作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

2012年10月18日(木)ツィッターまとめ

2012年10月18日 | ツイツター

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RT @yamamoto7hei: 24】そして、反原子力教の方は「信」の肥大化によって「知にかかわる問題」まで「信」の問題としているから、その態度は改宗、転向の強制以外にあり得なくなるわけである。

posted at 22:33:15

日本国民と国家の安全確保を使命とする政府としては、日本が核非合法化署名を拒否するのも必然的な選択になる。単なる道徳論だけでは、世界史を生き抜くことはできない。>><<日本、核非合法化署名を拒否 国連委の16カ国声明 - 47NEWS- http://t.co/PlSijWQq

posted at 20:45:51

安倍晋三氏の最大の弱点は強力な経済ブレインをもたないこと。2007年の政権放り出しも三分の二は経済政策の失敗が原因。相続税問題もあったようだけれど。。>><<不死身?(トシ ヒコ作) 動く世相漫画 : 動画 - 47NEWS ーhttp://t.co/p8IcOEbM

posted at 20:35:19

安倍晋三氏は今度も経済政策で挫折する。小泉政権のように経済成長戦略に成功しないと長期政権はおぼつかない。もう一つの課題は少子化対策。経済政策の失敗に学んでいないから、短期政権だ。>><<余録:明治時代には政治を扱った絵すごろくがあった。… http://t.co/5BUtyYp3

posted at 20:30:48

民主党政権下で流産した「国家戦略室」をどのように総括されているのか、高田英樹氏の記録を読む。>><<「国家戦略室の挑戦 ~政権交代の成果と課題~」http://t.co/QPrsHqIK

posted at 18:42:55

民主党政権下で流産した「国家戦略室」をどのように総括されているのか、高田英樹氏の記録を読む。>><<国家戦略室について http://t.co/9CQUMNgs #r_blog>><<「英国財務省について」http://t.co/un91tCaN

posted at 18:39:19

国家の中枢機関としての意義をもち機能していたのは、小泉内閣時代の「経済財政諮問会議」だった。竹中平蔵と民間の有識者を活用した。民主党はこの「経済財政諮問会議」に何一つ学ばなかった。>><<国家戦略室について http://t.co/NJ9PkoGV #r_blog

posted at 17:51:29

たとい、「国家戦略局」といった大げさな名称でも、その意図するところはまちがってはいない。しかし、それを構成する公務員官僚、また、それを指揮指導すべき政治家の能力が貧困すぎて、結局流産してしまった。>><<国家戦略室について http://t.co/CspbgxeX #r_blog

posted at 17:32:28

民主党の国家戦略室の実体がどのようなものであったのか、調べたいと思っていた。実際にその運営に関与した若手官僚がその体験を発信してくれているのはありがたい。>><<高田英樹氏「国家戦略室について」 http://t.co/lvDCjQE2 #r_blog

posted at 17:26:29

人材欠乏症の民主党では絵に描いた餅にしかなり得なかったのは仕方はない。自民党でも国家の絶対的な中枢機関の確立は不可欠。><<抜擢された若手官僚が明かす挫折の軌跡「政権交代の目玉『国家戦略室』はなぜ政治主導の『司令塔』になれなかったのか」  http://t.co/wK1c45d1

posted at 17:20:12

多少なりとも期待していた民主党の「国家戦略室」が、民主党の退場とともに、惨めな結末を迎えようとしている。>><<抜擢された若手官僚が明かす挫折の軌跡「政権交代の目玉『国家戦略室』はなぜ政治主導の『司令塔』になれなかったのか」  http://t.co/wK1c45d1

posted at 17:17:29

パチンコ企業から献金を受け取っている政治家・官僚たちにパチンコの廃止はできない。政党助成金を受け取っているのだから、企業献金を禁止するべきだ。>><<石破自民幹事長:外国人企業が献金…6年間で75万円 http://t.co/S01dqx8G

posted at 13:36:10

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嵯峨野広沢池

2012年10月06日 | 日記・紀行

 

2012年平成24年10月6日(土)翳

 

岩倉あたりにまで出たときに洛西までの帰途は、その道筋の組み合わせから言えば無数にある。たいていは北山通りを利用するか、あるいは川端通りを使うか、あるいはその中間として堀川通りを使うか、そのいずれかでふつうは帰る。

高野川沿いを走って出町を過ぎ、東一条あたりをさらに川端通りを下り、丸太町通りに出て右折して帰る。このあたりの地理感は今も残っていてそれなりに懐かしい。けれどもこのコースは途中に信号待ちが多い。一番にスムースに走れるのは、宝ヶ池の国際会館前から狐坂高架道を抜けて北山通りへ出るコースである。京都を離れている間にこの高架橋はできた。

岩倉から松ヶ崎方面へ行くときはこの高架道を走るしかない。今日はこの道を辿った。木々がうっそうと繁っていた昔の狐坂のピンカーブの面影は今ではもう見ることはできない。残されて記憶に存在するだけだ。かっての狐坂の面影を少しでも偲ぼうと思えば、徒歩か自転車で旧道を辿るしかない。

どうせ人間は不可逆の時間を生きるしかない。どれほど地団駄踏んでも、歯ぎしりして泣いて悔しがっても過去は戻っては来ない。

紫野泉堂町から金閣寺前を抜けて衣笠宇多野線に乗る。少し翳の差す空模様の下で、金閣寺前には行楽客の人波が見られた。平日で連休前ということもあり混雑しているというほどでもなかった。行楽シーズンにはまだ間がある。

嵯峨野の広沢の池を右手に眺めながら走った。池の真ん中あたりに壊れたような和船が傾いたまま浮かんでいた。閑散としたボート乗り場の横の池辺に、ボートはすべて舫をつながれて揺れていた。もう今年の夏も遠く過ぎてしまったのだ。来年の夏は久しぶりに池でボートを漕ぐことはできるだろうか、忘れることさえなければ。長閑に静まりかえった嵯峨野を遠望しながら一路嵐山に向う。

 

 

 

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