作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

日々の聖書(16)――イザヤ、異邦人の預言者

2007年07月06日 | 宗教・文化

日々の聖書(16)――イザヤ、異邦人の預言者

このように主は言われる。
律法を守り、正義を行なえ。
私の救いは間近く、私の裁きも明らかになる。

幸せである。
これを行う者、それらを堅く守る人の子、
安息日を守りそれを汚すことのない者、
その手を悪に染めない者は。

主のもとに集い来る異邦人の子たちよ。
言ってはならない。
主は自分たちを主の民から分け隔てられると。
宦官たちも語ってはならない。
自分たちは枯れ木に過ぎないと。

主は宦官たちに言われる。
安息日を守り、私を歓ばせることを選び、
私との契約を堅く守るなら、
我が家において、我が城の中で、
息子や娘たちに勝る分け前と名誉を与える。
私は彼らに永遠の名を与えて、切り離すことはない。

また、異邦人の子どもたちが、
主のもとに集い来て仕え、
主の御名を愛し、
安息日を汚すことなく守り、
私との契約を堅く守るなら、

私は彼らを私の聖なる山に導き、
私の祈りの家で歓びを与える。
彼らの完きいけにえと捧げ物は、
私の祭壇のうえで受け入れられる。
私の家はすべての人々のための
祈りの家と呼ばれるからである。

(イザヤ書第五十六章第1節~第7節)

主の救いと恵みは、たんにモーゼの律法がはじめて啓示されたユダヤ人に対してのみ賜るのではない。それは全世界の人々に対しても、すべての民族にも及ぶものであることを、イザヤはここで明白に告げている。

そして、イザヤはその救いと恵みが、ただ一人の選ばれた主の僕の苦難と死によってもたらされることも預言している。私たちの罪のすべてを、ただ一人の選ばれた主の僕が身代わりに担うことによって、そのことによって多くの者の罪が購われる。イザヤは先の第五十三章でこうしてイエスの生涯を預言し、イザヤは旧約におけるイエスの最大の証人になった。イザヤ書の第五十三章ほどイエスの出現を明確に預言している個所はない。

はじめはイスラエルの人々の教えに過ぎなかったモーゼの律法が、異邦人の、全世界の人々の教えとなることがこうして告げられる。一民族の特殊な宗教に過ぎなかった教えが、その偏狭な民族の限界を克服して、普遍的な宗教へと発展してゆく軌跡をここに見ることができる。モーゼの啓示がはじめてイスラエルの人々にもたらされて、一つの民族の特殊な教えに過ぎなかったのに、その民族の境界が乗り越えられることによって、この真理を信じる者はすべて救われるというその教えは全世界に、すべての民族に伝えられることになる。

預言者イザヤはその意味で旧約と新約とをつなぐ太い綱であり、それゆえに、ユダヤ人たちはこのイザヤ書を、とくに、そのイザヤ書の第二部をあえて取り上げようとしない。なぜなら、この個所のイザヤの預言によって、新約においてイエスの生まれ来るその必然性の証明をユダヤ人は認めざるを得ないからである。

モーゼの教えがイスラエル人のみならず、すべての国民の、すべての民族の教えとなることによって、あまたの特殊の中から普遍性の生まれ来る過程をこのイザヤ書第五十六章は明らかにしている。それはモーゼの倫理的世界が本質的に持つ普遍性のゆえである。イエスも、「天と地が消え失せるまで、モーゼの律法はその一点一画も消え失せることはなく、そのことごとくは成就される」(マタイ5:18、ルカ16:17)と語って、モーゼの律法の完全性、永遠性、絶対性を告げている。それゆえに、この地上にあるあまたの民族宗教の中で、ただモーゼの律法に連なる教えだけが、世界性を獲得し、時間と空間を超越して行く。イエスもまたイザヤの預言に深く通じることによって、自らの使命を自覚するに至ったに違いない。イザヤはこうしてキリスト・イエスの出現とその教えが異邦人たちに、全世界に伝わり行くことの証人となった。

 

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日本国の洗濯と人を見る眼

2007年07月03日 | ニュース・現実評論

後任防衛相は小池百合子氏 参院選前、首相に痛手(朝日新聞) - goo ニュース

 

