8月9日(土)
暑い日でも、木陰に入ると涼しい。
ほっとして、目を木陰にやると陽の光が、頭上の樹の枝の隙間からこぼれ落ちる。
そして光は、葉の黒い影とキラキラと戯れて揺れる。
ああ、きれいだなあ。
木漏れ日・・ お好きな方は多いことだろう。
私も大好きだ。
十二ヶ岳で
今週木曜日の日経アートレビュー欄の巻頭特集は「木漏れ日」だった。
この「木漏れ日」という言葉は、外国語にはなかなか訳語が見当たらないらしい。
日本人にはたった4文字で伝わるその情景は、日本の里山に深く根ざしているという。
雨量が多い日本の土地は、放っておけば森林になっていく。この森の国で人々は原生林に立ち向かい、太陽光に満ちた生活圏を切り開いてきた。下草を刈り、低木を除き、高木を間引きして生み出してきたのが里山だ。
里山は建材や薪、キノコ類などが採れる恵みの森。その森の樹齢20年ほどで伐採される比較的若い木々の枝葉から、降り注ぐのが木漏れ日だ。
日本人は、木漏れ日の情景が好きだ。
光の芸術といわれるルノワールやモネなど印象派の絵画が日本で人気が高いのも、そんな国民性と無縁ではないらしい。
「陽光の中の裸婦」 Torse de femmme au solei
▲ 木漏れ日に輝く女性を描いたルノワールの傑作とされる。画題に、au solei(日だまりの)とはあるが、木漏れ日という言葉は無い。それもそのはず、フランス語や英語にはこの情景を一語で言い表す言葉がないのだ。
だが、日本人は異国の絵からも直感的に光のまばゆさを感じ取り、共感する。
日本人の木漏れ日感は、黒沢明の「羅生門」にそのまま表されている。
▲ 左は、冒頭のシーン。志村喬の扮するキコリが、夏の木漏れ日を浴びて森の中をどんどこ分け入って行くところから始まる(原画が古くてすみません)。ボレロの音楽とともに、光と闇が後ろに飛ぶように流れていき、観る人の不安感は高まっていく。右は、木漏れ日の下で人妻役の京マチ子が三船を意思に反して受け入れていく場面。
黒沢明は、木漏れ日が妖しくきらめくさまを要所にはさみ、登場人物の揺れ動く心などを表現した。直射光の撮影はそれまでタブーだったが、世界はかえってその映像効果の斬新さに驚いたという。その着想の背景には、木漏れ日に近い日本人の暮らしがあったのだろう。木漏れ日は日常性を現わすとともに、心の闇ともいうべき非日常をも表す。奥が深い。
私も、木漏れ日が大好き日本人。
光と影の混在する写真は一般的に映えるが、中でも木漏れ日の光と影は、陽光の明るさを際立たせて、「希望」みたいなものを感じさせてくれて好きだ。
で、ごたくはここまで(笑)。
ブログから「木漏れ日のベストファイブ」を選んでみた。(ホントきみは暇、好きだね)
第一位 里山の木漏れ日
当然でしょ、これは。写真は群馬県小野上の低山・十二ヶ岳に登った時のもの。
ブナ、クヌギ、ナラといった里山に典型的な低木で覆われている。
山歩きをしていると、上から陽がさし木々が光っているところがよくあるよね。
そんな時、上を見上げてみよう。
緑の中にチラチラする木漏れ日が、網膜にいつまでも輝いて残るよ。
関連日記: 「群馬小野上、12ヶ岳登山」13.6.8
第二位 スキー場の木漏れ日
これは、鹿島槍スキー場のう回路を滑っていった時。
林道とかオフピステは、天気が良ければ木漏れ日をいっぱいに楽しめる。
白いキラキラ雪面に木々の黒影が映り、上は青い空。木漏れ日も私も躍動する。
たまらない美しさ。
関連日記: 「若くて凛な 鹿島槍スキー」13.1.4
第三位 寺社参道での木漏れ日
寺社の参道には、両脇に高い杉木立が植えてあるところが多い。
そこに朝など陽光が差し込むと、神々しくも清々しくなる。
これは、戸隠神社奥社の参道。杉の香りとともに、光り輝く参道だった。
関連日記: 「戸隠古道トレッキング」11.11.4
第四位 秋の木漏れ日
木漏れ日は陽の光だから基本的には明るいイメージだ。
しかし、秋の木々からこぼれ落ちる陽の光は、どこか弱弱しい。
落ち葉とともに、光と影の織りなすシルエットは美しい。
美しいが、どこか消えていく美しさだ・・
近くのI 公園で。
関連日記: 「晩秋の公園、ポロンと」12.11.16
第五位 自宅裏の木漏れ日
今は亡き(無き)自宅裏の雑木林への思い出を込めて。オマージュ。
早朝に朝陽が差し込んだところを2階から眺めた。
私の住んでいるところは、いわゆる武蔵野の端。小さな森や林が点在している。
しかし残念だが、宅地化の波はここにもきた。
関連日記: 「朝」 11.6.25
もっと木漏れ日の写真が収蔵されているかと思ったが案外少なかった。
木々と光と影がそろったシーンは難しいのか、私が鈍かったのかもしれない。
これからは、もう少し意識して木漏れ日の魅力を探してみようと思う。
暑い日でも、木陰に入ると涼しい。
ほっとして、目を木陰にやると陽の光が、頭上の樹の枝の隙間からこぼれ落ちる。
そして光は、葉の黒い影とキラキラと戯れて揺れる。
ああ、きれいだなあ。
木漏れ日・・ お好きな方は多いことだろう。
私も大好きだ。
十二ヶ岳で
今週木曜日の日経アートレビュー欄の巻頭特集は「木漏れ日」だった。
この「木漏れ日」という言葉は、外国語にはなかなか訳語が見当たらないらしい。
日本人にはたった4文字で伝わるその情景は、日本の里山に深く根ざしているという。
雨量が多い日本の土地は、放っておけば森林になっていく。この森の国で人々は原生林に立ち向かい、太陽光に満ちた生活圏を切り開いてきた。下草を刈り、低木を除き、高木を間引きして生み出してきたのが里山だ。
里山は建材や薪、キノコ類などが採れる恵みの森。その森の樹齢20年ほどで伐採される比較的若い木々の枝葉から、降り注ぐのが木漏れ日だ。
日本人は、木漏れ日の情景が好きだ。
光の芸術といわれるルノワールやモネなど印象派の絵画が日本で人気が高いのも、そんな国民性と無縁ではないらしい。
「陽光の中の裸婦」 Torse de femmme au solei
▲ 木漏れ日に輝く女性を描いたルノワールの傑作とされる。画題に、au solei(日だまりの)とはあるが、木漏れ日という言葉は無い。それもそのはず、フランス語や英語にはこの情景を一語で言い表す言葉がないのだ。
だが、日本人は異国の絵からも直感的に光のまばゆさを感じ取り、共感する。
日本人の木漏れ日感は、黒沢明の「羅生門」にそのまま表されている。
▲ 左は、冒頭のシーン。志村喬の扮するキコリが、夏の木漏れ日を浴びて森の中をどんどこ分け入って行くところから始まる(原画が古くてすみません)。ボレロの音楽とともに、光と闇が後ろに飛ぶように流れていき、観る人の不安感は高まっていく。右は、木漏れ日の下で人妻役の京マチ子が三船を意思に反して受け入れていく場面。
黒沢明は、木漏れ日が妖しくきらめくさまを要所にはさみ、登場人物の揺れ動く心などを表現した。直射光の撮影はそれまでタブーだったが、世界はかえってその映像効果の斬新さに驚いたという。その着想の背景には、木漏れ日に近い日本人の暮らしがあったのだろう。木漏れ日は日常性を現わすとともに、心の闇ともいうべき非日常をも表す。奥が深い。
私も、木漏れ日が大好き日本人。
光と影の混在する写真は一般的に映えるが、中でも木漏れ日の光と影は、陽光の明るさを際立たせて、「希望」みたいなものを感じさせてくれて好きだ。
で、ごたくはここまで(笑)。
ブログから「木漏れ日のベストファイブ」を選んでみた。(ホントきみは暇、好きだね)
第一位 里山の木漏れ日
当然でしょ、これは。写真は群馬県小野上の低山・十二ヶ岳に登った時のもの。
ブナ、クヌギ、ナラといった里山に典型的な低木で覆われている。
山歩きをしていると、上から陽がさし木々が光っているところがよくあるよね。
そんな時、上を見上げてみよう。
緑の中にチラチラする木漏れ日が、網膜にいつまでも輝いて残るよ。
関連日記: 「群馬小野上、12ヶ岳登山」13.6.8
第二位 スキー場の木漏れ日
これは、鹿島槍スキー場のう回路を滑っていった時。
林道とかオフピステは、天気が良ければ木漏れ日をいっぱいに楽しめる。
白いキラキラ雪面に木々の黒影が映り、上は青い空。木漏れ日も私も躍動する。
たまらない美しさ。
関連日記: 「若くて凛な 鹿島槍スキー」13.1.4
第三位 寺社参道での木漏れ日
寺社の参道には、両脇に高い杉木立が植えてあるところが多い。
そこに朝など陽光が差し込むと、神々しくも清々しくなる。
これは、戸隠神社奥社の参道。杉の香りとともに、光り輝く参道だった。
関連日記: 「戸隠古道トレッキング」11.11.4
第四位 秋の木漏れ日
木漏れ日は陽の光だから基本的には明るいイメージだ。
しかし、秋の木々からこぼれ落ちる陽の光は、どこか弱弱しい。
落ち葉とともに、光と影の織りなすシルエットは美しい。
美しいが、どこか消えていく美しさだ・・
近くのI 公園で。
関連日記: 「晩秋の公園、ポロンと」12.11.16
第五位 自宅裏の木漏れ日
今は亡き(無き)自宅裏の雑木林への思い出を込めて。オマージュ。
早朝に朝陽が差し込んだところを2階から眺めた。
私の住んでいるところは、いわゆる武蔵野の端。小さな森や林が点在している。
しかし残念だが、宅地化の波はここにもきた。
関連日記: 「朝」 11.6.25
もっと木漏れ日の写真が収蔵されているかと思ったが案外少なかった。
木々と光と影がそろったシーンは難しいのか、私が鈍かったのかもしれない。
これからは、もう少し意識して木漏れ日の魅力を探してみようと思う。