城跡マニアの私が今回訪問した城跡は
一宮市にある
下奈良城跡…
こんな住宅街の三辻のところに…
石碑とちょっとした解説板があるだけで、まわりに遺構は全くみられない城跡…
まさに、この石碑と案内板がなければ、誰もがここが城跡だったとは気が付かないほどの住宅地の中に
石碑と解説板がぽつんと
下奈良城跡の解説板
天正十二年(1584)、豊臣秀吉軍と、織田信雄・徳川家康連合軍が対峙した小牧・長久手の合戦のおり、尾張地方北部のこの地域は、両軍の最前線地域として、非常に重要な地域となった…江戸時代の他誌類や、村絵図に下奈良城の記載は見られないが、秀吉が下奈良に砦を普請させたという文書や、秀吉と信雄の間に講和が成立すると下奈良砦は破却され道具類が河田砦に移されたという文書があり下奈良にも、砦があったものと考えられる…
石碑は「春明郷土史研究会」によって建立されたもののようで
ちょいとググってみると、この下奈良城は1584年、羽柴(豊臣)秀吉軍と、織田信雄・徳川家康連合軍が対峙した小牧・長久手の合戦の際、徳川家康は小牧山城を本陣としていた…これに対し、大坂を出陣した羽柴(豊臣)秀吉軍は当初、犬山城へ入る…その時、尾張地方北部のこの地域が、最前線地域として、非常に重要な場所であるとされ、本陣を楽田城へ移すに当たり、小牧山城との間にいくつも砦を築いたそうで…この下奈良城も、その時に築かれた一時的な砦であったよう…
なので、築城はなんと、秀吉…
秀吉が下奈良に砦を普請させたという文書が残っているらしい…
まさか、こんな場所で、秀吉が築城した城に巡り合えるとは…
さらに戦いの後、秀吉と信雄の間に講和が成立すると下奈良砦は破却され、道具類が河田砦に移されたという文書もあるらしい…
城跡のエリアにはこのような資材が置かれていて
まさか、今度来た時には、この狭いエリアに「下奈良城」が建立???されてる訳…はないか…笑
さて小牧・長久手の合戦では羽柴(豊臣)秀吉軍の敗退…
この下奈良(しもなら)城で…戦況を窺いながら
羽柴(豊臣)秀吉は、もしも負けたら奈落の底へ…と思ったりしてたのでしょうか…
もしも奈落の底へ落ちたら…もしもならくのそこへ…
しもなら苦の底へ…下奈良、苦の底へ…
はい、戦いに負け、下奈良、苦の底へ…
このオヤジギャグは実に苦しい…この苦しさは、小牧・長久手の合戦における羽柴軍の想いと通じるところがあるかも…苦笑