荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

源空寺墓所にて、

2021年03月22日 | 散文

伊能忠敬の墓にお参りしています。隣に、高橋至時の墓が有ります。

 

説明板も有ります。私的には無名ですが、偉人ですね。

 

隣には幡随院長兵衛の墓が有ります。

 

その隣が谷文晁の墓です。

 

 

墓の隣の石碑です。よく見ると、中央に人物、頂上付近に鳥の絵が描かれています。文晁墓石の関連です。

 

裏に回ってみました。文晁の墓です。

 

幡随院長兵衛の墓です。

 

高橋至時の墓です。

 

そして、伊能忠敬の墓です。

 

この辺りに日本全国測量の話が書かれています。

 

表側に戻りました。手前から、伊能忠敬、高橋至時、幡随院長兵衛、谷文晁の墓です。

これって、ヘンじゃないですか? 伊能忠敬と高橋至時は師弟なので、先に亡くなった先生の隣に並べで葬るのはまだ分かります。それでも忠敬が亡くなったのは先生のあと14年後です。ましてやそれ以外の人は死んだ年代も別々で、互いに縁もゆかりも無いのに、こうして見事に有名人が4人も並びますか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊能忠敬の墓を訪ねて源空寺

2021年03月22日 | 散文

新聞に促されて出掛けた門仲で、伊能忠敬の業績と銅像と、住居跡を勉強しました。今日は墓所を訪ねます。

 

伊能忠敬の墓は、たまたま行き当たって知っています。上野の源空寺です。20年ぶりくらいの訪問です。

 

門前には、幡随院長兵衛と谷文晁の墓がある事を知らせています。「幡随院長兵衛 江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。肥前唐津の士族で、幡随院の住職向導に私淑(一説には向導の実弟、または幡随院の門守の子ともいう)し、浅草花戸川に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたともいわれる。 当時町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭目となり、旗本奴の統領水野十郎左衛門と張り合ったという。この辺は多くの伝説と潤色で後世の人々にもてはやされているため、つまびらかにはできない。 慶安三年(1650)四月十三日、水野十郎左衛門のだまし討ちにあって没した。年三十六。」

「谷文晁 江戸後期文人画家。田安家の家臣で漢詩人谷麗谷の子である。名は正安、字は文晁のほかに子方、文五郎、号は画学斎、写山楼、文阿弥などといった。元・明・清画や狩野派、土佐派、文人画、西洋画など各派の手法を研究し画風を工夫し、関西文人画に対して江戸文人画壇の重鎮となった。門人として渡辺華山、立原杏所、高久靄崖ら多い。文晁の妻や娘も画家である。 文晁は松平定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿絵を描いた。このほか『名山図絵』『本朝画纂』『公余探勝図(重要文化財)』『五柳先生図』などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ていた。天保十二年(1841)十二月十四日没。年七十八。」

 

正門は閉まっている事が多いですが、角を曲がったこちらの門がいつも開いています。ただし、この塀の中に墓所はありません。

 

道路を隔てたこちらが源空寺の墓所です。

 

さて、こちらに来てやっと、伊能忠敬の墓が有ることが知れます。20年くらい前の私は、こちらを見つけたのでした。

 

振り返ると浅草の路地の向こうにスカイツリーが見えます。左手が源空寺の本堂の塀です。

 

両名の墓が有る旨を寺の正面に記載していないのは何故でしょうか?幡随院長兵衛なんてやくざ者よりよっぽど有名だろうに・・・。子供の頃、何度か幡随院長兵衛が主役の映画を観た記憶があります。たしかに「もてはやされて」いたように思います。こちらの方が有名なのかな? ところで、隣に書かれている「高橋至時」って、誰?

 

お参りします。伊能忠敬の墓です。

 

説明板があります。「伊能忠敬墓 墓石は角石で、正面に『東河伊能忠敬先生の墓』と隷書で刻む。

 

忠敬は延享二年(1745)神保貞の子として上総国に生まれる。名を三治郎という。のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斎と字し、東河と号した。 

五十歳の時、家督を譲り江戸に出て、高橋至時の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。寛政十年(1800)幕府に願い出て、蝦夷地(現北海道)東南海岸の測量に着手。以来十八年間、全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完のうちに文政元年(1818)四月十八日没す。享年七十四歳。 地図作成は、幕府天文方が引き継ぎ、没後三年の文政四年に完成。その地図は。『大日本沿岸奥地全図』という。また『日本奥地全図』『実測奥地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。わが国最初の実測精密図である。 平成七年三月 台東区教育委員会」 

 

出ました!「高橋至時」が。「よしとき」と読んで、伊能忠敬の先生でした。・・・失礼しました。

この話、続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする