作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

日々の聖書(1)

2006年11月15日 | 宗教・文化

日々の聖書(1)


聴く耳のあるものは聴くべし。(マタイ書第13章第43節)


青少年の頃より愛読してきた聖書は、今も、相変わらず私の座右にある。おそらくこれからも終生私の傍らにありつづけるのだろうと思う。

ただ最近、歳もとったせいか、日々の生活の中で聖書を繙読していて、感じたこと考えたことをもう少し簡単に記録してゆきたいと思うようになった。もう少し日常的に、「日々の聖書」という形で聖書についての「感話」というか感想を記録して行こうと思う。もちろん、宗教や哲学に関する学問的な個人的な研究も蓄積してゆきたいと思っている。だから、それら宗教や哲学に関する専門的な記事は、「海」や「夕暮れのフクロウ」といったブログに記録して行くつもりだ。
日々の生活の営みに忙しい人々にそれらが無縁であるとしてもやむを得ない。


それにしても最近、多くの不愉快な事件が、この日本社会にも著しく目に付くようになった。私自身は戦後の生まれであるけれども、おそらく、日本国民の質が、太平洋戦争の敗北を契機として、明らかに変質してきていると思う。戦前や明治期の日本人と明らかに異なってきているという印象をもっている。

よくなっているかと言うと、必ずしもそうはいえないと思う。最近の率直な感想として、一昔前よりも日本人の風貌に「品格と深み」がなくなってきていると思うようにもなった。もちろん、現在の若者たちにはそんな印象も自覚もないだろうと思うけれど、まあこれは、私のアナクロニズムがはなはだしいせいだけかも知れませんが。

たしかに現代の大人たちの多くは、自分たちの金儲けなどに必死で、青少年のことを決して本当に考えて行動しているとはいえない。むしろ、青少年たちが大人たちに金儲けの食いものにされている。


そうしたなかで私が青少年の頃より人生の指針としてきた聖書の言葉に、現代の青少年たちの目にも触れ耳にして、またそれが彼らの人生の何らかの指針にもなれば、決して無意味ではないとも思う。

幸いにして、こうしてブログなどの形で、容易に発信できる時代になったのだから、これを活用しない手もないだろうと思う。そこで、彼らの間に何らかの議論も広がれば、そして、それが少しでも将来の国家や国民の何らかに役立つならば、決して無意義ではないかも知れない。


「聴く耳のあるものは聴くだろう。」(マタイ書13:43)

 

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イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

2006年11月10日 | 宗教・文化

イエスの証明について―――ヨハネ書第五章第三十一節以下

もし私が私について証言するなら、私の証言は真理ではない。
私について証言する方は他にいる。そして、その方が私について保証される証しこそ真理であることを、私は知っている。
あなた方はヨハネの許へ人を遣わした。そのとき彼は真理について証しをした。
しかし、私は人からの証は受けない。それにもかかわらず、あなた方が救われるように、これらのことは言っておく。
ヨハネは燃えて輝く明かりだった。
あなたたちは、しばらくの間、彼の光の近くで楽しもうとした。
しかし、私はヨハネに勝る証言を持っている。
父が私に成し遂げるようにお与えになった仕事が、私が行っている仕事そのものが、父が私をお遣わしになったことの証しである。
そして、私をお遣わしになった御父ご自身が私についてお証しになっておられる。あなた方は父の声をかって聴いたこともなければ、その姿を視たこともない。
そして、あなた方の中に父の言葉を留めていない。というのは、父がお遣わしになったその人を信じていないからだ。
聖なる書を調べよ。その中にあなた方は永遠の命を得ると考えているからだ。まことに、それらは私について証しをするものである。
しかし、あなた方は命を得るために私のそばに近づこうとしない。
私は栄誉を人から受け取らない。
むしろ、あなた方の中には神への愛のないことを私は知っている。
私は父の御名において来た。しかし、あなた方は私を受け入れようとしない。もし、他の者が彼自身の名において来れば、あなた方は彼を受け入れるだろうに。
どうしてあなた方は信じることができるだろうか。お互いの栄誉は
受け取るのに、ひとり神からの栄誉だけは求めようともしない。
私があなた方を父に訴えるだろうなどと考えるな。あなた方を訴える者がいる。それはあなた方が信頼しているモーゼその人である。
というのは、もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方が彼の書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。

