民主党の党首選挙(2)
もちろん、何も狂信的に何が何でも「党首選」を実行せよ、と言うのではない。
民主党の幹部が、直嶋正行政調会長が主張するように、本当に圧倒的な多数の支持を獲得できるリーダーで、その能力の評価において衆目の一致するところであれば、対抗馬がなく無投票で選出されると言うこともあり得るだろう。しかし、現在の小沢一郎氏は「民主党」のリーダーとして、真実の民主主義者であるといえるのか。そして、現在の民主党には小沢氏の民主主義者としての体質に異議を唱える論者は一人もいないのか。小沢氏に対抗して真実の民主主義者がどういう者であるのか、日本国民に範を示すために立とうという 覇気のある政治家は民主党の中に誰もいないのか。
現在の小沢民主党党首は、かっては自由民主党の幹事長として、自民党総裁選に出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄氏らを事務所に呼んで総裁選の実質的な権限を握るほどに、若くして権勢を振るっていた。小沢氏は故田中角栄氏の弟子もしくは申し子として政治家として成長したのである。その後、自民党を離党したが、また、イギリス議会に倣って国会に党首討論を取り入れたり、また濡れ手に粟のような現在の政党助成金制度の導入に能力を発揮し貢献したのも、この小沢一郎氏だった。
確かに小沢一郎氏は、青臭い書生派国会議員の多い現在の民主党の中では、かっての田中角栄氏を師として仰ぎその薫陶を受け、また大衆の機微をわきまえたいわゆる角栄流に日本的に有能な政治家ではあるだろう。だからこそ管直人氏や鳩山由紀夫氏らの支持を得るとともに、同じ民主党内の前原誠司氏らからは批判を受けている。
民主党と対抗する自民党においては、たとえレトリックにすぎないとしても小泉純一郎氏が、「自民党をぶっ潰す」というキャッチフレーズで登場し、郵政解散総選挙で、事実上自民党内のいわゆる「抵抗勢力」を排除して、曲がりなりも自民党内の道路族をはじめとする党内の利権構造にメスを入れようとした。たとえそれが中途半端に挫折に終わったとしても、自民党は旧来の利権政治家集団から脱して、国民政党に脱皮しようという片鱗は見えていた。それゆえにこそ当時は自民党も国民の一定の支持も集めたのである。そして、政策的にも心情的にも、民主党の前原誠司氏などは、氏の日常の言動から見ても、いわゆるこの「小泉改革」に共感するところが少なくないはずである。
それに対して、現在の民主党の党首小沢氏は郵政解散総選挙で自民党を離党した国民党の綿貫氏らと会談し、「郵政民営化を正すためにも政権交代を実現したい」と選挙協力を確認しあっている。そうした郵政民営化をご破算にする動きや農業の個別所得補償や子育て支援などの「バラマキ政治」に故田中角栄氏の旧自由民主党政治を髣髴させるものがある。だから、いわば前原誠司氏などの政治的な立場からすれば、民主党にあって小沢一郎氏は、故田中角栄氏の旧い自由民主党の政治体質を復元しようとしているようにさえ見えるにちがいない。
さらにまた、かっての戦後間もなくの自民党のボス政治家たちのように、小沢一郎氏がいわゆる「料亭政治家」の体質を抜けきっていないことがある。これは政策以前の政治家の体質の問題で、小さなことであるともいえるが、日本の政党政治は、酒席をはずしたところで、アルコールや酒と無縁のところで運営される必要がある。江戸期の大名や明治の元勲たちのように酒席に女を侍らして天下国家を語るような政治文化の名残から日本の政治は足を洗わなければならない。こうした点も小沢一郎氏が「新しい」民主党のリーダーとしてふさわしいか懸念する点である。
一方で、民主党内にあって小沢一郎氏に対抗する政治家として前原誠司氏らが取りざたされることが多い。この前原誠司氏について少し論及するなら、かって氏が民主党の代表の地位にあったときに、いわゆる「偽メール事件」で永田議員が辞職したときの前原代表の対応に見られたように、何よりも前原氏は戦後民主主義の申し子ともいえる。それゆえ前原誠司氏には戦後民主主義を歴史的に相対化する観点も能力もない。この点では、中途で哀れにも挫折したとは言え、少なくとも「戦後政治体制の脱却」をスローガンに掲げた安倍晋三前首相にすら及ばない。
「戦後日本の民主主義」を日本史や世界史の通史の中に、また、人類の全歴史から見たときに、どのように評価され位置づけられるかという、自己相対化の視点や能力が前原誠司氏にはほとんど欠けている。自己の生きる国土と時代を客観的に把握し相対化できないものには、その時代と国民の限界を克服することはできないのである。
何度も言うように、要は国民全体の民主主義における能力の問題である。民主主義が歴史的にその出自がプロテスタントキリスト教にあるのに、この根本的な事実さえも明確に自覚されていない。
だから、いくら民主党が分裂したからといって、そのことが直ちに真実の「民主主義政党」の誕生にはつながらない。最終的には「人」であり「人材」である。真の民主主義を能力として実行、実現できる人材なくして、いくら看板だけを新しく掛け替えても、その中身は旧態依然のままである。
比較的にも少なくとも国民が全体として真実の民主主義を体現できるようになるためには、その前提としてまず優れた思想家、指導者、哲学者たちによって国民に対して、真実の「民主主義の概念」が明らかにされていなければならない。
続いてその「正しい民主主義の概念」を学んだ教育者、政治家たちが、10年、20年、さらに半世紀、100年と倦まず弛まず国民に対して教育活動を行った成果として、大地に雨垂れが染みこむように、正しい民主主義の精神と方法が国民性や文化の一部としてようやく血肉となってゆくものである。
期待したいのは、現在の小沢民主党が真実の「民主主義政党」に変身して行くことである。しかし、これも砂漠に蜃気楼を見るようなものか。
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