荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

「桜井の史跡と伝説」-27/呉器洗(地名・出土品)

2018年06月01日 | 散文
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。


27.呉器洗(地名・出土品)


昭和のはじめ頃、ある人がここを開墾中、石器は出土されたが、2本は石斧で、丸い皿のような物が5~6枚あり、このことより呉器洗とは食器を洗うという意味で、出土された石器は皿のかわりに使われていたものではないかと思われる。




又、この場所からは北宋銭が二十数種、リンゴ箱に一杯出土したが他の埋蔵品をふくんでなかったことから、何らかの目的で銭貨を蓄蔵したものではないかと推考される。


<筆者>
「25.七人塚」と同じく高麗池の奥です。


高麗池の土手で山菜取りをしていた人に聞いたけど分かりません。
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「桜井の史跡と伝説」-26/高麗池の由来

2018年06月01日 | 散文
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
記載の文章は、誤字脱字(けっこうあります)を訂正した他は原文ままです。



26.高麗池の由来

今から凡そ、1300年前、斉明天皇の時代、朝鮮は3つに分かれて戦い新羅は唐に、高麗、百済は日本へ救援を求め、日本から兵を出した。


その時、越智守興が兵を率いて出兵してが、戦に敗れ敵の捕虜となり唐につれていかれたが、すきをみて、家来2~3名と逃げ、九州にたどり着いた。


ちょうどその時、天智天皇が九州におられ、守興生還を非常に喜ばれ、守興に、今の朝倉を治めるよう命じた。


守興は、朝倉に来て、隣接する桜井も治めるようになった。




桜井は、大変よい処であるが水に乏しく、その当時、沢山来ていた帰化人の中より、トージさんと云われる高麗人をつれて来て、池を築いた所から、高麗池というようになった。


その時点では現在の池の3分の1程の大きさであったといわれ、のちに明治23年に改修され、200町歩の用水源となり、昭和29年の改修の時には、桜井町(合併前)が総事業費2,500万円余をもって、前改修時の2倍の貯水量をもつ現在の高麗池となった。




<筆者>
平成になっても改修されています。




土手の改修だと思います。
随分と分厚く立派になっています。


池下から見る土手です。
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