作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

2024(令和6)年12月10日(火)晴れ、時々曇り。#「樋口陽一憲法学批判」

2024年12月10日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年12月10日(火)晴れ、時々曇り。#「樋口陽一憲法学批判」

 

久しぶりの日記。といっても先月の11月には、12日と18日とたった二日分だけれども、このブログ「作雨作晴」には投稿していました。けれども、プライベートなこともあって、日記・紀行Aのカテゴリーで上げていたから公開はしてはいませんでした。

だから、もともと更新も小まめに行うブログではなかったけれど、さらに歳が行くにつれて、確かに能力も──もともと能力とえるほどのものはないとしても──それもさらに低下してきているのかもしれません。

しかし、ともあれこんなブログ日記であっても、遠くに住む親族や親戚に対して、また、今は遠くに離ればなれに暮らすようになった知人、友人たちに対しても、この日記の投稿と更新は、その内容はとにかく、私の消息を知らせ、安否を確認してもらう伝手にもなりその役目も果たしていると思います。

ただ、たといこのブログに日記の記事としては投稿しないとしても、個人的にはパソコン上には日記アプリを通して、ほぼ毎日、日記を書いていることは書いています。

それは中学生の頃からの習慣で、パソコンやインターネットが出てくるまでは、ほんとんど大学ノートに記録していました。ただ、プライベートな問題や公開する価値や必要のことを思うと、時折、日記・紀行Aのカテゴリーで非公開で投稿するだけでした。しかし、これまでも気が向けば後からでも日付を遡って投稿したりしています。

それはさておき、久しぶりに日記でも投稿しようという気になったのは、今日の「このブログの人気記事」(私の記事にそのようなものがあるとして)の2番目に

「7月3日(金)のTW:#樋口陽一「憲法論」批判」

 という、ほぼ10年ほど前に書いた記事が上がっていたことからでした。(gooブログにはこの欄があるおかげで、折々に昔に書いた記事にさかのぼれます。)

その昔に投稿したツイッターの記事の中で、

「憲法学者たちの「平和主義」には何か狂信的なカルト的性格すら感じるのは私だけでしょうか。「樋口陽一氏の憲法論ノート(1)」 - 作雨作晴 blog.goo.ne.jp/askys/e/48c5dd…しかし残念ながら、それ以後に樋口陽一憲法論の批判は全然進んでいません。」

と書いていました。

樋口陽一氏は東京大学の名誉教授ですが、樋口氏「率いる」憲法学界や、いわゆる左翼と呼ばれる人たちや、さらに若者ら集団を挙げて、今は亡き安倍晋三元首相の改憲論や安保法制に対して、反対の論陣を張っていたことはよく知られています。また、東大法学部出身で、法政大学の政治学者である山口二郎氏は「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と言ったとか。

いずれにせよ、私は「現行日本国憲法」は極めて欠陥の多い(もちろん「それなりの意義」は認めているつもりですが)憲法だと考えており、したがって、その改憲か無効化を主張しています。それゆえ護憲論の立場に立つ「樋口憲法学」については基本的に肯定できないのは言うまでもありません。

私などは自慢ではないけれども、憲法学には全く素人で、能力的に「樋口憲法学」の足許にも遠く及ばないことはわかっています。私の「樋口憲法学批判」が一向に進まないのも私の無能力のせいでもあります。

とはいえ、「樋口憲法学批判」を進める意欲をなくしたもう一つの理由としては、憲法学者の樋口陽一氏が、故宮沢俊義氏の憲法論を引き継ぐ形で、「天皇ロボット論」を唱えていることを知ったこともあります。

これまでヘーゲル哲学を多少なりとも読みかじり、また、「立憲君主制」の必然性とその意義を主張するヘーゲルの「法の哲学」を支持する立場に立とうとする私にとっては、故宮沢俊義氏や樋口陽一氏の「天皇ロボット論」は「話」にもなりません。だから、

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/54Lvs0
を書いたり、
牧野英一 著『最後の一人の生存権』 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/SUvfxf)
の中で、

「今は亡き東大名誉教授の奥平康弘氏は「「天皇制」は民主主義と両立しない」と主張されていましたし、今なお憲法学の権威とされる樋口陽一氏は「天皇ロボット論」を唱えておられます。私などの立場からすれば、自著の憲法学術書をたとい背丈ほどに積み重ねられようと、こうした言説を主張される限り「樋口陽一憲法学」はそれ一発でアウト、と断ぜざるを得ません。ただ誤解のないよう言っておきますが、どのような言説、理論を主張されようが、それは彼らの「学問の自由」ではあります。」

などと書いたりしました。

いずれにせよ、少なくともこの問題については、私なりに決着がついており、「樋口陽一憲法学批判」に時間を浪費するぐらいなら、ヘーゲルの『法の哲学』の研究の方にこそ時間を振り向けたいと考えているからです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする