長軍は岩倉を迂回してその北側にある浮野で織田信清軍と合流し布陣…対する岩倉勢も3000余騎、人数的には互角の大戦が明け方から始まり激戦4時間ほど続いた…
最後には信長勢が勝ちを収め、翌日の首実検ではその数1250以上…
織田信長大勝利!
それにしても3000余騎の岩倉勢のうち首実検が1250以上…おおよそ、岩倉勢の4割の武士の首実検が行われたことになる計算…これは凄すぎる!!!
そんな案内解説板は、私が綴ったこのブログよりもウンと簡潔に…
浮野合戦関係略年表
「信長公記」について…
「のぶなが公記」じゃなかったんですね…ここで初めて知りました…
聖徳寺「信長と斎藤道三」の会見場所
「若き織田信長の主な戦い」
「浮野城」と「鶯池」
説明解説板は、たくさん、いたるところに
平成4年のNHK大河で、この地が紹介されたのでしょう…
この「首塚」に関係がなさそうですが
「ご存知ですか…新・青い目の人形」の案内板
「青い目の人形」とは昭和2年にギューリック1世が日米友好のために働きかけ、アメリカ合衆国から日本の小学校などに贈られた人形のこと…また渋沢栄一を中心として答礼人形と呼ばれる市松人形58体がアメリカに贈られた…しかし、当時は「日米親善の象徴」だった人形が太平洋戦争の頃には「敵国の人形」として思われたため、かなりの数が処分されることに…約12000体が贈られたのに、現存数は約300体ほどしか確認されていないとか…
そんな「新・青い目の人形」が尾張で初めて発見されたことを知らせる案内板
これが、「浮野古戦場跡」の片隅に紹介されていました…
さて、話を戻して
これが
「鶯塚(浮剕首塚)」
この地で、1250以上の首実検が行われたときくと…
もし晴れていても、ここに座って、ゆったりは、したくないかも…
それにしても、1250人以上の武士の眠る首塚にこの洋風な洒落たテーブルとチェアー…
なんだか…ちょいと異風景の感じも…苦笑
ここは古戦場跡…首実検の行われた場所…なのに…
この洋風のチェアーとテーブルはこの場に浮いてる気がする…
あ、ここは浮野だけに…か…笑