日本国の洗濯と人を見る眼

指導者の資質として、まず第一に挙げるべきは、「人を見る眼」ではないだろうか。国家や企業などの組織の指導者は、自ら個別具体的な業務に直接従事するわけではない。指導者の仕事は、業務の分業に応じて、いわゆる人材として、それぞれにふさわしい能力を持った人間を見つけ選び出し、時には人材を育成して、適材適所に配備する。そうして、彼らをいわば道具として手段として用いて、国家なり組織なりの理念、目的を追求し、実現してゆくことになる。そのときに、指導者は瞬時にその人間の資質と能力を的確に判断する能力がなければならない。この能力がなければ、人材の適材適所への配置もできず、したがって、国家や組織の所期の目的も遂行することができない。指導者に必要な能力は、何よりも「人を見抜く能力」「人を見る眼」ではないかと思う。

安部晋三内閣が発足して、九ヶ月を経た現在、先に松岡利勝農水相が「緑資源機構」にからむ汚職疑惑で自殺し、そして、今度は久間章生防衛相が「原爆投下しようがない」発言の責任をとって辞任した。そして、その後任に、小池百合子首相補佐官(54)を充てることを決めた。4日の午後にも皇居で認証式が行われ、正式に就任するそうである。

このたびのこの安部首相の泥縄式の人事を見ても、安部首相の指導者としての「人を見る眼」に深刻な懸念を抱かざるを得ない。少なくとも、前の小泉首相のときは、幹事長に武部勤氏を据え、金融相、あるいは財務相には慶応大学の教授だった竹中平蔵氏を内閣に組み入れて、かねてからの持論であった「郵政改革」断行しようとした。また、作家の猪瀬直樹氏を道路民営化諮問会議の議員に採用するなどしてそれなりに事態の打開を図ろうとした。それらはいずれもきわめて中途半端な成果に終わったとはいえ、そこには小泉純一郎氏の「人を見る眼」というか直覚的な政治的な勘が、小泉氏なりの見識が働いていたと思う。

「英雄のみが英雄を知る」とか「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」とか「下僕に英雄はいない」ということわざがあるが、それらは要するに、人は誰でも自分の器量に応じてしか他人を判断できないということである。同等以上の人物については、判断能力は及ばない。これは類は友を呼ぶということでもある。ある人間を判断するのに、その人の奥さんや友達を見ればその人となりがわかるように、安部晋三氏の人としての資質は、安部内閣を構成する政治家たちを見れば大体わかる。そして、今回の新人事で、小池百合子新防衛相を通して安部首相を資質を見てみると、安部内閣の成立以降もこの九ヶ月ウォッチングを続けてきて、残念ながらもうこれ以上に、安倍晋三氏に期待はできないという思いが強い。

しかし、自民党に彼に代わる人材はいない。政界にもいるようには思えない。それほどに日本の政界には、いや政界だけではなく、ちょうど香川県の早明浦ダムのように、日本国全体に真の英雄が、すぐれた人材が枯渇し始めているのかも知れない。これこそ、日本国の真の危機というべきだろうか。

少なくとも一国の国防の軍事指導者は並みの人物で務まるポストではない。高度の見識、経験、能力を必要とする。国民から尊敬され憧憬される軍隊を持たない国家に品位と安定はない。その人事を誤れば、潜在敵国からは侮られ、同盟国からは不信を買い、部下の軍人武官からは軽侮を買って、その文民統治の原則にもひびを入れかねない。安部政権については「論功行賞のお友達内閣」とうわさされてもいるようだけれど、安倍首相の頭の中にある選択肢に、志方俊之氏や森本敏氏などの名前が浮かぶことはなかったのだろうか。人事に同じ失敗は許されない。

「日本国の洗濯」は他の誰かを指導者に選ぶことによって、また、もう少し遠い先の課題として、期待すべきかも知れない。さしあたっては、現在の自民党と公明党による連立内閣与党を、まず野に下して壊し、それを契機に、自民党を結党以前の自由党と民主党に分割分離して、自由主義と民主主義の理念の実現を、それぞれ自由党と民主党に担わせる。それによって、日本においてもまともな政党政治を実現させてゆくことだと思う。来る参議院選挙を日本の政治の再編成の始まりにしたいものだ。日本の政治家たちにも、茶番劇のお笑いはこの程度にしてもらい、子供の政治から大人の政治へと、品位と落ち着きと本当のユーモアと余裕のある政治を早く見せてほしい。

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七月に入る

2007年07月01日 | 日記・紀行

七月に入る

今日から七月に入る。相変わらず「歳月は人を待たず」、「光陰は矢の如し」だけれども、おかげさまでとくに変わったこともなし。
その愚策のために国民をバブルで狂わせ、借金で甚大な被害を国民に残したまま政治家(※注 宮澤喜一元首相のこと)がまた一人この世を後にした。また、河野洋平氏の軽率であいまいないわゆる談話が、後々までも深く日本の国益を損ない続けているように、久間章生防衛相の無思慮な発言は、今後もアメリカの原爆投下の正当化に長く貢献し続けることになるだろう。軍隊に対する十分な指導力のない軍事指導者は、軍人からも軽蔑され、軍隊の市民統治の伝統に対しても信頼を揺るがすことになる。安部晋三首相の人間観と能力が問われている。

私自身は現代人の作る短歌にも、芭蕉の俳句などにもまったく興味はないけれど、西行の短歌だけは別である。『山家集』は季節の変わり目などに折に触れて開くことがある。そして、彼の本を開いてむなしく手ぶらで本を閉じたことはない。いつも、何がしかの感慨を味わって帰る。そうして、つまらない国家と国民を相手にむなしい思いをするときは、いつも音楽を聴いたり、西行の短歌や聖書を紐解いて自分を楽しませ永遠を思い、天空の星空を思い出して自分を回復する。カゲロウのように果敢なく短い生涯の時間は、できうる限り幼児のように天真爛漫に遊び心で楽しくすごしたいとも思う。他人は他人、自分は自分である。
「彼らの愛も、彼らの憎しみも、彼らの情熱もすべて、彼らとともに墓に葬り去られる。それらは二度と再び、陽の下に起きることにかかわることはない。」   (伝道の書9:6)

西行の和歌などを詠んであらためてわかることは、精神生活の進歩においては、科学技術の発達は本質的な意義を持たないということである。科学技術は、人間の口と腹の欲に奉仕するだけである。もちろん、それがまったく無駄であるというわけではないが、むしろ、それらは人間の動物的な欲望を先鋭化させ拡大することにしか役立たない。現代人が、北條時宗や道元、西行などの生きた鎌倉時代や、あるいはさらに、イエスやパウロ、ヨハネなどの生きたローマ帝国の時代から、精神的には爪の先ほども進歩していないこと、むしろ全般的に退歩していることを哲学は認めざるを得ないだろう。「人間と鉄の質は、時代が降るほど下がる」ということわざを、認めざるを得ないのかも知れない。「たたら」で造られた玉鋼と同じような鉄を、製鉄技術の発達した現代もなかなか作り出せないという。パウロやヨハネのような質の現代人が存在しないのと同じなのだろう。昭和、平成の御世の現代日本人が、なぜ江戸、明治の日本人に及びもつかないか、深く反省してみるべきであるとも思う。

   無常の歌あまた詠みける中に

844  いづくにか  眠り眠りて  たふれ伏さん  
              と思ふ悲しき  道芝の露

悟りに目覚めることもなく、このまま眠り呆けたまま、いずれはどこかの路傍にでも行き倒れてしまうことになるのだろうと思うと、つらく悲しい。私の生涯と身の上は、道端の芝の上に置かれた露のように哀れで果敢ない。西行がどのような気持ちで、日常作歌していたのかが伝わってくるような歌である。深く共感する。

847  大波に  引かれて出でたる  心地して
              助け舟なき  沖に揺らるる

これらの歌には、花や鳥や恋を歌うときの西行の高揚した気分とは異なって、人間の生存自体が本質的に持つ、不安や孤独と憧れがうたわれている。

気分転換に、YUTUBEでクリス・レアの「ジョセフィン」を聴く。ハードウェアを入れ替えたので、スピーカーの音は多少改善した。昔に学校の近所にあった下宿で知り合ったスウェーデンの女性が、ジョセフィンという名であったことの連想もあり、好きな曲の一つ。日本のロック歌手は、誰もみんな精神的に幼くてつまらない。

 

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