やって来ました大雄寺です。
ここは一度訪問したことがあります。
初冬に、ここの紅葉の見事さに惹かれて訪ねました。
そして、高橋泥舟の墓がありました。
板橋養育院に関する説明板もありました。前回訪問した時にも読んだと思いますが、当時は養育院に興味無かったのでしょう、全く記憶にありません。
改めて読みます。板橋の養育院跡地で読んだのと同じ内容です。最後に「義葬之冡」への順路が書かれていました。
説明板にある目印の大楠です。
案内に従ってここを左折します。
びっしりと墓が込み合った迷路のような墓地です。東京の墓地は狭い敷地に沢山の墓を造らざるを得ないのでこのように墓の間隔が狭いです。
ここでしょうか?「義葬之冡」と書かれています。
裏を覗いたら卒塔婆があって納得しました。ここです。
義葬冢から見る景色です。光溢れるも風が冷たい午後です。
「義葬」が分からなかったので色々調べていたら、こんな記述に出逢いました。結局、「義葬」の意味は不明です。
「養育院の最も古い史跡:
明治 6 年に建立の大雄寺の養育院『義葬之塚』について
稲松 孝思
東京都健康長寿医療センター
「養育院は明治 5(1872)年に創立された東京の福祉・医療施設である.当初は鰥寡孤独の人を収容す
る施設であったが,140 余年の歴史の中で各種福祉・医療施設に発展分化した.その歴史については,
養育院 60, 70, 80, 100, 120 年史が編まれており,大久保一翁,渋沢栄一がその設立・発展に大きく貢
献している.文献資料は一部が残されているものの,明治・大正期の建造物など,施設の多くが木造で
あり,関東大震災,先の戦災,施設の改築,引っ越しなどで形あるものは,ほとんど失われている.同
時期に渋沢が関与して創設された富岡製糸場が,今日,世界遺産として残されているのと好対照をなす.
そこで,僅かに残されている養育院史を語る,“形ある物”のうち,もっとも古い,谷中の大雄寺にあ
る『義葬之冡』について述べる.
明治 5 年 10 月,ロシア大公を国賓として迎えるに当たって,急遽収容された浮浪者を本郷の加賀藩
上屋敷の空き長屋(現東京大学医学部)に収容した事が,養育院事業のはじめとされる.五日後に収容
者は浅草溜に移され,長屋は事務所として使用されたが,その痕跡は無い.明治 6 年 2 月,上野の護国
院の一部(現東京芸術大学美術学部)を買い取って恒久施設を建設し,大久保一翁府知事が開院時に視
察しているが,その痕跡もない.漢方の町医 村上正名が任用され,健康問題に対応したが,同年 12 月
までに百余体の引き取り手のない遺骨があり,賄方赤井善蔵の菩提寺,台東区谷中の日蓮宗・大雄寺に
葬り,「義葬之冡」が建てられた.高さ 150 cm の扁平な角柱型の三段墓である.墓石の正面には『義葬
之冡』,背面には『明治六年癸酉始養窮民於養育院其死者葬此』と彫ってある.
寺の過去帳には 104 名の記載がある(名前のみで姓や年齢はなく,男 81,女 22,不明 1 名で,戒名は 6 名のみに併記されて
いる.なお,60 年史に記載がある 22 名の年齢をみると,1–20 歳 3 名,21–40 歳 11 名,41–60 歳 5 名,
61–80 歳 6 名,不詳 1 名である).この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である.長年,養育院
の都職員により,春秋香華を手向けられて回向されてきたが,平成 22 年に『養育院を語り継ぐ会』に
より,由来碑が立てられた・・・後略」