荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

「渋沢栄一像」を探して/板橋養育院跡

2021年03月01日 | 散文

NHK大河ドラマに触発されて渋沢栄一を勉強中です。やって来たのは板橋区です。見当を付けた場所です。歩道の向こう側の公園に銅像がありました。方向音痴の私にすれば上出来です。

 

まだ春浅い公園に入って正面から眺めます。

 

説明板を読みます。「旧養育院長渋沢栄一像 日本の福祉・医療の原点である『養育院』は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を越えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の献金により建てられたのがこの銅像です。 帝展・文展の審査員も務めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で作られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。 

また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送のための交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至っています。 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史史料)となりました。 平成26年12月  板橋区教育委員会」

 

こちらにも説明板があります。題字は渋沢栄一書だそうです。「養育院本院の碑 養育院は、明治5(1872)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申『救貧三策』の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪問もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、養育院本院は上野(現東京芸大)、神田、本所、大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信により創設された七分積金が明治政府に引き継がれたもの)である。

養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、50有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。

 

養育院は鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次大戦後は、児童の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の育成など時代要請に応じて様々な事業を展開した。平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。

養育院に関する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。 なお、碑の『養育院本院』は渋沢栄一の墨跡を刻んだものである。 平成25(2013)年 養育院を語り継ぐ会 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。 地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター」

 

彼の業績は経済活動だけじゃなかったのですね。この養育院の話を初めて知りました。尊敬の念を持って改めて見上げます。

 

後ろからも見上げます。向こうに大きな建物があります。

 

養育院跡地に建つ「東京都健康長寿医療センター」です。

 

もう少し、渋沢栄一の足跡を探してみます。

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「大山遊座」から「ハッピーロード大山」へ

2021年03月01日 | 散文

目的があって久しぶりにやって来ました。「大山遊座商店街」です。

 

板橋区にある大きな商店街です。この商店街の再開発について、区役所と再開発工事を落札した企業対商店街の一部が、その方針について揉めているとのニュースを聞きました。

 

商店街を行くと踏み切りがあります。

 

東武電車が来ます。踏み切りの向こうはアーケードがある「ハッピーロード大山」商店街です。

 

遮断機が上がらないまま電車が行きます。けっこう頻繁に電車が往来します。

 

踏み切り脇にホームがあります。

 

過日の北池袋駅もそうでしたが、東武電車は踏み切りと駅が近い、こういう設計なのでしょうか?

 

アーケードの型式が変わっても「ハッピーロード大山」商店街が続きます。この辺りから再開発工事が始まっているようです。商店街側は、建てるビルの高さを初めその再開発方針に反対しているようです。さて、どう決着するのか・・・?

さてと、久しぶりにこの街に来て楽しんだのですが、実は「渋沢栄一」像を見る為なのです。これから真の目的地に向かいます。

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