白山登山を無事終えて、クルマの中で30分ほど休憩。
淹れたフレンチローストを飲み干したあと、向かったのは勝山。
勝山はボクの生まれた町。
別当出合駐車場から40km、山間を走って1時間で到着した。
▲ ソースカツ丼とおろし蕎麦のセット。
勝山の立ち寄り温泉「水芭蕉」で入浴後は、このソウルフードを食べなくては(笑)。
溢れはみ出るソースカツに大満足。
9月15日(金)
翌日は、勝山市の山近くにある白山平泉寺(へいせんじ)へ向かった。
勝山にボクがいたのは、小学校の1年まででそのあとは福井市内へ移った。
平泉寺の名前は当然聞いていた。
しかし、平泉寺が霊峰白山とは切っても切れない関係にあるとは、恥ずかしながら山に登るまで知らなかった。
これは平泉寺へ訪れなくては。
▲ 長い参道を上がっていく。
石畳の脇には苔がむして、杉の大木が立ち並んでいる。
▲ 参道脇に少し入ったところに、御手洗池(みたらしいけ)がある。
実は平泉寺は、養老元年(717年)にあの泰澄(たいちょう)大師が白山に登ろうとして開いた所だ。
▲ この池のかたわらで泰澄が祈っていると、白山の女神が現れ白山に登るように示されたという。
この池は「平清水(ひらしみず)」「平泉(ひらいずみ)」と呼ばれ、「平泉寺(ひらいずみでら)」になり、いつしかヘイセンジと音読みになったそうだ。
その後、平泉寺には修行者のための宿坊、白山を礼拝する拝殿や寺院が立ち並び発展した。
さあ、どんどん参道を上がっていこう。
▲ 二の鳥居。
鳥居の額の上には屋根がかかっている。
神仏習合の名残らしい。1777年のもの。
正面の拝殿を過ぎた裏には、
▲ 本社。
白山・御前峰の神・仏を祀る。
その本社の左右には
▲ 左:越南知社(おおなんじしゃ)大汝峰の神仏を祀る 右:別山社 別山の神仏を祀る
三つの祠が立ち並ぶ。
▲ 今度は側道に出て、さらに登っていくと
つきあたりの三の宮の左手には
▲ 白山禅定道の入り口が現れた。
▲ 禅定道(ぜんじょうどう)とは、修行で白山へ登るために開かれた登山道だ。
白山への禅定道は三本ある。
この平泉寺を起点とする越前禅定道。
石川県からの加賀禅定道、岐阜県からの美濃禅定道だ。
ついでに、平泉寺と白山との位置関係を高空写真で見てみると、
▲ まあ、いかにも白山への禅定道は遠いことよ。
ボクが登った別当出合・砂防新道コースの比ではないな。
平泉寺で、近年もっとも注目されていることは寺社・参道の両脇の宿坊跡の発掘だ。
鎌倉・室町時代の頃には、平泉寺は一大宗教都市だったことが分かってきたのだ。
▲ 平泉寺は最盛期には、社堂48社36堂あり、両脇の地にはなんと6千の僧坊があったようなのだ。
僧坊地区にはこのような石畳の通路、そして通路の両サイドには石垣が積まれ塀が築かれた僧坊地区だったと推定されている。
▲ 左に排水路が作られ、石垣のうえには推定復元された土塀があった。
隆盛を誇った平泉寺だが、室町時代後期に一向一揆による焼き討ちで1574年には焼亡した。
一向一揆衆は、地元の村岡山に陣を築いており「村岡山」をその時「勝ち山」と呼んだ。それが勝山(かつやま)の地名の由来になったとか。知らなんだ。
もう一つ。
日本海の絶壁・東尋坊はよく知られたところだが、「東尋坊」とは平安時代の終わり、平泉寺にいた僧の名前。乱暴な僧であったため、同僚の僧達によりあの断崖絶壁から突き落とされたことに由来する。おおこわ、知らなんだ。
いやあ今回の旅では、ボクの故郷の福井県勝山市も単なる雪の多い山に囲まれた地区ではなくて、歴史の深い地域だということを初めて知って、誇らしい気持ちになった。
この日は、永平寺の近くに2年前にできた道の駅・禅の里へ移動。
温泉も併設されていてGoo。
道の駅には2泊して、17日に高校の同窓会に出席して今回の北陸への旅は終わった。