ヨハネ書第五章後半註解

イエスが神の子であることを、一体誰が証明するのだろうか。イエスがユダヤの人々の間に、みずから神の子と名のり、多くの奇跡を行われていたときである。みずから神の子と名のるこの驚くべきイエスの言葉をユダヤの人々が聞いたとき、彼らがイエスの言葉に反発したことは容易に察しつく。「彼はヨセフの息子のイエスで、我々はその父も母も知っている。」(第六章)イエスが神の子であるなど、信じることができようか、誰が、イエスの言葉が真理であることを証明するのか。

それについてイエスは自分勝手に神の子であることの証を行っているのではないと言う。自分で自分を証しするのは真理ではありえない。
そこでユダヤ人たちは彼らが信じていた洗礼者のヨハネの許に人を遣わして、彼の意見を訊こうとした。そのとき洗礼者ヨハネは「自分はメシアではない。御父は御子を愛してすべてをその手に任せられた。聖霊によって洗礼を授けるイエスこそが神の子である」と言って証言した。(第一章)

ここにイエスと彼に先行した洗礼者ヨハネとの人格的な思想的な類縁関係を見て取れる。

確かにヨハネは世の光ではあったが、しかしイエスは人間ヨハネによる証を求めなかった。イエスが神の子であることを証明するものは何か。それは死すべき人間などによって証をされるものではない。イエスはその証を人間に求めようとはしなかった。イエスはご自身の仕事がそれであると言う。イエスの言葉と行い、その全生涯が神の子であることを証しているという。

そして継いで、イエスが神の子であることは聖書が証明していると言う。このとき、まだ新約聖書は成立していなかったから、聖書とはモーゼの五書などをさすが、聖書の中に永遠の命があるとユダヤ人たちは考えて、熱心に聖書を調べていた。それをイエスは、自分を知ることが永遠の命を得ることであると言い、聖書はそれを証していると言う。

それなのに、人々はイエスのところに来ようとはしない。なぜか。それは彼らの心に神への愛がないからであり、人からの栄誉は求めるのに、ただひとり神からの栄誉は求めないからであるとイエス言う。イエスはただ神からの誉れのみを求めていた。その純粋と徹底のゆえに彼のみが神の子と認められた。

そして、同胞のユダヤ人からも受け入れられないイエスは、最後に、
ユダヤ人が砦と頼むモーゼ自身がユダヤ人たちの不信を告発するだろうと言う。モーゼの書いたのはイエス自身についてであるから、モーゼの書いたことを信じていないからこそ、イエスの語ることも信じられないのである。父なる神から遣わされた使命の孤独と悲しみをイエスはこのとき深く感じたことだろうと思う。

イエスのこの言葉は、もちろんイエスご自身の存命時だけの話ではない。イエスに出会うとき、イエスから人はすべてこのイエスの言葉をなげかけられる。
「もしあなた方がモーゼを信じていたなら、あなた方は私をも信じていただろうから。彼は私について書いたのだから。
それなのに、あなた方がモーゼの書いたものを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。」

06/11/14追加

イエスが神の子であることを証言するのは、こうして、それぞれの信仰者の精神であるが、ここでは神が、抽象的な父なる神としてではなく、神の子として、イエスという歴史的にして現実的な一個の人間として認識されている。だから、キリスト教の立場からは、イエスを知らない者は神を知らない。キリスト教だけが人間イエスのみを神の子として、神的な存在として認めている。

しかし聖霊が降った後は、神の子であることを証言するものは、イエスの業である奇跡ではもはやなく、イエスが真理であることについての人間の理性的な精神の絶対的な確信である。その確信は信仰する人間の精神そのものである。しかし、それはまだ信仰であり、絶対的な感覚的な確信であって、概念的な証明にまでは達していない。もちろんその証明は哲学の課題であって、宗教はただ人間の精神に神の表象を啓示し、人間の精神に神の精神を知らせ、その境地へと高めることにある。この信仰における知識の絶対性についての主観的な確信が証言となる。ただカトリック教においては教会の教義がその証言になる。

