食堂を見学します。
「宣教師マッケーレウ゛は、明治25年(1892)に来日しました。そして、明治40年から太平洋戦争開戦の直前にアメリカへ帰国する昭和16年(1941)10月までの34年間を雑司が谷の地で暮らし、キリスト教の伝導に務めました。
明治時代の初めの日本は、近代化を指向した明治政府によって欧化政策がとられていました。そのため、欧州諸国との関係から、江戸時代まで禁教とされてきたキリスト教を許容しなければならなくなります。明治6年に切支丹禁制の高札が撤去され、制限つきながら信教の自由が容認されると、キリスト教は西洋文化の象徴と考えられるようになりました。宣教師たちは、その伝導者として受け入れられたのです。
しかし明治時代中期以降の日本は、大日本帝国憲法や教育勅語によって天皇主権の国家体制が確立する時期でもありました。また、幕末以来の不平等条約改正運動は、国内のナショナリズムを高め、外国人や外国の文化を排斥する運動につながりました。こうして、キリスト教はしだいに苦しい立場となっていくのです。マッケーレウ゛の来日は、このキリスト教苦難の時代と重なっています。
しかし、彼ら宣教師たちの活動は、社会救済事業や教育の分野で、日本社会に多くの影響を及ぼしました。キリスト教の影響を受けた人々の中には阿部磯雄、片山濳のように明治時代から大正時代にかけて、慈善事業を通じて社会主義運動を推進する原動力となる人物も現れます。
マッケーレウ゛は、昭和16年の帰国命令によって帰米した後、再び雑司が谷の地を踏むことはありませんでした。一方で、自国に帰省せず日本に留まった宣教師たちは、昭和20年8月15日の終戦まで、さらなる苦難の時代を迎えることになります。」