淹れたフレンチローストを飲み干したあと、向かったのは勝山。
勝山はボクの生まれた町。
別当出合駐車場から40km、山間を走って1時間で到着した。
▲ ソースカツ丼とおろし蕎麦のセット。
勝山の立ち寄り温泉「水芭蕉」で入浴後は、このソウルフードを食べなくては(笑)。
溢れはみ出るソースカツに大満足。
9月15日(金)
翌日は、勝山市の山近くにある白山平泉寺(へいせんじ)へ向かった。
勝山にボクがいたのは、小学校の1年まででそのあとは福井市内へ移った。
平泉寺の名前は当然聞いていた。
しかし、平泉寺が霊峰白山とは切っても切れない関係にあるとは、恥ずかしながら山に登るまで知らなかった。
これは平泉寺へ訪れなくては。
▲ 長い参道を上がっていく。
石畳の脇には苔がむして、杉の大木が立ち並んでいる。
▲ 参道脇に少し入ったところに、御手洗池(みたらしいけ)がある。
実は平泉寺は、養老元年(717年)にあの泰澄(たいちょう)大師が白山に登ろうとして開いた所だ。
▲ この池のかたわらで泰澄が祈っていると、白山の女神が現れ白山に登るように示されたという。
この池は「平清水(ひらしみず)」「平泉(ひらいずみ)」と呼ばれ、「平泉寺(ひらいずみでら)」になり、いつしかヘイセンジと音読みになったそうだ。
その後、平泉寺には修行者のための宿坊、白山を礼拝する拝殿や寺院が立ち並び発展した。
さあ、どんどん参道を上がっていこう。
▲ 二の鳥居。
鳥居の額の上には屋根がかかっている。
神仏習合の名残らしい。1777年のもの。
正面の拝殿を過ぎた裏には、
▲ 本社。
白山・御前峰の神・仏を祀る。
その本社の左右には
▲ 左:越南知社(おおなんじしゃ)大汝峰の神仏を祀る 右:別山社 別山の神仏を祀る
三つの祠が立ち並ぶ。
▲ 今度は側道に出て、さらに登っていくと
つきあたりの三の宮の左手には
▲ 白山禅定道の入り口が現れた。
▲ 禅定道(ぜんじょうどう)とは、修行で白山へ登るために開かれた登山道だ。
白山への禅定道は三本ある。
この平泉寺を起点とする越前禅定道。
石川県からの加賀禅定道、岐阜県からの美濃禅定道だ。
ついでに、平泉寺と白山との位置関係を高空写真で見てみると、
▲ まあ、いかにも白山への禅定道は遠いことよ。
ボクが登った別当出合・砂防新道コースの比ではないな。
平泉寺で、近年もっとも注目されていることは寺社・参道の両脇の宿坊跡の発掘だ。
鎌倉・室町時代の頃には、平泉寺は一大宗教都市だったことが分かってきたのだ。
▲ 平泉寺は最盛期には、社堂48社36堂あり、両脇の地にはなんと6千の僧坊があったようなのだ。
僧坊地区にはこのような石畳の通路、そして通路の両サイドには石垣が積まれ塀が築かれた僧坊地区だったと推定されている。
▲ 左に排水路が作られ、石垣のうえには推定復元された土塀があった。
隆盛を誇った平泉寺だが、室町時代後期に一向一揆による焼き討ちで1574年には焼亡した。
一向一揆衆は、地元の村岡山に陣を築いており「村岡山」をその時「勝ち山」と呼んだ。それが勝山(かつやま)の地名の由来になったとか。知らなんだ。
もう一つ。
日本海の絶壁・東尋坊はよく知られたところだが、「東尋坊」とは平安時代の終わり、平泉寺にいた僧の名前。乱暴な僧であったため、同僚の僧達によりあの断崖絶壁から突き落とされたことに由来する。おおこわ、知らなんだ。
いやあ今回の旅では、ボクの故郷の福井県勝山市も単なる雪の多い山に囲まれた地区ではなくて、歴史の深い地域だということを初めて知って、誇らしい気持ちになった。
この日は、永平寺の近くに2年前にできた道の駅・禅の里へ移動。
温泉も併設されていてGoo。
道の駅には2泊して、17日に高校の同窓会に出席して今回の北陸への旅は終わった。