荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

「桜井の史跡と伝説」-33/山城守と山城姫の最後(円久寺・宮ケ崎)

2018年06月04日 | 散文
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。


33.山城守と山城姫の最後(円久寺・宮ケ崎)
天正年間の昔、宮ヶ崎の霊仙山に中川山城守親武が城主として城を構えていた。
山城守は武勇の誉れ高き河野18将の一人であったが、故あって僧となり、温泉郡の岩子山の麓に円久寺という寺を建立し、一族の菩提を弔った。
後に霊仙山に城を移し、同じ名の円久寺を建立し、薬師如来を奉安して深く信仰していた。
山城守は、体に恵まれていたが、腹痛と筋痛の為、常々苦しみ、不幸にして、天正5年(1577)6月7日に陣中にて病死した。
善政慕っていた村民は、彼の死を大変惜しんだそうです。
臨終に際し、薬師如来に腹痛筋痛に悩む者の為に、信者の身になって、お取次ぎをする旨の誓願をたてた。
その後、この薬師如来を山城薬師と呼んで、その加護を受けんものと参拝する者も多い。
{天正9年(1581)に山城守を想起して書いたと思われる肖像画がある。}
この山城守が、亡くなってからは、舎弟の常陸介豊澄が陣中指揮に当たっていましたが天正13年、小早川勢の攻撃を受け、遂に落城した。
その時、山城守の息女であった山城姫は、長刀を振りかざして奮戦し、敵を散々悩ましたが、力尽き自刃した。
時に28才であったと言われている。


<筆者>
既存の報告書を抜粋します。
上記、下記共に山城守親武の弟が登場します(上記:常陸介豊澄、下記:常陸介道任)が、その関係は私にはわかりません。


円久寺です。


由緒(円久寺の由緒書きより要旨抜粋)
「霊仙山城主中川山城守親武は、伊予の国を守っていた河野十八家の一族で松山の藤原村(今の伊予鉄市駅付近)に居住していたのであるが、河野本家の河野道直(道後湯築城主)の命により霊仙山城主として派遣されたのである。

親武が亡くなった後、弟の常陸介道任が後を継ぎ、霊仙山を守っていたのであるが、天正13年に来島通総の為に激戦回を重ね遂に落城され、逃げて讃岐に隠れており、30年後に大阪夏の陣で討ち死にした。

その墓所は当地になく所在不明である。」

「当時の戦いに参加した家来は、麻生・世良・渡辺・秋山・石丸・加藤・村上・長井家があり(筆者:この近隣の苗字ばかりです)、これらの家は後年戦火により荒れた寺の再建に尽くしたのである。」



尚、親武の娘は天正7年に亡くなられ、お姫さんとして南山腹にまつられている。」

境内の梅が満開です。


上記由緒を彷彿とさせる、矢竹が植えられています。


お堂に向かって歩いて行きます。


中川山城守親武をまつる「山城堂」です。


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「桜井の史跡と伝説」-32/霊仙山(宮ケ崎)

2018年06月04日 | 散文
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。


32.霊仙山(宮ヶ崎)
リョウセンザンと読むのは、印度のリョウセンという山に形どってつけられたと思われる。リョウセンとは仏教と深いかかわりのある語らしい。


<筆者>
たったこれだけでですので、過去の報告を添付します。

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