 

 

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経験科学と哲学

2006年11月07日 | 哲学一般

物理学や天文学、さらに数学などの科学と哲学の本質的な相違点はどこにあるのだろうか。かっては物理学や数学も哲学の一部門とされたはずだが、そうした学問領域は、特殊科学として独立し独自の学問領域を形成し、残された哲学は、普遍科学として、世界観や論理の問題を対象とする科学となった。

哲学が問題にするのは、世界観の問題である。それは物理学、数学、天文学など経験科学とどのように違うのか。

前回の「薔薇の名前と普遍論争」で、コメントをいただいたらくだ氏が取り上げていたフレーゲ氏などは数学者であるかもしれないが、哲学の立場、世界観の立場としては唯名論者であり主観的な観念論者であると思われる。

「ビッグバンの理論」などの研究を媒介にして、宇宙の成り立ちや構造を研究している物理学者や天文学者は、数式を使ってその世界像を明らかにしようとしている。しかし、どんなに複雑な数式を利用しようが、それらによって根本的な世界観が発展させられているわけではない。それらは本質的には経験主義的で非哲学的な単なる自然科学的理論にすぎない。

物理学者などは、「Αβγ理論」とか「ビッグバンの理論」とか「ヒモ理論」とか「くりこみ理論」とかを編み出して宇宙の起源と進化を説明した気になっている。彼らはそれで世界をわかったつもりで説明してみせるが、要するに、それらは宇宙の本質を説明する世界観ではなく、いずれは新たな学説に取って代わられる「仮説」に過ぎない。天文学者や物理学者たちは自分たちの経験主義的で非哲学的で有限な自然科学理論を絶対視しているにすぎない。「ビッグバンの理論」などはだから、その本質は聖書の「天地創造神話」の現代版に過ぎないと思っている。

前回の「薔薇の名前と普遍論争」で、分析哲学を学ばれている「らくだ氏」からいくつかコメントをいただきました。「普遍論争」などに興味のある人は、やや専門的かも知れませんが、覗いてみてください。 

       「夕暮れのフクロウ」


 

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『薔薇の名前』と普遍論争

2006年11月04日 | 哲学一般

 

もう何年が過ぎただろうか。『薔薇の名前』という小説が、世界的なベストセラーになり、また、ショーン・コネリーの主演で映画化もされたことが記憶に残っている。

この小説の主人公である修道僧アドソの師はイギリス人のフランチェスコ会修道士でバスカヴィルのウィリアムといい、同じイギリスのフランチェスコ会修道士で唯名論者として知られていたオッカムのウィリアムと友人であったという舞台設定になっている。そして、異端審問官であり学僧でもある彼はまた、イギリスの経験論の祖ロジャー・ベーコンにみずから弟子として私淑していることになっている。

この小説は小説家ならぬイタリアの記号論言語学者にして文献学者でもあるウンベルト・エコの手になる作品である。それは一見書籍誌らしい小説で重層的な構造になっているらしいことである。ヨーロッパの修道院や教会の建築のように、石造りの城郭のように堅牢な歴史の風雪にたえうる小説のような印象を受ける。

それにしても興味をそそられるのは、もちろんこの作品が文献学者が書いた小説であるといったことよりも、この小説の中で、主人公アドソの師バスカヴィルのウィリアムの友人として、実在の唯名論者オッカムのウィリアムが取り上げられていることである。

唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。

私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。

この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。

たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。

バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。

それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。

この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。

この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。

話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。

この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。

だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。

しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)

これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。

それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。

これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。

ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。

唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。

小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公の修道僧メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。

それにしても、小説『薔薇の名前』はまだ本格的には読んでいない。何とか今年中には読み終えることができるだろうと思う。書評もできるだけ書いてみたい。映画もDVD化されているので鑑賞できると思う。年末年始の楽しみになりそうだ。

写真の白バラはお借りしました。著作権で問題あれば、削除いたします。 





 

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